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四壁の王  作者: 真籠俐百
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 東壁の壁際には、険しい山が存在する。

 通称『死の山』と呼ばれる切り立った岩山だ。

 天を突くように聳え立つその山の頂上は石に覆われ、草木も生えぬような断崖絶壁。

 そこは生き物の気配など全く感じられない不毛の山だった。

 その山の頂上に、一人の男の姿がある。

 年のころは二十代後半といったところ。白磁のような白い肌に、黒髪、茶色の目をした美丈夫だ。

 男は、一見すると西壁人に見えるのだが、しかし、そうと断ずるには肌が白すぎた。通常西壁人の肌は、中央や東壁人のように、もっと黄色がかっているものなのだ。

 しかし、男の肌はまるで北壁人のように白い。

 あるいは西壁と北壁の混血なのかもしれないが、その外見からは判断がつかなかった。

 だが、男の纏う気配は明らかに異質で、人間離れしている。

 言葉にするのは難しいが、肌の下に赤い血の通っていることが想像できない、人間離れした冷たい気配をまとっているのだ。

 男はどうやって断崖絶壁の頂上に上ったものか、山上の絶壁に腰掛け、足を宙に投げ出してプラプラと揺らしている。

 一歩間違えば死んでしまうようなその状況に、男は微塵も恐怖を感じてはいない様子だった。

「そろそろ時間だな」

 にやりと笑って男が下界を見下ろす。

 周囲は黄昏に染まり薄暗かった。

 眼下に広がる広大な森――――夕暮れの壁の畔は、沸き立つ黒い靄のようにも見える。

「コルホネンが、エルヴィーラ・ベイルマンと交戦しはじめた頃だろう。そして、じきにニルス=アクラスの仕掛けた罠にベルンハートがかかる頃合い――――。さて、準備は整った。あとは祭りの開始を待つばかりだな」

 男は舌なめずりをしながら笑みをこぼした。

「祭りの最中なら、獲物の一匹や二匹、食ってもばれはしないだろう。極上の獲物をゆっくりと物色するか」

 男は崖の上で立ち上がる。

 そして、その身を虚空に投じた。

 その刹那――――。

 男の背中に、突如カラスのように黒い翼が出現する。

 男――――ヤンは、羽音を立てて薄暗い空を滑空し、悠々と飛んでいった。



 いよいよ壁蝕開始の時刻が迫る。

 湿気を帯びた熱風が吹き渡り、木々を揺らす中、ラウリは、茜色に染まった空を見上げていた。

 薄くたなびいた雲が、太陽の残滓を受け、赤く染まっている。

 風がザワザワと葉を打ち鳴らし、梢が音を奏でるその様が、どこか不吉さを覚えさせた。

(なんだろうな…この不快感は…。壁蝕で、こんな感情を抱くのははじめてだ)

 壁蝕の開始を前に胸騒ぎを覚えるのは、ラウリにとってはじめての事だ。

 じわじわと足元から這い上ってくる何かが体にまとわりつき、脳裏では絶えず警鐘が鳴り続けている。

(この言い知れぬ胸騒ぎ…。ベヘム卿の話は、やはり本当だったのか? 本当に、こんなはずれに強敵が出現する場所があるというのか?)

 最初にダニエルから話を聞いた印象では、件の場所はてっきり壁際の前線だとばかり思っていた。

 だが、今ラウリが配置されている場所は、壁からかなり離れた森のはずれ。

 戦術的に言うなら、前線で打ち漏らされた魔物を狩るための囲いを置くような場所であった。ラウリの予想からは大きく外れた場所だったのだ。

(こんな場所だったからキデニウス殿は兵の増強を渋ったのだな。だが――――)

 今は、ラウリもダニエルの勘を信じざるを得ない気配を感じとっていた。

 ラウリの側には、ダニエルに今回の件を報告したという魔術師タニヤ・カルペラがいる。

 ダニエルの話では歴戦の猛者という話だったので、どんな逞しい男かと想像していたのだが、実際に会ってみるとその印象はことごとく裏切られた。

 タニヤは女性の魔術師だったのだ。

 年齢は三十歳と女盛りを迎えていたが、短く切りそろえた髪に、凛とした印象を与える涼しげな目元、そして桜色の薄い唇。

 線が細く、女性らしさよりも、どこか少年のような中性的な魅力を醸し出す女性魔術師だった。

(私は性別で魔術師の技量をはかるつもりは毛頭ないが、おそらくカルペラ卿は、女性魔術師だったがゆえにこんなはずれに配置されることになったのだろうな)

 ラウリは、タニヤの横顔をちらりと見てそんな印象を抱く。

(だが、おかげでこの異変に気付くことができた。やはり女性の勘というのは侮れん)

 ラウリは、ザワザワと音を立てる周囲の森を、鋭い眼差しで睨みつけた。

(これは、間違いなく本筋だ)

 辺りには、ピリピリと張り詰めた空気が漂う。

 黄昏時で視界の悪くなった周囲に、タニヤの部下たちがたいまつを灯しはじめた。

「ギルデン卿」

 不意にタニヤが固い表情で声をかける。

「どうかいたしましたかカルペラ卿」

 落ち着いたラウリの声を聞き、タニヤは少しだけ緊張を解いた。

「ギルデン卿は、今回ダニエル様のご配慮により、我が隊に参加していただくことになったとか。こんな時ですが、隊を代表して御礼申し上げます。誠にありがとうございます」

 そういって頭を下げてから、再び硬い表情で顔を上げる。

「いたずらに脅かすつもりはないのですが…。今日のこの気配、ただ事ではありません。どうかお気を付けください」

 タニヤは、硬い表情で目の前の森を睨みつけていた。

 異様なこの空気を、タニヤもまた敏感に気付いているのだ。

 ラウリは、たいまつを灯し終えて戻ってきた兵士たちを目で追いながら口を開く。

 兵士たちも、尋常でない気配を感じ取っている様子で、表情は緊張にこわばっていた。

 ラウリは、タニヤの言葉に怪訝な表情を浮かべる。

 報告では、この周辺に強敵が出没するという話だったが、あくまでもそれは印象に過ぎず、報告も積極的に行われていたわけではなかった。

 だが、今の兵士たちやタニヤの様子には、明らかな怯えが見て取れる。

 実際のこの空気は、もはや印象を通り越し、正真正銘の異常事態を証明している。

 タニヤの言葉からも、それは承知出来ていた。

 にもかかわらず、報告では『印象』ということで、兵の増強をはっきりと望んではいなかった。

 今更ながら、ラウリはそこに違和感を覚えたのだ。

「カルペラ卿は、この辺りに強敵が出没するという印象を抱いたということでベヘム卿に報告しておられましたね。今までもこのような気配を感じ取っておられた訳ではないのですか」

(てっきり、この異様な空気を感じていたからこそ、ベヘム卿に報告していたのだと思っていたのだが、さっきの口調は、どうも違うように聞こえる。まるで、今回が特別の異常事態だと言っているかのようだった)

 タニヤは、説明が難しいというような困惑の色を浮かべつつ、視線を森の奥に向けたまま口を開いた。

「確かにそのような報告はしました。しかし、それは今のこの事態とは別件なのです。今日のこの空気は、いつもとは全く違っている。この不穏さは異常です。思い過ごしならばよいのですが、私には得体のしれない獰猛な獣が闇に紛れて隠れ、壁蝕が起こる時間を今か今かと待ちわびている。そんな印象を覚えてならないのです。何か良くないことが起こるのではないかと危惧しております」

「そうですね、私も同じ意見です。気を引き締めて臨むに越したことはありません。ところで少し話を戻しますが、では、ベヘム卿に報告したという強敵云々の話は具体的にはどのようなお話だったのですか? 私は詳細を聞いてはおりませんので、お聞かせ願えると助かるのですが」

 タニヤはうなずき、厳しい視線を森の奥に向けたまま続けた。

「我々の持ち場は、いつもこの周辺でした。壁蝕で、我が隊が狩るのはラウムやオロバスといった下位の魔物が多かったのですが、しかし、この数年、それらに混じりエリゴルが現れるようになりました」

 ラウリは驚きに目を見開いた。

(こんな外れにエリゴルが?)

 エリゴルは、二足歩行の半人半獣の魔物である。

 一般的に、動物に近い形の魔物は弱く下位の魔物と位置付けられており、鳥と獣が混じった魔物や、人と鳥、人と獣が混じったような魔物は中位の魔物に分類される。

 そして、二足歩行で人に近い容姿の魔物や、極端に大型の魔物などは上位の魔物と位置づけられている。

 ラウムは鳥に似た魔物、オロバスは馬に似た魔物で、両方ともが下位の魔物。

 だが、エリゴルは半人半獣――――つまり中位の魔物に分けられている。

 通常、壁を超えてくる魔物は、ほとんどが中位以下。

 稀に上位の魔物が壁を越えてくることもあるが、上位や中位の魔物は壁際で優先的に狩られるので、討ち漏らされてこのような場所に出没することはまずないのだ。

 にもかかわらず、中位の魔物がこんなはずれに出現する。

 それは明らかな異常事態だった。

 だが、そんなラウリの認識をタニヤが否定する。

「ああ、誤解しないでください。ギルデン卿が、東壁の現状をどれほどご存じなのか存じ上げませんが、今の東壁はひどい魔術師不足。実は中位の魔物がこの辺りに出現することは珍しくない事なのです。ですから、エリゴルの出現自体は、そう驚く出来事ではないのです」

 ラウリはまたしても驚きに目を見開いた。

 ラウリの驚きを承知しながらも、タニヤは続ける。

「ただそのエリゴルの力が、今までの我々に認識より強くなっている気がするのです。エリゴルは炎の魔法を使う俊敏な魔物。一般的には氷界魔法が有効ですが、なんというか…魔法が効きづらくなっている気がするのです」

「魔法が効きづらい? それは本当ですか?」

 どういうことかとラウリが怪訝な表情を浮かべた。

 タニヤも困った表情を浮かべる。

「これは、実際に対峙していただかねば伝えようがないのですが…手ごたえとして、今までよりも効きが悪く感じられるのです。同じ場所で何年も同じ敵を狩り続けてきたからこそ感じられる違和感とでもいいますか…。むろん私だけではなく、他の隊員も感じている違和感です」

 タニヤが周囲の魔術師に視線を向けると、硬い表情のまま魔術師たちはうなずいた。

「しかも、その違和感はここ数年の間、壁蝕の回を重ねるごとに強くなっている気がしてならないのです」

 ラウリは、口を引き結んで考え込んだ。

 タニヤはさらに続ける。

「私は、念のため他の場所を担当する魔術師たちに聞いて回ったのですが、他ではそんな現象は起きていませんでした。我々しか感じていない違和感なのです。つまり、この周辺で何か異変が起きているとしか考えられないのです」

「つまり、カルペラ卿はその違和感をベヘム卿に報告していたというわけですか」

「はい、そうです。ですが今日のこの空気は明らかに異質です。今までの壁蝕とは空気が全く違う」

 タニヤの声には、怯えの色が見て取れた。

 兵士たちも、固唾をのんで周囲を見回している。この場にいる全員が感じ取ることができるほど異質な空気が漂っているのだ。

 ラウリは、再び暗い森の奥に視線を向けた。

 急に風がやみ、恐ろしいほどの静寂が訪れる。

 まだ壁蝕は始まっていないというのに、森の奥に魔物が息をひそめて潜んでいるかのように感じられた。

 再び風が吹き渡る。

 ザワザワと梢が音を奏ではじめた。

 それは、不快感を煽るような陰気な音だ。

 ラウリは緊張した表情で森の奥を見つめる。

 先ほどタニヤが言ったように、薄暗い森の奥に隠れ潜む何かが、爪を研ぎながら、虎視眈々と時が来るのを今か今かと待ちわびている。そんな錯覚に、ラウリはとらわれた。


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