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エルヴィーラたちは、逃げるコルホネンを馬で追っていた。
日は地平線の彼方に沈み、すでに壁蝕がはじまっている時間だ。
生き物たちは身を潜めているのか、暗い森の中は静まり返っている。エルヴィーラたちが操る馬の蹄の音ばかりが響きわたっていた。
エルヴィーラは、走って逃げるコルホネンを馬で追っている。
馬と人の足。その差は歴然で、言うまでもなくエルヴィーラたちが有利な状況のはずなのだが、しかし、中々コルホネンを捕らえることができずにいた。
何故なら、コルホネンがわざと背が低い木が密集している場所や急な斜面、地盤がゆるい泥地などを選んで逃げているため、かえって馬が不利となり、思うように近づけないのだ。
エルヴィーラたちも、先回りして道をふさぎつつ囲い込もうとするのだが、コルホネンは巧みに地の利を生かして包囲網をかわしていた。
森の中を必死に逃げるコルホネンの背中を、エルヴィーラは鋭く睨みつける。
(一連のコルホネンの動き…やはりどうもおかしい…。我々をどこかに誘導していると見て間違いなさそうだ。それに、先ほどの一件も気になる。先ほどのコルホネンの襲撃は、魔物の攻撃に紛れて行われていた。まさか人に魔物を操れるはずもないから、ただの偶然だとは思うのだが…。しかし何か腑に落ちない。偶然にしてはあまりにもできすぎている。あの時、いったい何が起こっていたというのだ)
常識的に考えるのなら、先ほどのコルホネンの襲撃は、あらかじめ魔法具を仕掛けておき、エルヴィーラたちを待ち伏せしていたと考えるのが妥当だろう。
そしてエルヴィーラたちがまんまとその罠にかかり、その時、不幸にも偶然魔物に遭遇してしまった。
コルホネンは、その偶然を利用しつつエルヴィーラたちを襲撃した。
そう考えれば筋は通るのだが、しかし、あの状況はあまりにも出来過ぎていた。
まるで、魔物たちがコルホネンに加担していたかのように思えてならないのだ。
一抹の不安が脳裏をよぎり、エルヴィーラは首を横に振る。
(偶然だ。そうだ、偶然に違いない。まさか人間に魔物を操れるはずもないのだから…。だが…いったい何なのだろうな…この嫌な予感は…)
エルヴィーラは言い知れぬ胸騒ぎを覚え、自然と表情を曇らせた。
先ほどコルホネンと戦った時の、コルホネンのあの慌て具合は素の反応だった。あれが演技である可能性は低い。
だが、逃げ始めてからのコルホネンの動きには、どうもきな臭い何かが感じられてならない。
それに、先ほどの魔物との偶然の遭遇にしても何か引っかかる。
(理屈をつけるのは難しいが、私の勘が危険だと言っている。やはりこれ以上の深追いは禁物かもしれない)
エルヴィーラは直感的にそう判断し、馬を止め、部下たちにも追跡をやめさせた。
(もし何か罠を仕掛けてあるのなら、是が非でも我々をそこに誘導しようとするに違いない。一度コルホネンの出方を見てみるとしよう)
そう考え、エルヴィーラは直ちに追跡をやめ、鋭い視線でコルホネンが消えた方向を見つめつつその場にとどまった。
すでに夜の帳の降りた森の中は暗く静かだ。
いつの間にか風が止み、動物の声さえ聞こえぬ静寂ばかりがあたりに広がる。
生暖かい夜気が沈殿する不快で不気味な夜だった。
(さあ、どうでてくるコルホネン)
エルヴィーラは忍耐強くその時を待っていた。
(くそ! あの程度の魔物を預けられたからといって、あの忌々しいエルヴィーラ・ベイルマンを殺せるはずもないではないか! この私を捨て駒にするつもりなのだな、ヨルマめ!!)
木々が深く立ち込める場所や足場の悪い急斜面を選びつつ、コルホネンは必死に逃げていた。
内心では、あらんかぎりの悪態をつく。
(おまけに、私が捕らえたはずのイリーナ・ベイルマンまで横取りしおって!!)
イリーナが緋の竜の手に落ちたのは偶然だったが、その功労者がコルホネンであることは間違いない。
しかし、今イリーナの身柄はヤンの保護下に置かれ、実質的にコルホネンは手柄を奪われた形になっているのだ。
ヨルマは、コルホネンにエルヴィーラをキッティラに誘き寄せる役割を与えた後、隙をみてエルヴィーラを殺すようにと命じてきた。
そして、コルホネンには数匹の魔物と、数人の部下とが貸し与えられたのだが、先ほどの戦闘でいずれももう死んでいる。
(あれっぽっちの人員でエルヴィーラ・ベイルマンを殺せなどと、はなから無理な話なのだ。使うだけ使っておきながら、こんなにも簡単にこの私を切るとは! 馬鹿にしおって!! これまで私が、どれだけ組織に貢献してきたと思っているのだ!? あの化け物たちのために、餌となる人間をたくさん捕まえてきてやっていたというのに!! たった一度の失敗でこの私を切るなどと、そんなことが許せるものか! このままにしてなるものか! 絶対に生き残って、奴らに目にものを見せてくれる!!)
息を切らしながら胸中で悪態をつていたが、やがて背後が静かなことに気づき、コルホネンは走りながら背後を振り返る。
いつの間にか、エルヴィーラの追跡は止んでいた。
コルホネンは足を止め、荒い息を吐き出しつつ周囲を見回す。
両肩が激しく上下し、あえぐような荒い呼吸を繰り返していたが、その目は力強い光を灯したまま周囲を警戒していた。
耳を澄ませ、馬蹄の音がしないことを確認すると、ようやく安堵の息を漏らす。滴り落ちる汗を手の甲で拭いつつ、苛立った様子で舌打ちをした。
(くそ! ニルス=アクラスに、エルヴィーラ・ベイルマンをぶつけてやろうと思っていたが読まれたか?)
ヤンがもたらした情報では、この近くにニルス=アクラスが潜んでいるはずだった。
ベルンハートを仕留める罠を、この近辺で仕掛けているはずなのだ。
(うまくいけば、エルヴィーラもそこに噛ませ、便乗して始末できるのではないかと考えていたが甘かったか…)
コルホネンは、ギリギリと奥歯を鳴らす。
(くそ! うまくいかないことだらけだ)
不満そうに地面をけり、足元の草を蹴散らした。
だが、しばし考え込んだのちに、やがてにやりと笑う。
「そうか…エルヴィーラ・ベイルマンがこのまま追跡をやめてくれるというのなら、私もそれに乗るまで。このまま逃げきればいいのだ。そうだ、パウルスたちからも逃げ切ってやろうではないか」
一人悦に入った様子で笑いだした。
やがて笑い声を収め、邪悪げに口角を吊り上げる。
「そして、あいつらに復讐してやる。このまま終わってなるものか」
そうつぶやいたその時のことだ――――。
不意に、辺りで獣の唸るような声が響きはじめた。
コルホネンは、はっとした様子で周囲を見回す。
すると、暗い森の奥からのそりと数匹のウァプラが現れた。
(なんだ魔物か…)
コルホネンは安堵の息を漏らす。そして自分の左腕をちらりと見た。
(裏切りを封じるための忌々しい刺青だが、この刺青のおかげで魔物に襲われずに済む。皮肉なものだ…)
コルホネンは内心でそんなことを思いながら、安心しきった様子で近づくウァプラを見つめている。
ウァプラは、ゆっくりと歩を進めてきた。
その様子は、まるで獲物の反応を慎重に見極めているかのようだ。
ウァプラが近づくさまを黙って見ていたコルホネンだったが、やがてコルホネンが怪訝そうに眉をひそめた。
ウァプラの警戒するような唸り声が止まないことに気が付いたのだ。
(なんだ…? いったい何を警戒している? これではまるで、私を襲おうとしているかのようではないか。だが、私には刺青がある。そんなはず――――)
そこまで考えてからはじかれた様に顔を上げた。
(っ!! まさか!?)
嫌な予感を感じたコルホネンは一歩後ずさる。その予感は当たっていた。
それを合図に、ウァプラが一斉に襲い掛かってきたのだ。
コルホネンは驚愕に目を見開き、慌てた様子で火界七位魔法を唱える。
「アラーユダ!」
炎が直撃し、ウァプラの体が燃え上がった。
たが、その炎をかわしたウァプラが、コルホネンに向かって飛び掛かってくる。
コルホネンは必死の形相で、今度は地界魔法で防ごうとする。
「デーヌカ!」
地界八位魔法を唱えて防御壁を作った。
数匹のウァプラが、土壁にぶつかってギャインと声を上げたが、しかし、またしても土壁をかわしたウァプラが、頭上からコルホネンに襲い掛かる。
「ロヴィアタル!」
「リュビ!」
階位を上げて、火界魔法を連発した。
だが――――。
それでも殺しきれなかったウァプラが、コルホネンの肩口に噛みついた。
バキリ
鈍く嫌な音を立てて、肩の骨が噛み砕かれる。
「ウガァァァ!!」
コルホネンは目を大きく見開き、獣のような苦悶の声を上げた。
「ま…マーリ!!」
息も絶え絶えに、聖界八位魔法を唱える。
砕かれた骨が治りはじめるが、しかし、回復したその端からすぐに別のウァプラが腕に、足に、背中にと続けざまに食らいついてきた。
コルホネンの顔が、痛みと苦しみと絶望とに塗りつぶされる。
バキリ ゴキリ ブチリ
不快な鈍い音が続けざまに響き渡った。
噛みつき、肉を千切られ、体を嬲り弄ばれ、意識が朦朧としはじめたその時、コルホネンは視界の端に見知った人物の影を捉えた。
茫洋としはじめていたコルホネンの目が、一瞬だけ怒りに染まって力が蘇る。
「に…にル…す…」
沸き上がる怒りに任せ、瀕死の状態でそこまで呟いたが、しかし、その輝きはすぐに失われた。
コルホネンは、最後まで名前を呼ぶこともできずに、その場にくずおれる。
力なく大地に投げ出されたその体は、ウァプラたちによって捕食された。
ブチッ
バキリ
骨を砕き、肉を噛み千切り、咀嚼する不気味な音が夜のしじまに響く。
むせ返るような血の臭いが立ち込める中、ニルス=アクラスは何の感情も宿らない虚ろな目でコルホネンの躯を見下ろした。
事切れたコルホネンの濁った目が空を見上げている。
ニルス=アクラスはそれを見届けると、コルホネンを貪り食うウァプラをそのままに、ひっそりと踵を返してその場を後にした。




