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四壁の王  作者: 真籠俐百
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 ウィルヘルミナは奇妙な感覚に囚われていた。

 何故なら、一度死んだはずの過去の姿に戻っていたからだ。

 それはウィルヘルミナとして生まれ変わる前の男だった頃の自分。

 体の中に病魔を住まわせ、常に死と隣り合わせだった頃の、あの時の姿だ。

 その世界には魔法もなければ魔物もいない。

 そこは、文化も生活水準もトゥオネラとは全く異なり、自由と安全を意識することなく享受できていた平和な世界だった。


「○※△!」

 ウィルヘルミナは、名前を呼ばれて振り返る。

 今では過去の自分の名前を思い出せないが、しかし、それが自分の名であることを知っていた。

「母さん、何?」

 振り返れば、ウィルヘルミナの前世の母親がいる。

 母の傍らには弟の姿があり、母はちょうど保育園から弟を連れ帰ってきたところだった。

「あのね、△※●をお願いしていいかな」

 そう言って、母は弟の背中に手を添える。過去のウィルヘルミナには、十四歳年の離れた弟がいた。

 こちらも同じく名前を思い出すことができないが、可愛くて仕方がなかったことだけは鮮明に覚えている。

「うん、いいよ」

 おいでと呼べば、弟はおとなしく母の側から離れ、笑顔でウィルヘルミナの元に走り寄ってきた。

 甘えるようにウィルヘルミナの足元にしがみつく弟の姿を見て、母は微笑みを浮かべる。

「それでね○※△、実は私、まだ仕事が残っていて…会社に戻らなきゃいけないの。それにお父さんも今日は遅くなるって、ごめんね。あと、夕飯なんだけど…」

 母が言いにくそうに言葉を濁す。

 ウィルヘルミナは、母の言わんとしていることを察し、ほほ笑んだ。

「うん、わかった。適当に作って食べさせておく。大丈夫だから」

 母は拝むように両手を顔の前で合わせた。

「ほんとごめん。体調悪いのにいつも押し付けちゃって。今度ちゃんと埋め合わせするから」

「いいって、いいって、気にすんなよ。今日は体調もいいし、大丈夫だから。それより仕事残ってるんだろ? 早く戻りなよ」

「助かる。本当にごめんね」

「わかったから、いってらっしゃい、気をつけて」

 母から弟の面倒をみるように頼まれ、ウィルヘルミナは笑顔で返した。

(これ高校生の頃のことだな)

 玄関から出ていく母の姿を見送りながら、ウィルヘルミナは、ぼんやりとそんな事を思う。

 これは体調が悪化し、高校を休学していた頃の出来事だ。

 ウィルヘルミナは気管支系の難病を患っており、小学校、中学校の頃は快方に向かっていたのだが、高校生になった頃、少し病状が悪化した時期があった。

 だが、それも一時的なことで、この後すぐにまた病状は落ち着き、一年の休学を経て一年遅れで高校を卒業することになる。

 今はちょうど、その辺りの時期なのだとぼんやりと理解した。

 気が付けば、両親はいつも必死に働いていた。

 直接言われたわけではないのだが、それはウィルヘルミナの病気の治療費を稼ぐためだったと子供ながらに理解していた。

 だからというわけではないのだが、ウィルヘルミナはすすんで家事全般をこなしていた。

 もしかしたら、両親の苦労に報いたいという気持ちが心のどこかにあったかもしれない。だが、ウィルヘルミナ自身は全く意識していなかった。

 気負っていたわけでもないのに、気が付いたら掃除、洗濯、料理、すべてが主婦顔負けというくらい卒なくこなすことができるようになっていた。

 それに、弟の面倒も全面的に引き受けていた。

 弟の事は目に入れても痛くない程可愛くてならず、世話を焼くことが全く苦にならなかったのだ。

 弟もまたウィルヘルミナに特に懐いていて、今もぐずることもなく出かける母親を見送っている。こんなに小さくても、たぶん親の苦労を肌で感じ取っているのだ。

 まだ三歳の弟が、甘えるようにウィルヘルミナの足にしがみつく。

 ウィルヘルミナは目を嬉しそうに細めて弟を抱き上げた。

「お母さんはお仕事に出かけたから、兄ちゃんと一緒にお利口さんに待ってような」

「うん。あのねおにいちゃん、ぼくホットケーキがたべたい」

「そうか、わかった。今からすっげーうまいやつ作ってやるからな、待ってろ」

 弟は重度の食品アレルギーだ。

 そのため、卵も牛乳も小麦粉も使うことはできない。

 だが、ウィルヘルミナは弟のささやかな願いをかなえるために色々と試行錯誤を重ね、今では米粉と豆乳、砂糖、コーンスターチを使って、美味しいホットケーキを作れるようになっていた。

「ぼくね、おにいちゃんのホットケーキがいちばんすき」

 にこにこと笑いながら頬に手を当てる弟の姿は、とても可愛らしかった。

「そーか、そーか、ありがとな。今日は豆乳のホイップもあるから生クリーム付だぞ」

「わーい」

 無邪気に喜ぶ弟の姿が、どうしようもなく愛しい。

 この笑顔を見るためなら、もっと頑張れるとウィルヘルミナはいつも思っていた。

 ウィルヘルミナの病気は、根治させることはできない。一生付き合っていくしかない病気だ。

 だが、病気を持って生まれてしまったことが、不幸だとは思っていない。

 この病気のおかげで気付かされたことや、得たものがたくさんあったから。

 それに、家族の事も大好きだったから、悲観するような姿を絶対に見せたくなかった。

 両親は、いつもウィルヘルミナを健康に生んでやれなかったことを悔いていたから。

 病気があっても、それを上回る幸せを与えてもらえた。だから両親を恨む気持ちなんて全くない。

 弟の事も愛しくて、邪魔に思ったことなど一度もなかった。

 叶うなら、もっと長く一緒の時間を過ごしたかった。

 そう、もっと長く一緒に、彼らと暮らしていたかったのだ。


 ウィルヘルミナの体調は、この後順調によくなり、無事高校を卒業した。

 父親の知り合いの会社に就職して、そこで普通に恋愛もし、それなりに未来への希望もあった。

 だが、たった一度の風邪がきっかけで、ウィルヘルミナの体調は一気に悪化した。

 医師には肺移植を勧められるほどの状態になり、それでもウィルヘルミナと家族は諦めず、移植の順番を待っていた。


 だが、もう一度健康を取り戻すことは叶わなかった。


(なんでこんな記憶を今になって思い出すんだ。もうあの頃には戻れないのに)


 弟のためにホットケーキを焼き、二人で楽しげに食べている光景を別人格のウィルヘルミナが見つめる。

 手を伸ばせば、すぐ届くほどの距離に弟がいるというのに、今はもう抱きしめてやることすらできないのだ。

 それが悲しかった。

(みんな今頃どうしてんのかな)

 ウィルヘルミナを大切に育ててくれた両親や、甘ったれだった弟の事を思い出すと、寂しくて会いたくてならなくなる。

(こんな思いをするくらいなら、もう夢なんて――――)

 そう、ウィルヘルミナはこれが夢であることを頭で理解していた。

 夢でしか会えないことがわかっているから、本音では何度でも夢に見たいのだ。

 ただ、起きた時に感じる喪失感がたまらない。

 もう家族には会えないのだと理解するあの瞬間が、辛くてならないのだ。

(ああ…起きたくないな…。まだこの夢に浸っていたい)


 だが、目覚めはもうすぐそこに迫っていた――――。


 ウィルヘルミナは、暗い寝室のベッドの上で目覚めた。

 目尻に滲む涙に気づき、慌ててごしごしと目元を擦る。

(くそ、夢を見て泣くなんて、ガキかよオレは)

 羞恥を覚え、乱暴に顔を擦った。

 しかし、その腕を掴む者がいた。

 ウィルヘルミナは、誰もいないと思い込んでいた自室で、誰かに腕を掴まれ、驚いて飛び起きる。

 掴まれた腕の先を視線でたどると、そこには見知った顔があった。ウィルヘルミナの腕を掴んでいたのはイルマリネンだった。

「げ!! サイコ!? なんでこんなところにいんだよ!!」

 イルマリネンは、不思議そうに首を傾げる。

「さいこ? 私の名はそんな名ではない」

 ウィルヘルミナは掴まれていた腕を振り払うと、距離を取ってベッドの上で仁王立ちした。

「知ってるよ! てか、なんでオレの部屋にいんだよ。どっから侵入しやがった!? なんでここに居る!?」

 イルマリネンは、ぱちりと目をまたたいた。

「そなたがなかなか呼んでくれないので、会いに来た。ウィルヘルミナ」

「馴れ馴れしく名前を呼ぶんじゃねえよ。つか、呼んでねえんだから勝手にくんな!!」

「だが、お前が悲しんでいる気配がした。だから来た」

 その言葉に、ウィルヘルミナは思わず言葉を飲み込んだ。

 夢を見て泣いていたのは事実で、知られていたことが気まずかったのだ。

「べ、別に悲しくなんてねえよ!」

「いいや、悲しんでいた。私にはわかる」

「は? お前にオレの何がわかるんだよ、ざけんな。つかほっとけ、おめーには関係ねえだろ」

「関係はある。お前が悲しいと私も悲しい」

「何言って――――」

 ウィルヘルミナは言いかけたが、それ以上言葉を続けることができなかった。

 イルマリネンに、ぐいと体を引き寄せられ、抱きしめられたからだ。

「悲しむな、ウィルヘルミナ。寂しいなら私が側に居る。大丈夫だ」

 イルマリネンが、ウィルヘルミナの背中をそっと撫でてやる。

 ウィルヘルミナの体が震えた。

 しかし、その震えは恐怖のために起こった震えだった。

「なにすんだよ、ふざけんな!!」

 ウィルヘルミナは全身に鳥肌を立てて叫んだ。全力で腕を振りほどいて思いきり後ずさる。

「きめーんだよ!! 気安く触るんじゃねえよ!! このロリコンサイコ!!」

 ウィルヘルミナが腹の底から叫んだ。

 その時の事だ――――。

 寝室の扉の向こうに慌てたような足音がして、続いてラウリの大声が聞こえてくる。

「どうした!? ウィルヘルミナ!?」

 ウィルヘルミナの大きな声を聞きつけ、ラウリたちがいち早く反応したのだ。

(やば!! 爺さん!)

 ウィルヘルミナはベッドから飛び降り、何と説明しようと右往左往しはじめる。しかし、想定外の事態に動揺していて、すぐには考えがまとまらなかった。

「大丈夫か!? 今行く!」

 無情にも、そんな声とともに足音はどんどんと部屋に近づいてくる。

(やっべ、家だって忘れてついでかい声出しちまった。どうする? なんて説明する? オレだってこいつの事何にもわかってねえのに、森で襲ってきた変態ですってか? 余計心配するよな。自分から説明させた方がいいのか?)

 うまいごまかしも思い浮かばず、そのうち蹴破らんばかりに荒々しくドアが開いた。

 武器を持ったラウリとイヴァールが、血相を変えて飛び込んでくる。

「無事かウィルヘルミナ!? いったい何があった!?」

 ウィルヘルミナは、血相を変えたラウリから気まずく視線をそらし、どうしようかとイルマリネンを振り返った。

 だが――――。

「へ? あれ?」

(あいつ、どこに行った?)

 ウィルヘルミナは驚き、きょろきょろと周囲を見回した。

 しかし、どれだけ探そうともイルマリネンの姿は部屋のどこにもない。

(うまく逃げたのか?)

 ホッと息を吐いたのもつかの間。

「いったい何があったんだ、説明しろウィルヘルミナ」

 きつく説明を求められ、ウィルヘルミナの顔は引きつる。

「えーと…それがその…。寝ぼけました? …とか?」

 引きつった笑いを浮かべ、なんとかごまかそうと試みた。



 その後、しばらくの間ラウリとイヴァールに質問攻めにされることになったが、なんとか寝ぼけたということで押し通すことに成功した。

 ウィルヘルミナにとっては不名誉なことではあったが、説明できないのだから自分が泥をかぶるしかない。

(あのやろー、今度会ったらただじゃおかねー)

 一人そう心に誓っていた。


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