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四壁の王  作者: 真籠俐百
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 翌日の早朝、ウィルヘルミナは一人トーヴェの元を訪れた。

 トーヴェはすでに朝の鍛錬をしており、ウィルヘルミナの姿を見つけると手を止める。

「ずいぶんと朝早くから来ましたね。どうしました? 何かありましたか?」

「いや、先生にちょっと聞きたいことがあってさ」

「聞きたいことですか?」

 トーヴェは首を傾げた。

「うん、神獣の契約についてなんだけどさ――――」

 そこまでいいかけると、トーヴェの表情が急に硬質なものに変わってウィルヘルミナを睨みつける。

「まさかとは思いますが、一人で神獣契約を試みたわけではありませんよね?」

「違う違う! そんなことしてねえって!」

 ウィルヘルミナは慌てて否定した。

 神獣契約にはかなりの危険が伴う。絶対に一人で行ってはいけないと、ラウリだけでなくイヴァールにも口を酸っぱくして言われていた。

 ウィルヘルミナとて無謀ではない。神獣契約は、興味本位で行えば命を失う可能性のある、簡単に手を出してはいけない領域だと理解していた。だから、好奇心で一人勝手に行うような真似をするはずもない。

(あれ? でも、結果的には神獣契約をしちゃったんだよな…。けどこの場合、別にオレが召喚したわけじゃねーし、無理やり契約されただけだし、セーフだよな)

 ウィルヘルミナは、自信がなくなりちらりとトーヴェを盗み見る。

 だがトーヴェは、そんなウィルヘルミナには気づかず、大仰にうなずいていた。

「そうでしょうとも。いくら貴女でも、あれだけお爺様とイヴァールが言って聞かせていた禁を破るような真似、絶対にしませんよね」

 トーヴェは、『絶対に勝手にするなよ』と言外に圧力をかけてくる。

 おかげでウィルヘルミナは、不可抗力とはいえ、すでに済んでしまった神獣契約の事を言い出しづらくなってしまった。

(したくてした契約じゃねーんだけど…大丈夫だよな?)

 ウィルヘルミナは、疑心暗鬼な気持ちに陥る。

「それで、神獣契約がどうしたと言うのです?」

 トーヴェは、腕を組んでウィルヘルミナを見下ろした。

 ウィルヘルミナは、反射的に不自然に視線を逸らす。

(やっぱアウトか? やっぱダメなのか?)

 その態度から、何かを察したトーヴェの目が細まった。

「まさかとは思いますが、禁を破ったのですか?」

 静かな口調だったが、そこはかとなく怒りの気配を纏っている。

 ウィルヘルミナは視線を逸らしたまま口をつぐんだ。

(違う。禁を破ったりはしてねえ。でも、この場合、契約がもう済んでるって言ったら怒られそうだ)

 そう感じたウィルヘルミナは、冷や汗をかきはじめた。トーヴェを見返すこともできない。

「まさか本当に禁を破ったのですか?」

 トーヴェが重ねて問いかけ、眼差しを鋭く尖らせた。

「こちらを向きなさい。そしてきちんと答えなさい」

 めったに聞くことのない、冷たく怒ったトーヴェの声に、ウィルヘルミナは絶体絶命の気分を味わう。

(こっわ。トーヴェ先生こえーよ)

 大量の汗を掻きつつ、ウィルヘルミナはゆっくりとトーヴェに向き直った。

 すると、額に青筋を浮かべ、鬼のような形相で見下ろすトーヴェと目が合う。

「す、スミマセン」

 絶体絶命状態のウィルヘルミナは、目が合うなり反射的に謝っていた。

 トーヴェの目がさらに細められる。

「いったい何を謝っているのですか? ちゃんと説明しなさい」

(こ、これはもう完璧に怒っていらっしゃる)

 ウィルヘルミナは背筋を伸ばし、洗いざらい白状した。

 無言で話を聞いていたトーヴェが、無表情のまま平坦な口調で話しはじめる。

「つまり貴女は、あれほど禁じられていた神獣契約を、一人で勝手に済ませてしまったというわけですね」

「だから違うって! ちゃんと話聞いてたか先生!? 勝手に契約されたんだって! いわば被害者なんだよオレは!」

 トーヴェは、相変わらず無表情のままウィルヘルミナを見下ろしていた。

「そんな不審人物に、壁の畔で遭遇したことを、何故早々に報告しなかったのですか」

「だって逃げ切れたし、あの時は大丈夫かなと思って」

「しかも、北壁の屋敷の部屋に、侵入されていたんですよね?」

「だって、どうやって説明すんだよ!? あいつ勝手に現れて、勝手に消えたんだぞ!? 言ったって信じてくれないだろ!?」

 だがトーヴェは、そこできっぱりと首を横に振る。

「信じましたよ。貴女の言う事なら、御爺様もイヴァールも、私だって無条件に信じます」

 静かに、しかし、はっきりと言い切られて、ウィルヘルミナは思わず言葉を飲み込んだ。

 トーヴェは、ため息を吐き出す。

 そして、尖った光を消してウィルヘルミナを見下ろした。

「たとえどんな信じがたい話であったとしても、我々が貴女が言うことを、頭ごなしに否定することなどありえません。それに、知っていますよ。御爺様もイヴァールも私も。貴女が、何かをその胸の中にひた隠しにしていることを。貴女はいつもそうやって一人で何かを抱え込んでしまう。我々の事を信じきることができないから、隠し事をしているのでしょう?」

 心の中を全て見透かすようなトーヴェの視線に晒されて、ウィルヘルミナは黙り込む。

『何かを抱え込んでいる』という言葉の『何か』が意味することに、すぐ思い当たったウィルヘルミナは視線を伏せた。

(信じられないとか、そういうわけじゃねー。ただ、どう説明したらいいのかわかんねーだけだ。こことは別の世界で、男として二十六年間生きていたなんて言ったって、信じてもらえるわけねーじゃん。もしオレだったら、他人にそんなこと言われたって素直には信じられねーもん)

 そこまで考えて、ウィルヘルミナははたと気づく。

(ああ、そうか。トーヴェ先生が言った通りだ。オレは、爺さんたちの事信じきれてねーんだ)

 ウィルヘルミナは、思わず顔をあげてトーヴェを見返した。

 トーヴェは、穏やかな微笑みを浮かべてウィルヘルミナをみつめている。

「でも、我々は待ちますよ。いつか貴女が、その秘密を我々に打ち明けてくれるまでずっと待ちます。それに、秘密があることは悪いことではありません。誰だって人に知られたくないことの一つや二つ存在しますからね。だから、今すぐ全てをさらけ出せと言っているわけではないのです。ただ、もしあなたの手に余るような秘密であるのなら、いつでも我々を頼ってくださっていいのです。どんな途方もない話でも、我々は貴女の話を頭ごなしに否定することは、絶対にありません。少なくとも私たちは、貴女が不必要な嘘を吐く人間ではないことを知っていますから」

(トーヴェ先生)

 ウィルヘルミナの胸に、何か温かいものがせり上がってきた。目の奥に、つんとした痛みを覚える。

 涙など絶対にこぼすまいと、ウィルヘルミナは必死でやり過ごそうと目を何度もまたたいた。

 トーヴェは手を伸ばし、仕方がない人だと言わんばかりにウィルヘルミナの頭をくしゃりと撫でる。

 だがそこで、がらりと表情を変えると、トーヴェは屈んで視線の高さをウィルヘルミナと同じくらいに合わせた。

「しかしですね。いくら秘密にしていいことがあるとはいえ、神獣契約については別問題です」

 トーヴェはいつもの調子に戻り、その顔は笑顔に変わっていたが、何故だかうすら寒いものを覚えさせる笑顔だった。

 滲みかけていたウィルヘルミナの涙は、反射的に引っ込んだ。

「壁の畔で、そんな不審な人間に会っていたのなら、すぐに報告するべきでしたね」

 綺麗な笑顔ではあるが、トーヴェの額には太い青筋が浮かんでいた。

(と、トーヴェ先生、完璧に怒ってるっ!!)

「す、スミマセン」

「世の中には謝って済む問題と済まない問題があるのですよ」

 トーヴェは立ち上がって両腕を組み、般若のような顔で見下ろす。

「黙ってたのはわざとじゃねーんだって!!」

「ではどうしてすぐに話さなかったのです?」

「だから、逃げ切れたし、たいしたことじゃねーと思ってたんだってば!!」

「その判断は、我々が下します。少なくとも二度目の遭遇――――つまり屋敷に侵入してきた時点では誰かに話しておくべきでした」

 ウィルヘルミナはぐっと言葉を飲み込む。

 やがて、悔しそうに言葉を吐き出した。

「はい、すみません」

(確かにトーヴェ先生の言う通りだ。魔法具で結界が張られているはずの屋敷に、たぶんイルマリネンは魔法を使って侵入したんだよな。そんなことができたことが確認できたあの時点で、爺さんには報告しておくべきだった)

「いいですか、二度目はありませんよ。次からは必ず報告してくださいね」

「はい、わかりました」

 反省した様子で答えるウィルヘルミナを見て、トーヴェは安堵のため息を吐き出す。

 もう一度、頭をくしゃりと撫でた。

「貴女が無事でよかったですよ」

「うん、ごめん、心配かけた」

「わかってくださればいいんです。しかし、それにしても神獣が壁の畔にいたのですか…」

 そう言って、トーヴェはしばし考え込んだ。

「あなたが言うその神獣は、どうやらかなり規格外の存在のようですね。トゥオネラは、神獣とは相性の良くない土地です。にもかかわらず、壁の畔を一人で彷徨い歩いているとは…普通ならば考えられないことです。しかも、人型の神獣なのですよね?」

「うん」

「人型であるという事は、上位の神獣であることは間違いありません」

『神獣』と称されるように、通常神獣は、ほとんどが獣のような容姿をしている。

 精霊と同じように、人に近い容貌の神獣は力ある上位の者だけなのだ。

 そう、上位の神獣でも、人に近い容姿であるに過ぎない。

 だが――――。

(イルマリネンは、まんま人間だったんだよな。とりあえず外から見える場所で、人間と違うところは一つもなかった。だから最初は、ただの人間なのかもしれねーと思ってたんだけど…)

「貴女が契約したと言うその神獣は、力のある神獣だったからこそ、このトゥオネラを歩き回っても平気だったのでしょうね」

 トーヴェの言葉に、ウィルヘルミナはうなずいた。

 このトゥオネラの大地は、神獣の魔力を吸い取る作用がある。だからトゥオネラは、神獣にとっては『相性の良くない土地』なのだ。

 そのため、本来神獣はトゥオネラに召喚されることを嫌う。

 神獣との契約が難しい理由は、神獣の気位が高いことと、自我が発達していることもその理由の一つではある。しかし、そもそも神獣契約の召喚自体が、術者が契約したいがために勝手に行っている行為であるため、神獣は召喚された時点で腹をたてているので成立が難しいのだ。

 だから神獣は、強制的に呼び寄せられた怒りのまま、召喚者を殺してしまうことが多い。

 それゆえ、神獣との契約の前には万全の体調で臨み、豊富な魔力を蓄えておくことが必須条件であった。

 神獣は、召喚者の魔力や人間性を気に入れば契約をしてくれる。

 例外的に、神獣に力で押し勝って屈服させて契約する場合もあるが、その場合、神獣にとって不本意な契約であるため、契約者が弱ると、その隙をついて神獣は契約を破棄するために抗い、契約者に襲い掛かってくることがある。平たく言えば、殺される可能性もあるかなりリスクの高い契約方法となるため、力で屈服させることは一般的ではない。

 契約が完了すると、召喚者は神獣をトゥオネラに呼出している間中、常に神獣に魔力を提供しなければいけなくなる。

 神獣は、この世界に存在するだけで魔力を吸い取られて弱ってしまうため、その失った魔力を契約者から分け与えてもらうことで補うのだ。

 だから、神獣を長時間トゥオネラに召喚しておくことはできない。

 あまり長い間呼び出し続けると、召喚者の魔力だけでなく生命力まで削られることになる。つまり、命にもかかわってくるのだ。

(イルマリネンの奴、かなり力がある神獣なんだな。壁の畔ではじめて会った時、全然弱った感じしてなかったもんな。つか、居るだけで弱るような場所、普通なら散歩しねーもんな)

 イルマリネンの強さは底知れない。

 ウィルヘルミナは、あらためてそのことを実感させられていた。

 トーヴェは、首をひねりつつウィルヘルミナを見やる。

「それにしても、神獣の方から無理やり契約を迫ってくるなどという話、私は聞いたことがありません。よほど貴女の魔力が気に入ったのでしょうね。何しろ貴女は、精霊たちにもかなり好かれる体質のようですし、きっと魔力の質が、我々とは違うのでしょう」

「そうなのかな? オレにはそんな実感ねーけど」

(つか、あんな厄介なのにストーカーされるくらいなら、そんな体質いらねーんだけど)

 そんなことを取り留めなく考えていて、ふとウィルヘルミナはあることに気付く。

(待てよ、ということは、こっちに召喚している間は、オレがあいつに魔力を提供しなきゃなんねーってことだよな。あいつが言うように、心の中をのぞき見しない代りにずっとそばについていられたら、さすがのオレでも魔力切れ起こすことになるんじゃねーのか? それに、イルマリネンだって相性の悪い土地にずっと居続けたら体調悪くなるんじゃねーのかな。なんだよ、すでに手詰まりじゃん)

 ウィルヘルミナは一人頭を抱え込んだ。

「なー先生、実はここからが本題なんだけど――――」

 望の薄い可能性に期待しつつ、トーヴェを見上げる。

「本題とはなんです?」

「人間側から神獣との契約を破棄する方法ってあんのかな?」

 一縷の望みをかけてトーヴェに質問した。

 トーヴェはあきれ顔で首を横に振る。

「そんな方法があるとは聞いたことがありません。そもそも神獣契約を破棄しようとする人間など、存在するのですか? 少なくとも私は、そういう事例も聞いたことがありません」

「だよなー」

(やっぱ無理なのかー)

 ウィルヘルミナはがっくりとうなだれる。

「オレさ、まだ東壁行きの荷物まとめ終ってねーから帰るわ」

 ウィルヘルミナはあからさまに肩を落とし、疲れた表情で手を振って、とぼとぼと来た道を帰りはじめた。

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