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「おい、イル」
ザクリス邸に帰ったウィルヘルミナは、自室に籠るなりすぐにイルマリネンの名を呼ぶ。
すると、誰もいなかったはずのその部屋に、すぐに嬉しそうな顔をしたイルマリネンの姿が現れた。
「なんだウィルヘルミナ、私に用か?」
イルマリネンの期待に満ちあふれた視線を向けられると、ウィルヘルミナは、血統書付きの毛足の長い大型犬が、散歩を心待ちにしてうきうきと尻尾を振っているかのような錯覚にとらわれる。
多少の頭痛を覚えながらもイルマリネンを見た。
「なあ、今度からオレは今みたいにお前を呼ぶことにする。特に用がなくてもまめに呼んでやる。だからオレの心を勝手にのぞくのはやめろ」
すると、イルマリネンが一度目を瞬かせてから首を傾げた。
「では、毎日呼んでくれるか?」
ウィルヘルミナはぐっと言葉を詰まらせた。
(毎日? それはだるいな)
だが、イルマリネンは期待に満ち溢れた表情に変わってじっと答えを待っている。
その様子から、駄目だといったところで、すぐには納得しなさそうな気配が察知できた。ウィルヘルミナは、このままでは埒が明かないと判断し、しばしの葛藤の末、譲歩を決める。
(まあ犬の散歩と同じだと思えばいいか)
ウィルヘルミナは、諦めたように盛大なため息を吐き出した。
「わかった…呼んでやるよ。そのかわり、顔見たらすぐに帰れよ」
ウィルヘルミナが妥協すると、イルマリネンが微笑みを浮かべる。
「そうか、これから毎日お前に会えるのか。それに名を呼んでもらえる。こうして真名を呼ばれるのは久しぶりなのだ。なあウィルヘルミナ、ちゃんと真名で呼んでくれ」
(なんなんだよそのこだわり。めんどくせーな)
「お前がイルって呼べっつったんだろーが」
「他の人間に真名を知られたくないだけだ。周りに人間がいない時は、きちんと真名で呼んでほしい」
「マジでめんどくせーなお前。要求が多いんだよ。わがまま言うなよ。呼び方統一しとかねーと、いざって時に混乱すんだろ。これは間違って呼ばねえための予防策なの!」
「だが、私はできるかぎり真名で呼ばれたい。お前に名を呼ばれるのは心地よいのだ」
(名前を呼ばれるのが嬉しいとか、やっぱこいつ犬なのか? 絶対に犬だよな?)
ウィルヘルミナは半眼になってイルマリネンを見た。
一方イルマリネンは、名前を呼ばれるその時を、期待に満ちあふれた表情で待っている。
ウィルヘルミナは、仕方ないとばかりにもう一度盛大なため息を吐き出した。
そして――――。
「イルマリネン、ハウス!」
イルマリネンは喜び半分――――もう半分は怪訝な表情で首を傾げる。
「はうす? それはどういう意味だ?」
「この場合、家に帰れって意味」
「もう帰れと言うのか!? お前はつれないな」
「顔見たらすぐに帰る約束だろ」
「その約束を了承した覚えはない」
「は!? ざけんな! お前マジで話通じねーよな。あーもうめんどくせー。もういいわ、とっとと帰れよ。とにかく、オレの心をのぞき見するのは絶対にやめろ。そこだけはマジで徹底しとけよ。いいな?」
念押しすると、イルマリネンは不服そうな表情に変わる。
「お前の方こそ要求が多いぞ。それに性急だ。なぜそんなに急いで私を追い返そうとする」
「オレはもう用が済んだからな。お前だって顔見たんだからもういいだろ?」
「よくないぞ。私はまだ帰らな――――」
イルマリネンは、そこで不自然に言葉を止めると突然ドアの方を見やった。
口を閉じ、冷たい表情でドアを睨んだかと思うと、そのまま姿を消す。
ウィルヘルミナが怪訝な表情でいると、ドアがノックされた。
「レイフ君、ちょっといいかな」
(ザクリスさんが来たのか。イルを帰らせるのにちょうどいいタイミングだったな)
ウィルヘルミナは、内心でザクリスに感謝しながら返事をする。
「いいぜ、どうぞ」
ザクリスは、ドアを開けて中に入るとキョロキョロと見回した。
「今、話し声が聞こえていたような気がしたんだけど…」
「あー…うん…」
(普通にしゃべってたからな。そりゃ聞こえるよな)
ウィルヘルミナは、どうやって誤魔化そうかと焦りながら首をひねる。
(この前は寝ぼけたってことで押し切ったけど、今日は寝てるような時間でもねーしな)
しかし、そこまで考えたその時、心配そうにのぞき込んでくるザクリスの目とかち合った。
不意にトーヴェに言われた言葉が、ウィルヘルミナの脳裏をよぎる。
『貴女の言う事なら、御爺様もイヴァールも、私だって無条件に信じます』
『我々の事を信じきることができないから、その隠し事を話さないのでしょう?』
唐突によみがえったその記憶に、ウィルヘルミナは、頬を打たれたような感覚に陥った。思わず息をのんでザクリスを見上げる。
ザクリスは、首を傾げつつも心配そうにウィルヘルミナを見下ろしていた。
(オレは…また嘘で誤魔化すのか? こんなふうに心配しているザクリスさんを…そして皆を…)
「私の空耳だったのかな?」
問いかけてくるザクリスに、ウィルヘルミナは覚悟を決めて首を横に振る。
「じゃあ、やはりここに誰かがいたのかな?」
「うん…実はさ――――」
気まずい思いを抱えつつ、イルマリネンのことを説明した。
「ほんというとさ、夕べもそいつが部屋に居たんだ。嘘ついてごめん」
するとザクリスがほほ笑んだ。
「そうなんだね。良く話してくれたね、ありがとう。でもそうか、レイフ君はとうとう神獣契約まで済ませたんだね。本当に凄いね」
のんびりと答えるザクリスに、ウィルヘルミナは拍子抜けする。
「ザクリスさん、オレが夕べのこと黙ってたの怒らないのか?」
「え? 怒らないよ?」
「でも、嘘ついて誤魔化されてたら、普通は面白くないだろ」
「うーん、そうでもないかな。レイフ君の場合は、悪意を持って私を騙そうとしたわけじゃないし。それに、神獣契約をしていても、公表することを避ける人は多いからね」
その言葉に、ふと思い当たることを思い出し、ウィルヘルミナはザクリスを見上げた。
(そういえば、爺さんも召喚士らしいけど、でも公表はしてないんだよな。なんでだろ)
「ねえ、ザクリスさん、その話なんだけどさ。なんで神獣契約してることを公表しない人が多いんだ?」
「ああ、そのことなら、かなり前の事で、私も詳しくは知らないんだけど、今から二十年くらい前に召喚士殺しが流行した時期があって、それ以来契約の公表を避ける人が増えたんだよ」
「召喚士殺し?」
ザクリスはうなずく。
「当時、名だたる召喚士が次々と闇討ちに会って殺されるという事件があったんだ。結局犯人は捕まらず、事件は今でも迷宮入りしたまま。だからその事件があって以来、あえて公表を避ける風潮が強くなっているんだ」
(二十年前か、爺さんは今五十八歳だから二十年前っていうと三十八歳か…。爺さんが、いつ神獣と契約したのかは知らないけど、召喚士であることを公表しない原因が、その『召喚士殺し』のせいなのかどうかは微妙なところだな。爺さんの性格を考えると、他に原因がある可能性が高いな。あの人の場合、自分の身が危険にさらされるから隠すとか、そういう発想は絶対しなさそうだもん)
「だから、レイフ君も召喚士であることは伏せておいた方がいいと思う。最近は召喚士殺しなんて物騒な事件は起きてないけど、でも、その力を当てにして、よからぬ輩に近づかれることがないとも限らないからね」
「うんわかった」
(ま、オレの場合は、もともと公表する気なんか全くねーけど。それに、イルマリネンの使いどころもわからねーしな)
神獣は、強力な魔法を使うことができる。
それこそ、人間が『神』という呼称をつけるほど、桁外れの威力の魔法を使いこなすことができるのだ。
イルマリネンは、出会った当初に風界と聖界の魔法を使っていたが、他にどんな魔法が使えるのかウィルヘルミナは知らない。
イルマリネンの力を借りるつもりもなかったので、特にその辺りの確認はしていなかった。
(あー、でも忘れなかったら後で確認しておくか。たまにはあいつの力も使わねーと、また余計なことしでかしてくれそうだし)
色々とごり押しをしてくるイルマリネンを思い出して、ウィルヘルミナは内心でげんなりする。
頼んでもいないのに無理やり契約を結んだり、召喚してもいないのに押しかけてきたり、守るためと理由を付けてはいたが、勝手に他人の心をのぞき見してくれるような奴なのだ。
かたちだけでもイルマリネンの力をあてにしているとアピールをしておかないと、何をされるかわからない。
(そう考えると、あいつマジで面倒な奴だな。なんでオレがこんなにも気を使わなきゃなんねーんだよ)
考えると憂鬱になるウィルヘルミナだった。
「ねえザクリスさん、神獣契約を解消する方法知らない?」
「え?」
ザクリスは、一瞬理解できずに瞬きを繰り返す。
「だから、神獣契約を人間の方から解消する方法ってないのかな?」
「レイフ君…。まさか神獣契約を解消したいの?」
ウィルヘルミナは、大きく首を縦に振った。
ザクリスは、一度驚いてから困ったような表情を浮かべる。
「うーん…さすがにそう言う方法は聞いたことがないな。というか、神獣契約を解消したいと言い出す人をはじめて見ましたよ」
ザクリスは苦笑した。
「まあ、レイフ君らしいけどね。そういうところ好きですよ」
「ザクリスさんは、イルを知らねーからそんな呑気な事言ってられんだよ。オレは他の神獣を見たことがねえから比較対象はねーけど、それでも、あいつが異常だってことだけはわかる。だってよ、無理やり契約したりするか? オレははっきりと断ったんだぜ?」
「うーん、そうだね。神獣の方から無理やり契約を結んでくるなんて話、確かに聞いたことがないね」
「だろ? あいつ異常なんだよ。呼んでもいねーのに勝手に押しかけてくるし。挙句の果てには、毎日召喚しろなんて我儘まで言ってくるんだぜ?」
「え!? 毎日!? それは体に負担がかかりすぎはしないかい? 神獣召喚には、かなりの魔力が消費されるはずだから。そういえば、夕べも神獣召喚を行っていたんだよね? 続けて召喚したりして大丈夫なのかい?」
ザクリスが心配そうにのぞき込む。
「別に体調は大丈夫。何ともねーよ」
(そういえばトゥオネラに召喚している間中、契約者が神獣に魔力を提供するんだったな。でも、イルが居ようが居まいが、全然何もかわんねーし、魔力切れの気配なんか微塵もねー。もしかしてイルの奴、実はたいした神獣じゃなかったりして…。…いや、んなわけねーか。本人も神獣だって認めてたし。人型の神獣だから普通とは違ってオレの魔力必要ねえのかもしれねえし)
取り留めのない考えをめぐらしていると、ザクリスが心配そうに口を開いた。
「大丈夫ならいいけど…それでも、やはり毎日召喚するのはお勧めしないね」
「だよなー、オレも毎日は面倒なんだよ。でも、約束したのに呼ばなかったらなにされるかわかんねーし」
微妙に会話の内容がすれ違っているが、ウィルヘルミナは気付いていない。
心の中を占めるのは、イルマリネンとの約束を反故にしたりしたら、また勝手に心の中をのぞかれることになるかもしれないというそんな心配ばかりだった。
「なんだか大変そうだね」
「そ、飼い主は大変なんだよ」
「飼い主…」
ザクリスは、一度きょとんと目をまたたく。しかし、すぐに苦笑した。
「神獣も、レイフ君にかかると形無しだね」
「だってさ、マジでそんな感じなんだよ」
そう答えながら、げんなりした様子でイルマリネンの事を思い出す。
イルマリネンは、ウィルヘルミナに対して害意はない。しかし、ウィルヘルミナ以外の『人間』に対しては、かなり思うところがある様子だった。扱いに気をつけなければならない存在であることは確かだ。
(イルを呼んだ時に、ザクリスさんたちと鉢合わせしないように気を付けねーとな)
そんなことを考えながらザクリスを見やる。
「ま、そういうわけだからさ、色々心配かけたみたいだけど大丈夫だから。わざわざ部屋まで来てもらってごめんなザクリスさん」
ザクリスが、ウィルヘルミナを心配して何度も部屋を訪れてくれていたことに、改めて感謝を伝えた。
ザクリスは微笑みを湛えたまま穏やかに目を細める。
「わかりました。でも、もし何かあったら、遠慮なく相談してね」
「わかった」
そう言い残すと、ザクリスは部屋を後にした。
「さーて」
残されたウィルヘルミナは、そう言って腕まくりをはじめる。
ラハティに出発まで日もないので、荷物の整理を今日中に終わらせるつもりなのだ。
「邪魔が入らないうちに、さっさと済ませるか」
ウィルヘルミナは、一人手際よく荷物をまとめはじめた。




