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数日後、ウィルヘルミナとベルンハートは、ラハティ教会学校から派遣される後方支援部隊に参加し、パルタモを目指していた。
パルタモからキッティラへ荷物を運ぶことが、部隊の最初の任務なのである。
生徒たちには馬と馬車が用意されており、ウィルヘルミナとベルンハートは馬に乗って移動している。
主に、女生徒たちが馬車を利用していた。
付き添いの教師は三名おり、その中にはイヴァールの姿もある。他二名の教師は、ウィルヘルミナたちははじめてかかわる教師だ。
イヴァールとウィルヘルミナは、相変わらず一度の会話もないまま過ごしている。
ウィルヘルミナは、何か考えがあってのことだろうと察していたので、あえて接触を図ろうとはしなかった。視線すら合わせることなく他人のふりを決め込む。
おそらく、ベルンハートを除いて、二人の関係に気づいているものはいないだろう。
それくらい徹底して二人は他人のふりを決め込んでいた。
ウィルヘルミナは、馬に乗りながらぼんやりと視線を遠くに向ける。
夏本番を迎えた東壁の気候は、湿気が多くじっとりと蒸し暑かった。
それは、かつてウィルヘルミナが住んでいた日本に近い気候だ。
滲み出してくる汗を手の甲でぬぐい、胸元を指で引っ掛けてぱたぱたと風を送ってみるが、涼は取れない。
辟易した表情を浮かべ、日差しを手で遮りながら、目をすがめて空を振り仰いだ。
晴れた空を見上げていると、軽いめまいを覚える。
かつて過ごしていた世界と、変わることなく同じ色をした青空を見上げていると、ふいに、すでに失ってしまった過去の記憶がよみがえりそうになって、ウィルヘルミナは慌てて記憶に蓋をした。
ちりちりと胸の奥が痛み出したのを感じ、痛みに耐えるようにして目を細める。
(夕べ変な夢を見たせいだな。今は感傷に浸ってる場合じゃねえのに…。しっかりしねーと)
昨晩、ウィルヘルミナは再び前世の夢を見ていた。
頻度はそう多くないのだが、今でも時折こうして過去生の夢を見る。
すでに失ってしまった何気ない日々を、夢で見せつけられるたびにたまらない気持ちになった。
おかげで、目が覚めるといつもひどく落ち込む。これだけは、いつまでたっても慣れることができなかった。
(そういえば、夕べはイルのやつ来なかったな。ちゃんと約束守ってんだな)
このところ、時間を見つけては毎日呼び出しているので、心をのぞかないという約束をちゃんと守っているようだ。
(あいつ、いまいちわかんねー奴だけど、とりあえず約束は守れる奴なんだな。少し見直した)
ウィルヘルミナは、憂鬱な気分を振り払うように空から視線を外し、まっすぐ前を見据えなおした。
そんな姿を見て不審に思ったのか、ベルンハートが馬を寄せてくる。
「どうした、気分でも悪いのか?」
小声で問いただしてくるベルンハートに、ウィルヘルミナは慌てて首を横に振った。
(やっべ、へこんでるの顔に出てたかな。ベルに心配かけてる場合じゃねーのにな)
「いえ、大丈夫です。ご心配をおかけいたしました」
人目に配慮しながら答える。
だが、ベルンハートは、何か違和感を覚えているようで、不審そうにウィルヘルミナを見ていた。
「体調が悪かったらすぐに言え。休ませてもらえるように伝えるから」
「ありがとうございます。ですが問題はありませんのでお気遣いは無用です」
慇懃な態度で頭を下げる。
その態度に、見えない壁のようなものを敏感に感じたベルンハートは、続けようとした言葉を思わず飲み込んだ。
何か言いたげな表情でウィルヘルミナをじっと見つめる。
だが、ウィルヘルミナはそんな視線から逃れるように前を向き、再び馬を駆ることに集中した。
ベルンハートが、この後方支援部隊に強制参加させられることが知らされたのは、ほんの三日前のことだ。
後方支援部隊の話が発表された時に、能力のある生徒たちには、それぞれ内々に打診があったようで、参加の可否は生徒自身の判断にゆだねられていた。
同時に、公に対しては有志を募り、志願者の公募も行った。
しかし、ベルンハートだけは待遇が違っていた。
三日前にベルンハートに届いたものは『辞令』であり、後方支援部隊への参加は最初から強制されていたのだ。
ベルンハートは黙って命令を受け入れたが、ウィルヘルミナはというと怒り心頭だった。
辞令を受けるなり、学長に直接話をしにいくと息巻いた。
おかげで、偶然話を聞いていたイルマリネンが物騒な発言をしはじめ、ウィルヘルミナは逆に冷静になり、その後はベルンハートの判断に渋々ながらも従った。
そういう紆余曲折を経て、ウィルヘルミナとベルンハートは今後方支援部隊に参加している。
ちなみにこの部隊には、同じ一年生からフェリクス、フローラ、ヘリン、ヤニカ、リンネア、カステヘルミ、ヤコブが参加している。
ベルンハート、フェリクス、ヤコブの三人を除いて、残り全てが女生徒だった。
「今日はここで野営しよう」
引率教師の一人であるペテルが、生徒たちに声をかける。
ペテルは、三十後半の逞しい体躯をした男性教師だ。このペテルが、今回の後方支援部隊の責任者であった。
一同は、ペテルの指示に従って馬や馬車を降り、野営の準備を始める。
日没までにはまだかなり時間があったが、この先にある野営に適した場所まで辿りつくには、まだかなり距離があるため、今日の移動はここまでとペテルが判断したのだ。
生徒たちは、自分たちの境遇がまだよく理解できていないのか、はしゃいだ様子で野営の準備に取り掛かっていた。
そんな生徒たちを、ウィルヘルミナは冷めた目で見ていた。
(みんな自分が利用されてることに気づいていないんだな…)
ベルンハートには選択の余地はなかったが、他の生徒たちには選択権があった。
つまり、皆は自ら進んでこの部隊に志願したのだ。魔物討伐の危険性を教えられることもなく――――。
壁蝕の壁の畔を経験したことのあるウィルヘルミナには、今回の任務の危険性が嫌というほど理解できていた。
たとえ生徒たちの中でそこそこ腕の立つベルンハートであっても、今の段階で壁蝕の討伐隊に参加させるのはまだ早い。
他の生徒たちに至っては、参加させられるような水準にはまるで達していない。
たとえ『後方支援』と銘打ったところで、実際の現場に行けば何が起こるかわからない。
『後方支援』であるから『安全である』などという保障はどこにもないのだ。
その事実が、生徒たちには全く理解できていないことが歯がゆくてならなかった。
壁蝕がどんなものであるのか教えてももらえず、ただ愛校心や功名心を煽りくすぐられ、参加するように仕向けられている。
今なおその事実に気づくことなく、まるで遠足でもしているかのように、普段と違ったこの環境を楽しんでいる生徒たちを見ているのが、ウィルヘルミナは不快でならなかった。
「どうしたレイフ。やはり体調が悪いのか」
ベルンハートが気遣って小声で声をかけてくる。
「いいえ大丈夫です」
「だが、ずっと妙な顔をしているぞ。お前らしくもない」
(体調が悪いわけじゃなくて、この場合胸糞が悪いんだよな)
しかし、今ここで、それをベルンハートに言ったところで詮無いことだった。
ウィルヘルミナはそれ以上答えることなく、もう一度首を振るだけにとどめた。
どんな経緯で、この部隊が派遣されることになったのか、ウィルヘルミナは知らない。
けれども、どんなに言葉を尽くしたところで、結局は大人たちが自分の立場を守るために子供たちを売った事実に変わりはない。
いや、もしかしたら、教師たちも壁蝕が何たるかをわかっていないのかもしれなかった。
遠足気分の抜けていない子供たちを、壁蝕の時期に壁の近くに連れて行くなどという行為は、暴挙としか言いようがない。
だが、引率の教師たちにしてみても、そういう理解が足りていないように見えた。
もちろん、そこには『イヴァールを除いて』という注釈はつくのだが。
教師たちの指示のもと、野営の準備は着々と進んでいく。
のどかなその風景を見ていると、小さなとげが刺さったような不快感ばかりを覚えた。
だが、そんな干渉を振り切り、ウィルヘルミナは無理やり気持ちを切り替えて食事の準備に取り掛かる。
いつものように食事の支度をしはじめると、気分も少し変わった。
何か専念することがあれば無心になれ、余計なことを考えずに済む。
そうしてウィルヘルミナは、つかの間の安息を得た。
ウィルヘルミナは、日頃からベルンハートの食事の準備をしているので、他の生徒たちよりも圧倒的に手際がいい。
まるで、一人ですべてこなせそうな手慣れた手つきに、女生徒たちは気圧されつつも、遠慮がちに声をかける。
「レイフ様、何かお手伝いすることはございますか?」
フローラとヘリンの申し出に、ウィルヘルミナはうなずく。
「ありがとうございます。では野菜を切っていただけますか」
「はい」
二人は嬉しそうにうなずき、根菜の皮むきをはじめた。他の女生徒たち、ヤニカ、リンネア、カステヘルミも後から合流した。
ヘリンは、小柄で控えめな愛らしい少女だ。フローラと仲が良く、学校ではいつも二人一緒にいる。
それぞれタイプは違うのだが、フローラとヘリンは衆目を集める文句なしの美少女だった。
今も、上級生も含めた男子たちが、二人をちらちらと見ていて、作業をしながらも声をかける機会をうかがっている。
しかし、声をかける勇気まではないようだ。
(まったく情けねえな。声かけたきゃ、かければいいのに)
ウィルヘルミナは内心でそんなことを思う。
フローラとヘリン以外の三人も、二人には及ばないまでも、十分かわいい部類に入る少女たちだった。
ヤニカは背の高い大人びた少女、リンネアは色白でそばかすがかわいい小柄な少女、カステヘルミは少しふっくらとした愛くるしい少女だ。
少年と思われているウィルヘルミナは、五人の可憐な少女たちに囲まれ、食事の支度をしている。
その図は、男子生徒たちの嫉妬の視線を浴びるに足る状況だった。
(声かけられなくて、チラ見しかできねーとかなさけなさすぎる。そのくせオレには嫉妬まる出しの喧嘩売るような視線向けてきやがんだからめんどくせーよな)
そんな思いを抱きつつも、ウィルヘルミナは無言で調理を進める。
そこにフェリクスが合流した。
フェリクスは、周囲の可憐な少女たちには全く意識を向けず、ただ感心した様子でウィルヘルミナの手際を見つめている。
「器用なものだな。ベルンハート王子の食事はレイフが作っていると聞いてはいたが、本当だったのだな」
(フェリクスは女子に興味ねーのか? ま、中身がまだまだガキそーだもんな)
そんな失礼な感想を抱いていることなど全く顔に出すことなく、ウィルヘルミナはうなずいた。
「はい。ところでフェリクス様、天幕の準備はもうできたのですか?」
ウィルヘルミナと女生徒たちは食事の担当なのだが、他の男子生徒たちの分担は天幕の準備なのだ。
「ああ…」
フェリクスは一度言葉を濁す。
「それが、イッカに向こうにいっていろと言われてな」
そう言ってフェリクスは、面目なさそうに後頭部を掻きながら苦笑いをした。
(つまり手際が悪くて邪魔にされたわけか。こいつもベルと同様お坊ちゃんだしな。しょーがねーな)
「では、こちらのお手伝いをお願いしてもよろしいですか?」
ウィルヘルミナが手伝いを頼むと、フェリクスがパッと顔を明るく変えた。
「もちろんだ」
食事の時間になると、フェリクスは得意げに自分が作った料理だと言って、イッカにふるまう。
イッカは苦笑しつつ食事を摂り、美味しいと言ってフェリクスの腕を褒めた。
そんな様子を、ウィルヘルミナは微笑みながら見つめる。
しかし、心の中片隅には、まだ複雑な気持ちがわだかまったままだった。




