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四壁の王  作者: 真籠俐百
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 結局、激怒したラウリを止めることもかなわず、トーヴェはその場に立ち尽くす。

 ウィルヘルミナの頭を鷲掴んだまま、引きずって外に出ていくラウリの後ろ姿を、トーヴェはただ呆然と見送った。

 そんな放心状態のトーヴェにイヴァールが椅子を勧める。

「疲れたでしょう。座ったらどうです。何か飲み物を用意しましょう」

 勧められるまま、トーヴェは心底疲れた様子で椅子に腰かけた。その疲労には、肉体的な疲労ばかりではなく、精神的な疲労もかなり含まれている。

 イヴァールが温かい飲み物を持ってきて机に置き、そのまま差し向かいに座った。

「イヴァール」

「はい」

 疲れた表情のまま切り出したトーヴェを、イヴァールは見返す。

「先程の話は本当か」

「先程の話とはどのあたりの事ですか」

 イヴァールは、整った顔をかすかに捻った。

「お嬢様がわざと召喚に失敗しているというあの話だ」

 ああ、とイヴァールは納得する。

 その表情に、呆れの感情が滲みだしているのは仕方のないことだった。むろんそれはウィルヘルミナに対する呆れの色だ。

「本当ですよ。ウィルヘルミナお嬢様は、類まれなる才能があるにもかかわらず、わざと召喚に失敗してその才能と時間を浪費していらっしゃるのです」

 イヴァールは、軽く肩をすくめてみせてから、辛辣な口調でそう吐き出す。

 トーヴェは両手で顔を覆い隠し、ため息とともにうつむいた。

「どうしてそうなんだ、あのお嬢様は…。私には全く理解できない」

 手で顔を覆ったまま項垂れる。

「その意見には私も賛成です。あんなにも思考回路の読めない御仁は初めてです」

 イヴァールは、瞬時に能面のような顔に戻って、冷たくバッサリと言い切る。

 その能面は、心の中にとめどなく湧き上がる苦々しい感情を、覆い隠すために纏った能面だった。

 イヴァールは、飲み物を一口含んで怒りを静かに吐き出す。少し疲れたような表情に変わって口を開いた。

「私はこれまで様々な方法をこころみたのですよ。お嬢様の本気を引き出すために、本当に色々と」

 心の底からそう言って、イヴァールはどす黒い空気を纏った不穏な笑顔を浮かべる。

 トーヴェは、ひきつった表情でイヴァールのいびつな笑顔を見返した。

 トーヴェ自身もウィルヘルミナの家庭教師をしているので、イヴァールの心情を十分理解できる。

 しかし、イヴァールの態度から、彼の苦労がトーヴェの苦労をはるかに凌駕する物であろう事が容易にうかがえた。

 ウィルヘルミナは、トーヴェが担当している剣術の稽古には比較的まじめに取り組んでいるのだ。

 トーヴェの苦労は、勉強の手を抜くといった類のことではなく、あの破天荒な性格に振り回されることが原因であることの方が多い。

 イヴァールのどす黒い微笑みから、その並々ならぬ苦労を察したトーヴェは、気の毒そうな表情に変わり、同情的にイヴァールを見つめた。

 その視線に促されるように、イヴァールはため息とともに述懐する。

「ですが私にはお嬢様の本気を引き出すことはできませんでした。全ては私の不徳の致すところです。そのことを反省し、今回は手段を変えることにいたしました。もっと現実的な手段に訴えることにしたのです。壁蝕の壁の畔を経験すれば、嫌でも魔法の重要性をわきまえることができるでしょう」

 黒い気配を纏って静かに笑ったイヴァールの本気を、トーヴェは改めて感じ取った。

 トーヴェは引きつった顔を返す。

『だからといってやり過ぎではないのか?』と良識人のトーヴェは思っていたが、とても口に出せる空気ではなかった。

 祖父であるラウリ自身も同じ考えであるのだから、なおさら言い出せない。

 思考を彷徨わせていると、いつもたどりつく疑問にぶち当たる。トーヴェは、途方に暮れた様子でぽつりとつぶやいた。

「イヴァール、どうしてお嬢様は、当主になることをあんなにも拒むのだろうな。ラウリ様ほどの御方が見込んで、次期当主にとあれほどまでに望まれているというのに」

 イヴァールは小さくため息をついて、肩の力を逃がす。

「私にもはっきりとした理由はわかりません。今回は何故か結婚について触れていましたが…。あの方の思考は一見わかりやすいようでいて、しかし時折、我々には全く理解不能な思考をなさるので」

 その発言には、トーヴェも心の底からうなずいた。

「わかるぞ。私もよく困惑させられる。お嬢様の言動は、基本滅茶苦茶だからな。私にはさっぱり予測できない。稽古の時も、普通なら選ばない悪手を堂々と選択する場面を何度も見せられて、頭を抱えさせられることがしばしばある。なのに時々まぐれ当たりをして度肝を抜かれることもあるのだ。私にはどれも理解に苦しむ選択ばかりなのだが、しかし、うがった見方をすればいい意味でも評価することが可能で、正直言って私のような凡人では判断がつかない。まさに予想の斜め上を行く理解不能な方だ」

 ウィルヘルミナという人物は、その人となりを説明することが酷く難しい。

 偽らざる本音を言うならば、時々面と向かって『馬鹿なのか?』と言ってやりたくなるような人物ではあるのだが、持っている才能はずば抜けており、並みの大人では全く太刀打ちできないほど素晴らしい能力を秘めている。

 時々その片鱗を見せつけられる両家庭教師は、何度も歯がゆい思いを感じていた。

 残念な要素と、類まれなる素晴らしい要素とが混在している極上の原石。

 それがウィルヘルミナとという人物なのだ。

 トーヴェとイヴァールは、大きなため息を吐き出した。

「ウィルヘルミナ様は、磨き方次第では四壁の頂点にも立てる御方です。つまり全ては我々の腕にかかっているという事ですよ。お互い肝に銘じておきましょう」

「そうだな…」

 うなずいてからトーヴェはフッと笑う。

「私たちの事を侮り、馬鹿にしている気配はあからさまに伝わってくるのだがな。それでも憎めないのだよ、あの人は。何とかしてやりたいと私に思わせるのだ」

「認めたくはありませんが、それもこれも全ては王者の資質というものです。どんな状況であっても他者の目を引きつけてやまない存在感。そして人を惹きつけはなさぬ魅力。上に立つ者は、臣下の心を掴むことができなければ、いかに能力があったところで何の役にも立ちません。人材を惹きつけ、集まった駿馬を乗りこなすこと。人の上に立つ者が最終的に求められるものはそういう資質です」

 そう、このイヴァール自身も、磨き上げられて圧倒的な輝きを放つウィルヘルミナを見てみたいと、そう思っているのだ。

 イヴァールは、片方だけ口の端をあげて笑った。

「全く、厄介なものに惚れ込んでしまいましたね我々は。私もトーヴェも、そしてラウリ様も」

 するとトーヴェが声を上げて笑う。

「確かにその通りだ。我々もそうだが、ラウリ様のほれ込みようは尋常ではないからな」

 イヴァールも苦笑する。

「ええ、もしかしたらラウリ様には、すでにお嬢様の成長なさった姿が見えていらっしゃるのかもしれませんね。だからああやって殊更厳しく指導されるのでしょう。ラウリ様の厳しい態度が、期待の裏返しであること、お嬢様も早く理解してくださるといいのですが、なかなか伝わらないのはじれったい事ですね。最近のお嬢様は、かなり反抗的でいらっしゃるから」

 そう言って肩をすくめてみせた。

 そしてイヴァールは、幾分表情を穏やかなものに変えて再び苦笑する。

「それにしても、あのように素直なお心のままにお言葉を発するラウリ様を私ははじめて拝見しました。いつも冷静な方が、子供相手にあそこまで激高するとは…」

 イヴァールは口元を抑え、フフフと笑う。

 トーヴェもニヤリと笑った。

「私もだ。あのように大きな声を出して怒るラウリ様など、今まで見た事がなかったぞ。怒ったとしても、いつも怒りの気配を滲ませるくらいの反応しかしない方だったのにな。あそこまで本気の怒鳴り声を出させるとは…。ウィルヘルミナ様は、人の本音を引き出すのがなんともお上手な方だな」

「そうですね、ですが、あんなにもお怒りになっておられるラウリ様に対して、まさか言い返すとは思ってもみませんでしたが」

「確かに。あれには肝が冷えたぞ。女にしておくのはもったいない度胸だ。あの胆力、他の者たちに是非見習わせたいものだ」

「見習えるものなど、そうそういないでしょう。ラウリ様にあのように睨まれては、並みの男なら一言も発せられませんよ」

「さすが我らの姫君といったところだな」

 しかしイヴァールは肩をすくめる。

「そうでしょうか? トーヴェ、貴方はウィルヘルミナ様を買いかぶる癖がありますね。確かにあの方の胆力は認めますが、しかしあれは褒めるところではありませんよ。あの方は、度胸や努力を使う方向を根本的に間違っておられるのです。それをきちんと自覚していただかなければなりません」

 確かにそうだなとトーヴェは思い直してうなずき、ではどうやって自覚させようかと、二人の家庭教師たちは考え込んだ。長い沈黙がその場を支配する。

 その沈黙を破ったのは、諦め気味のトーヴェのため息だった。

「自覚は徐々に促していくしかないだろう。すぐには無理だ」

 さじを投げなかっただけ、まだましであろう。

 この問題は、優秀な家庭教師二人が、全力で当たっても解決することのできない難問であるのだ。

「そうですね、さしあたってはラウリ様じきじきの御指南に、期待させていただきましょう」

 それは、二人で壁の畔に向かった現状を指していた。

「本当に大丈夫なのか?」

 無事戻ってこられるのだろうかと心配そうに問いかけるトーヴェに、イヴァールは大きく頷く。

「心配は無用です。あの方の実力は、このイヴァール・クーセラの名にかけて保証いたします」

 何故か黒い笑いを浮かべたイヴァールに、トーヴェは一瞬たじろいだ。

「そ、そうか…」

 その笑みにはイヴァールの複雑な心情が滲みだしており、その空気に耐えられなくなったトーヴェは話題を変えようと視線を彷徨わせる。

 そして、思いついた内容に早くも心が引き込まれたのか、トーヴェは穏やかな表情に変わった。

「それにしてもラウリ様はお元気になられたな」

 トーヴェは嬉しそうに目を細める。

「五年前の、あの悲惨な出来事を思えば、このように笑いあうことができるなどとは想像もしていなかったが、これも全てはウィルヘルミナ様のおかげなのだな」

 トーヴェが、しみじみとそう続けた。

 イヴァールも、かすかに陰りを滲ませながらも相槌を打ち、穏やかにほほ笑む。

「そうですね、絶望のあまり心が死んでしまったかのような、あの時のラウリ様の姿を思い返せば、先程のような元気なお姿にお目にかかれる日が来ようとは夢にも思っていませんでした」

 二人の間に、寂しげな静寂が流れた。

 それは、大切なものを失ってしまった喪失感を共有する者たち独特の空気だ。

「クラエス様の残した大切な一粒種、決して失うわけにはまいりません」

「ああ絶対に」

 二人の男のたちの纏う空気が、そこで一変する。

 この場には見えない遥かな敵に対して、恐ろしいほどの殺気を滲ませていた。


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