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ラウリが東壁の壁蝕討伐部隊へ参加することを決めたのは、長年習慣づいている壁蝕討伐へ参加しないという選択肢が、ラウリの中になかった事が大きな理由なのだが、もう一つ気にかかることがあって参加することを決めていた。
それは東壁の憂慮すべき事情だ。
東壁は今、深刻な魔術師不足に陥っているのだ。
何故討伐隊の人員が不足しているのかというと、そこには昨今四壁の間で問題になっているやむを得ない事情が存在する。
これは、東壁に限ったことではないのだが、ここ数年の間、壁蝕の時期に壁を超えてくる魔物の力が強くなっている傾向があるのだ。
いや、もしかしたら魔術師たちの能力の方が退化してきている可能性も否定はできないのだが、とにかく壁蝕時の魔物との力関係に変化が起きつつある。
壁蝕討伐時の人員の数が、以前よりも多く必要になっているのだ。
今のところ、この情報を公にしてはいない。
それは、四壁の威信にかかわるデリケートな問題であるからだ。
ペルクナスが結界を作ってからこれまでの千五百年間、四壁は壁蝕の時期に魔物を掃討し、人々の暮らしを守ることでその存在意義を世に知らしめてきた。
しかし、今はトゥルク王国との対立が深まり、盤石だったはずの四壁の基盤が揺らいでいる。
そんな現状で、この事実を対立相手である国側に覚らせるわけにはいかなかった。
もし、この問題が国側に知られれば、それこそ敵の思うつぼ。
おそらく国は、したり顔で討伐隊に国の兵力を投入して自分たちの力を誇示し、中央集権化の流れを一気に加速させようとしてくるのは間違いない。
この状況を政治利用させるわけにはいかず、結果、壁蝕はなんとしても四壁の力で乗り切らなければならなくなっていた。
とはいえ、壁蝕時に必要な魔術師の数が増えているのは揺るぎがたい事実。
討伐隊の負傷者の数も年々増加していた。
その上、東壁では現在緋の竜の問題も抱えている。
両方の件に人を割いているせいで、東壁は今深刻な人手不足に陥っているのだ。
おかげで、ベイルマン家や東壁の副伯たちの擁する人員だけで壁蝕に対応することができず、水面下で教会に助力を求めているような状況に陥ってしまっている。
そういう状況で迎えた夏の壁蝕であった。
壁蝕を間近に控え、ラウリは自ら討伐隊へ志願する。
エルヴィーラにとっても、ラウリの討伐隊参加は願ってもない申し出だった。
そういうわけで、現在北壁から手配を受けているラウリは、今ネストリ・ギルデンを名乗り、壁蝕の討伐隊に参加しているのだった。
エルヴィーラも、手配中のラウリの立場に配慮し、東壁の中でもラウリの正体は、ごく限られた者たちにしか伝えていない。
この討伐隊の中でラウリの正体を知る者は、二人の指揮官たちだけだった。
ラウリは、今回東壁を訪れるにあたり、エイナルに行動を悟られることを懸念し、厳重に身分を秘匿して旅をしていた。
北壁を出るときにもこのネストリ・ギルデンの通行証を使い、あえて一般人を装って、単身で東壁まで旅をしてきている。
それに、エルヴィーラの配慮もあり、エイナルたちにすぐにラウリの居場所を気取られる心配はないはずだった。
ところで、ラウリとウィルヘルミナが名を借りているこのギルデン家――――。
実は、イヴァールの祖母の実家であった。
ネストリ・ギルデンもレイフ・ギルデンも実在しており、ラウリとウィルヘルミナが持っている通行許可証は、もちろん本物である。
偽造証ではないので、公的機関から身の上の追及がある心配もないのだった。
ラウリは、討伐隊の中では先発隊に配置されていた。
この先発隊というのは、文字通り壁蝕討伐の第一陣である。
東壁ベイルマン家の擁する討伐隊は六部隊に分かれており、壁蝕の間中、交代で任務にあたるのだ。
この他にも、副伯の擁する部隊と教会から派遣された魔術師たちも存在し、それら全てがベイルマン家の旗下に加えられる。
そもそも壁蝕は年二回あり、ほぼ半月ほどの期間続く。
半月の間、昼も夜もなく壁を通り抜けて現れる魔物を、限られた人員で交代で狩り尽くすのだ。
半月と期間が決まっているとはいえ、後半になればなるほど負傷者の離脱と、兵士たちの疲労によって戦況は厳しくなる。
それに、最近は東壁の魔術師部隊だけでなく、教会魔術師の手も借りていることもあり、急遽の寄り合い部隊であるため、戦術にも乱れが生やすい。
おかげで、討伐隊の包囲網を突破した魔物を狩らねばならないという事態も多発し、部隊の疲弊度はより高くなっているのだ。
人手不足はかなり深刻な状況で、ラウリの所属する部隊にも引退間際といった年齢の魔術師が何人も交じっており、その事実からも魔術師不足の窮状がうかがえる。
ただ、装備だけはかなり良いものを支給されており、回復用の魔法具も、防具や剣も、潤沢に用意されていた。そのあたりは、エルヴィーラも配慮しているのだ。
ラウリは周囲を見回して考え込み始めた。
(報告では聞いていたが、実際に現状を目にしてみると想像以上の窮状だな。これほどの魔術師不足とは思わなかった。緋の竜という賊に、それほどまで戦力を割かれているのか…)
改めて、ラウリの中に葛藤が生まれる。
エルヴィーラは、トーヴェが渡した魔法具の製作者――――ウィルヘルミナを捜していた。
ラウリとて、できることなら助力をしたい。
しかし、トーヴェからの報告でも触れられていたのだが、敵の中にはかなり手練れの闇界魔術師がいる可能性が高いのだ。
迂闊にウィルヘルミナを巻き込むわけにはいかない。
かといって、東壁のこの窮状を見過ごすわけにもいかなかった。
(今回は明らかに私の準備不足だったな。この件は、もっと情報を集めて慎重に対応せねばならない)
エルヴィーラが壁蝕の討伐を息子に任せ、自らは緋の竜の討伐を優先対応していることからも、その厳しい状況を察することができた。
本来なら、壁蝕討伐の指揮は、エルヴィーラがとるべきなのだ。
だが、現在エルヴィーラは、緋の竜の追捕に専念しており、討伐隊の指揮は息子に任せている。
ラウリは腕を組んだ状態で視線を伏せた。
(おそらくベイルマン卿は、探している金界魔術師を私が知っている事に気づいているな。だから私を東壁に引き留めたのだ。私からウィルヘルミナの情報を引き出すために。だが、ウィルヘルミナの才能は他人に知られてはいけない危険な才能だ。かといって、このまま緋の竜を放置するわけにもいかぬ。さてどうしたものか…)
考えは堂々巡りだ。
板挟みに陥り、ラウリは知らず知らずのうちに深いため息をついた。
そこに、ラウリが所属する第一陣討伐隊の指揮官であるキデニウス・ベイルマンが現れた。
キデニウスはエルヴィーラの長男だ。年齢は二十歳。才気あふれる若者で、母親譲りの意志の強い目をした好男子だった。
「ギルデン卿、討伐隊へのご協力ありがとうございます。母に代わって御礼申し上げます」
一介の魔術師に対してするには、いささか丁寧すぎる挨拶だったが、ラウリはエルヴィーラの知り合いで、腕の立つ傭兵という触れ込みで討伐隊に参加している。
エルヴィーラの知己であるということから、許される範囲の挨拶であろう。
一方ラウリは、ひざを折って片膝をつき、丁寧な礼を返した。
「過分なお言葉、身に余る光栄です。微力ながら、尽力させていただきます」
周囲の目を意識しての返事を、キデニウスは承知する。
近くに人目はないが、用心するに越したことはない。
「よろしくお願いいたします。ところでギルデン卿、少々ご相談したいことがありますので、私の天幕までお越しいただいてよろしいですか」
「かしこまりました」
キデニウスは、ラウリを伴って移動した。
キデニウスの天幕には、今回の討伐隊でラウリの正体を知るもう一人の指揮官ダニエル・ベヘムの姿があった。
ダニエルの年齢は四十代後半。
その体にはいくつもの古傷が刻まれており、歴戦の戦士であることは一目でうかがえる。
生来の生真面目さが顔つきにまで現れている実直を絵にかいたような男だ。
ダニエルは、ラウリを見るなりひざを折って片膝を床につき、深く首を垂れて最上級の礼をとる。
天幕周辺は人払いをしてあるので、誰に憚ることもなく北壁当主として迎え入れたのだ。
ラウリは困ったような表情に変わる。
(私はすでに隠居の身なのだが、どうも東壁の方々はその辺りの事情を考慮してはくれぬな)
エルヴィーラもダニエルも、ラウリのことを当然のように北壁当主として扱う。何度訂正しても、このように聞き入れてはもらえないのだ。
今回は、時間を有効的に使うためにも訂正することをあきらめ、そのまま本題に入る。
「それで、私へのご用件とはいかなるものでしょうか」
ダニエルは、ひざを折ったままの姿勢で顔を上げ、ラウリを見上げた。
「ノル……ギルデン卿もご存じのこととは存じますが」
ダニエルは訂正して続ける。
天幕の中であるので、視覚的には問題ないのだが、外で話に聞き耳を立てている者がいないとも限らないため、配慮したのだ。
「昨今壁を越えてくる魔物の力が強くなっております。ご承知の通り、東壁は人員がギリギリですので、編成にはかなり苦慮しております。隊を組むにあたり、私はなるべく兵士たちから直接要望や意見を聞き、取り入れるようにしているのですが、その最中にある者から気になる報告を受けまして、キデニウス様に相談しておりました」
「ある報告? それはどんな内容ですか?」
「はい、それは優秀な討伐隊員からの報告なのですが、壁蝕時に強い魔物と遭遇する場所が限定されている気がするというものだったのです」
(つまり、強い魔物の出没箇所が決まっているということか? 北壁ではそんな現象はなかったが、それは信ぴょう性のある話なのか?)
ラウリは内心で疑問を感じていたが、黙って話を聞き続ける。
「その者によると、あくまでも本人の印象に過ぎなかったので、報告することをためらっていたようなのですが、今回私が直接話を聞いたことを機会に、念のため報告しておこうと思ったようでして――――」
ダニエルは、一度そこで言葉を切ってから再び顔を上げて続けた。
「その者は、もう十年も討伐に参加していながら、負傷することもなく勤め上げている猛者です。本人は単なる印象と申しておりましたが、現場の空気を知る人間の勘を、気のせいだと聞き流すことは危険と判断し、キデニウス様に報告いたしました次第でございます。是非、ギルデン卿のご意見も伺いたく、こうして足をお運びいただきました。ギルデン卿はいかが思われますか」
ラウリは考え込んだ。
「さて、今のお話だけでは私にも判断致し兼ねます。この場でその話の真偽はともかくとして、つまりベヘム卿は、その報告を考慮したうえでの編成を行いたいとお考えだということでしょうか」
「はい、私としては、その強い魔物が出没するという個所に、重点的に兵力を投入したいと考えております」
(それは危険だな。ほかの個所が手薄になってしまう。限られた人数で捌かねばならないのだ。確証のないうちに、みだりに人員の配置を変えるべきではない。しかし、ベヘム卿の意気込みを見る限り、本人の中ではすでに決定事項なのだろうな。ここで私が頭ごなしに否定してはベヘム卿の顔が立たなくなる。この隊の指揮官はベヘム卿なのだから)
ラウリは、しばし考えこんでから、視線をキデニウスに移した。
「そうですか。ではキデニウス殿はいかがお考えなのですか」
ラウリに水を向けられ、今まで黙っていたキデニウスが口を開く。
「私は、今までの編隊を変えるべきではないと考えております」
(それが妥当だな。今の段階で編成を変えてしまうと、現場がうまく回らなくなる危険性がある。本人も報告時にあくまでも『印象』と言っているのだから、最初は警戒する程度で問題ないだろう。もし異変があったときに、すぐに応援を送れるように、二陣目の一部を待機させておけば十分対処できるはずだ)
しかし、ダニエルは表情を厳しく変えた。
「キデニウス様、貴方は今回が指揮官としての初陣。しかし私は、二十五年という年月を、この壁蝕討伐に捧げています。ここは、私の直感を信じてはいただけないでしょうか」
(なるほど、意見の食い違いが起こっているからこそ、第三者である私が呼ばれたというわけか。ここは蟠りが残らぬように立ち回る必要があるな)
キデニウスは、十六歳の冬の壁蝕から討伐に参加しており、今回は八回目の参加になる。
母であるエルヴィーラが参加できないため、代理として今回初めて指揮官に任命されていた。
その未熟さを補うため、ダニエルがいるのだ。
同じ指揮官とはいっても、立場はキデニウスが上。
だが、経験では圧倒的にダニエルに軍配が上がる。
(さてどうしたものか…)
ダニエルの顔に泥を塗るわけにはいかない。
しかし、ラウリとしても、現段階で集まっている情報だけで編成に大きく手を加えるのは、拙速に過ぎるという印象を覚えていた。
(兵の安全を優先させたいのだろうが、もう少し様子を見てからでも遅くはないはずだ)
ラウリは、組んでいた腕をほどき、ダニエルを見る。
「なるほど、キデニウス殿のお考えも、ベヘム卿のお気持ちもよくわかりました。そのうえでご提案があります」
ラウリの言葉を受け、二人の強い視線がラウリに集まる。
「編隊は今まで通りにして、その強敵の魔物が出るという個所に、私を配置してください」
その提案に、二人の目が驚きに見開かれた。
「しかし、それでは御身に危険が…」
ダニエルの言葉に、ラウリはかすかにうなずく。
「ご心配してくださるお気持ちはありがたく頂戴いたします。がしかし、私は確かに役目を引退いたしましたが、まだ魔術師を引退した覚えはございません。ここは私にお任せいただけませんか」
北壁当主の座を退いたが、しかし、魔術師を退いた覚えはない。そう言っているのだ。
ラウリの力強いまなざしが、両指揮官を鋭く射抜く。
二人の指揮官は、言葉もなくその強いまなざしを見返していた。




