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突然現れたイルマリネンは、ウィルヘルミナの目じりににじむ涙を見つけてそっと手を伸ばす。
涙を拭おうとしたのだが、その気配を敏感に察知したウィルヘルミナは、のけぞるようにしてイルマリネンの手をかわした。
(こいつ、またかよ! 気安く触んじゃねーっつーの)
すると、イルマリネンが不満そうに目を細める。
だが、ウィルヘルミナは毛を逆立てた子猫のように警戒しながらイルマリネンを睨み返した。
「触んなっつったろ!? つか、お前なんで急に現れんだよ! 呼んでねーだろ!」
「お前が泣いている気配がしたから見に来たのだ」
その言葉で、ウィルヘルミナはあることに思い当たり、怒りの青筋を浮かべる。
「てめー、まだオレの心をのぞき見してやがんのか!! やめろっつっただろ!!」
威嚇するように怒ってみせるが、イルマリネンはどこ吹く風だ。
「お前が約束を守らないのが悪い」
「は!? 約束ってなんだよ!? ―――――って、あっ!!」
言い返してからウィルヘルミナは思い出す。
(散歩のことか! やっべ、すっかり忘れてた!!)
カヤーニからラハティまでの移動中は、人目が多いのでイルマリネンを呼び出せなくなることをあらかじめ告げており、そのことについては了承も得ていたのだが、ラハティに到着してからは呼び出す約束をしていた。だが、この数日間あまりにも忙しすぎて、イルマリネンとの約束をすっかり忘れていたのだ。
イルマリネンは、あからさまなため息を吐き出す。
「そんな事だろうと思った」
ウィルヘルミナは気まずそうに視線を彷徨わせた。
「しょーがねーだろ。このところ忙しくてさ、つい忘れてたんだ。悪気はねーよ。けどな、だからってオレの心をのぞき見すんなよな。やめろって何回も言ってんだろ!? いい加減にしろよ!」
ウィルヘルミナは、気まずさを押しのけるようにして不満をぶつける。
しかし、イルマリネンは全く動じなかった。
「お前は頭ごなしに駄目だというが、しかし、そのおかげでお前の異変に気付けたのだぞ」
「異変? 何のことだよ」
ウィルヘルミナは、怪訝な様子で首を傾げる。
イルマリネンは、疑問に気をとられたばかりに警戒を解いて無防備になったウィルヘルミナの顎をとってくいと上向かせた。そのまま親指でかすかに残っていた涙を拭う。
その刹那――――。
一拍遅れて何が起こったのか理解したウィルヘルミナが、顔を蒼褪めさせて大きく後ろに飛び退った。
(ゆ、油断した!!! 何すんだよこの変態! きっしょ! 変な空気醸し出すなよ! それに勝手に触るんじゃねえよ!)
イルマリネンに触られた場所を、手の甲で乱暴にごしごしと擦る。
そんなウィルヘルミナを尻目に、イルマリネンは無表情のまま踵を返し、背後に立っているベルンハートを振り返った。
「お前を泣かせたのは、この子供か?」
「へ?」
ウィルヘルミナが顔を上げると、目の前にあるイルマリネンの背中が怒りを滲ませていた。
その視線の先に居るであろうベルンハートの存在に気づき、ウィルヘルミナは慌てる。
(子供って…ベルの事か!?)
ベルンハートは、驚いた表情のままイルマリネンを見上げていた。イルマリネンから溢れ出る怒りの気配に、かすかに汗を滲ませている。
「ちょ、イル! 待て! 違うから!!」
「違うのか?」
イルマリネンは、首だけでウィルヘルミナを振り返った。
「そうだよ。ベルのせいじゃねー。つか、オレ泣いてねーし!」
「泣いていたではないか」
「ざけんな、泣いてねーよ!」
イルマリネンは、しばしの間黙ってウィルヘルミナを見つめ返す。
「そういうことにしてほしいのなら、そうしておいてもいい。だが、お前を傷つけるものを私は許さない」
ぞっとするような冷たさでそんな言葉を吐くと、ゆっくりとベルに視線を戻し、再び怒りの気配を纏わせた。
「先程お前は、怒りと悲しみと悔しさの入りまじった感情を抱いていたウィ――――」
その後に続く言葉を、いち早く察したウィルヘルミナはぎょっとして、とっさに後ろからイルマリネンの膝裏に蹴りを入れて膝カックンをする。
イルマリネンはというと、ウィルヘルミナの行動をまるで予測出来ておらず、無様にガクッとなり、驚いた表情に変わった。
怒りの気配は瞬時にして消え失せ、呆然とした表情でウィルヘルミナを振り返る。
ウィルヘルミナは、そんな気の抜けたイルマリネンに、ずいっと顔を近づけた。
「レ、イ、フ、だから。今のオレは、レイフ・ギルデン。修道士見習いで、そこにいるベルの従僕だから。わかったな?」
イルマリネンは、怪訝な表情で目をまたたく。
「レイフ…ギルデン…? 従僕…?」
「そ、間違ってもそれ以外の名前で呼ぶんじゃねー。あと、お前誤解してるから。さっきのは、別にベルに対して怒ってたわけじゃねーから。オレは自分自身に腹が立ってたの。オレの無力さに一番腹が立ってたんだよ。だから、ベルに言いがかりをつけるのはやめろ」
そう言って、無理やりイルマリネンとの話を切り上げると、イルマリネンの体を横に押しやり、ウィルヘルミナは改めて戸惑い固まるベルンハートの前に立った。
「オレが絶対にお前を死なせたりしねー。だから、お前ももっと必死にあがけよ」
「レイフ…」
「助けてほしいって言えよ! 生き残るために手伝ってほしいって言えよ! お前がそんなんじゃ、オレたちはどうしたらいいんだよ!?」
ウィルヘルミナが、苦しそうにギュッと眉根を寄せた。
それを見たベルンハートが、ホッと息を吐きだした。
「…悪かった…。私は、お前たちの気持ちを全く考えていなかった。前にも言われていたのにな」
ベルンハートは反省した様子で、視線を伏せる。
「やってみるか…。最後まで…。必死に悪あがきをしてみよう」
そう言ってから顔を上げた。
「手を貸してくれるかレイフ」
「ったりめーだろ!」
ウィルヘルミナは、照れ隠しにベルンハートの背中をばしりと叩く。そして、すぐにほほ笑みを浮かべた。
そんな二人のやり取りを見守っていたイルマリネンは、両腕を組んで二人を見下ろす。
「この者は敵ではないのか?」
「敵じゃねーよ」
ウィルヘルミナは、呆れた表情でイルマリネンを振り返った。
その側で、強張った表情に変わったベルンハートが、警戒するようにイルマリネンを見る。
「レイフ、この者はお前の知り合いか? 何者だ? 先程は突然現れたように見えたが…。それにその両目…」
ベルンハートの問いかけに、ウィルヘルミナは気づく。
(そうだ、イルは神獣眼だもんな。そりゃ驚くよな)
「わり、紹介が遅れた。実はこいつ、オレが契約してる神獣なんだ。名前はイル」
「神獣!?」
ベルンハートが驚愕に目を見開いた。
「そ、だから神獣眼なんだよ」
ウィルヘルミナは、肩越しに親指でクイとイルマリネンを指さす。
「ちょっと待て、お前は神獣だと言うが、この者は人にしか見えない」
ベルンハートは、信じられないものを見るようにイルマリネンを見上げた。
「人型ということは高位の神獣なのだろう? 人間が、高位の神獣と契約できるものなのか?」
「こいつは、ちょっと普通と違うんだよ。オレがこいつと契約したのも成り行きっつーか、契約する気なんか全くなかったのに、こいつが勝手に契約結びやがったんだよ。おまけに呼んでもいねーのに、こうやって勝手にふらふらと現れやがるし。ま、あんま気にすんなよ。こういうやつだからさ」
「気にするなってお前…」
ベルンハートは戸惑った表情でウィルヘルミナを見たが、しかしウィルヘルミナの方は一向に気にしていない。
それどころか、突然パッと顔を輝かせた。
「そうだ! 適任がいたじゃん!」
ウィルヘルミナは、いい事を思いついたとばかりに、急に手を叩く。
イルマリネンとベルンハートは意味が分からず、何が『適任』なのかと怪訝な表情でウィルヘルミナを見た。
「なあイル、お前夜に見張りやってくれよ」
「見張り?」
イルマリネンはきょとんと眼をまたたく。
「そ、オレたち今襲撃にあう可能性があって、夜に落ち着いて寝れねーんだよ。どうせお前暇なんだろ? 夜だけでいいから、ここに人が近づかないように見張っててくれよ。あ、でも、ずっとこっちにいると、お前も魔力切れになったりするのか? オレの魔力使ってもいいけど足りるか?」
「魔力は問題ない。一晩ここに居たくらいで、どうにかなるほど私は弱くない。こちらで魔力が足りなくなるのは、力のない弱い者らだけだ」
「オレは神獣の事よくわからねーけど、そういうものなのか?」
ウィルヘルミナは首を捻った。
「そういうものだ」
「じゃあ見張りを頼めるのか?」
「見張りをするのはかまわないが、夜だけでいいのか」
「ああ、昼間はオレが側にいて見張ってりゃいいことだし、これでお前との約束も守れるし、一石二鳥じゃね?」
イルマリネンは、呆れた様子で軽く息を吐きだした。
「お前は調子がいいな。だが、いいだろう、私が何人もお前には近づけさせぬ」
イルマリネンの言は、絶対的な自信に満ち溢れている。
だが、当のウィルヘルミナにはあまり届いていなかった。
「あ、オレじゃなくてベルな。ベルの事を守ってほしいんだよ」
軽く返され、イルマリネンが嫌そうに眉をひそめる。
「何故私がそんなことをせねばならんのだ。私が守るのはお前だけだ」
「けちくせーこというなよ。一人守るのも二人守るのも一緒だろ? てか、お前もしかして弱のか? ベルの事守りきる自信がねーんだったら、オレが見張るから別にいいけど」
ウィルヘルミナがそう言ったとたん、イルマリネンが表情を消した。
凍えるような気配をまとい、硬質な目でウィルヘルミナを見下ろす。
「お前は、私が人間ごときに後れを取るなどと本気で思っているのか?」
イルマリネンは、心外だと言わんばかりに眉をひそめた。
いたく誇りを傷つけられ、本気で怒っているようだ。
だが、ウィルヘルミナはあまり気にすることなく首をかしげながら聞いた。
「だってさ、お前がちっちぇーこと言い出すからさ。オレたち二人を守る自信がねーのかなって、ちょこっと思っただけじゃん。そんなに怒ることねーだろ」
ぞわり、とイルマリネンの周囲の空気が動く。
ウィルヘルミナの発言を挑発と受け取ったのか、イルマリネンの表情が明らかに変わった。
その両目には、剣呑な光が荒々しく渦巻いている。
「守る自信がないだと? 私は、お前以外の人間を守りたくないだけだ。だが、もしお前が望むのなら、人ひとりを守るなどとぬるいことを言わず、敵対するもの全てをこの世界ごと屠ってやってもいいぞ」
ベルンハートが、息をのんで顔をこわばらせた。
目の前で膨れ上がるイルマリネンの纏う荒々しい凶暴な気配は、周囲のものを破壊しつくさんばかりの鋭い殺気を帯びている。
側にいるだけでベルンハートを圧倒し、竦み上がらせるほどの純粋な殺意だった。
だが、ウィルヘルミナは特に気にする様子もなく、あっけらかんと答える。
「は? 誰もそんな物騒な事頼んでねーだろ。なんで世界滅ぼすような極端な話になんだよ。お前の思考回路ってマジわかんねーわ。やっぱサイコパスだよな」
その態度で、イルマリネンの中で荒れ狂っていた何かが突然消え失せた。
かすかに目を見開き、イルマリネンは呆然とウィルヘルミナを見下ろす。
ウィルヘルミナは、人差し指を立てながらイルマリネンを見上げた。
「オレが頼んでんのは見張りだよ。み、は、り。できんの? できねーの? できねーなら無理には頼まねーよ」
イルマリネンは、数度瞬きを繰り返してから疲れた表情で額を押さえる。
やがて――――。
「できる」
色々な感情を飲み込みつつ短く答えた。
「そっか、じゃ頼むよ。今晩からやってくれよなー」
気の抜けた返事のおかげで、ベルンハートもまた恐怖から解放され、ため息とともに呆れの混じった視線をウィルヘルミナに向けた。




