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『また会えるだろ?』とウィルヘルミナが重ねて問いかけても、ベルがそれに答える事はなく、奇妙な静寂が流れる。
そこにフレーデリクとラガスがやってきた。
二人とも沈んだ表情をしている。
「どうしたんだよフレーデリクさん、なんかへんな空気じゃね?」
その場を明るくしたくて、茶化すように言ってみたが、しかし二人の表情は沈んだままで、その問いかけには答えなかった。
フレーデリクが、暗い表情のまま、ベルの父親の使いが来た旨をベルへと伝える。
するとベルは、ふっきれたような笑顔を浮かべてウィルヘルミナに向き直った。
「短い間だったが、色々世話になったな。お前には感謝している。お前の未来が素晴らしいものであることを祈っている」
一方的に、別れの言葉のようなものを告げてきた。
「は? なんだよそれ、まじでお別れみたいな言い方じゃねえか。意味わかんねえ、ちゃんと説明しろよ」
しかし、ベルは何も答えることなく、急ぐからと言ってそのままフレーデリクたちと行ってしまった。
後には、ザクリスとトーヴェとウィルヘルミナの三人だけが残される。
ウィルヘルミナはしつこくトーヴェに経緯の説明を求めたが、トーヴェは口を閉ざしたまま何も語らなかった。
そのうちに、トーヴェも呼ばれていってしまい、結局取り残される形となったウィルヘルミナたちは、屋敷の者に帰るように促され、仕方なくザクリスとともに帰途についた。
ウィルヘルミナは、ザクリス邸に戻ると不貞腐れた様子で自室にこもった。
しばらくして、ザクリスに夕食だと声を掛けられ、しぶしぶといった様子で部屋から出てきたが、食卓に着くなりまくし立てるようにしてザクリスに問いかける。
「なあザクリスさん、ベルは貴族だろ? なのに、なんで教会学校になんかに通うんだ? あいつ、まだ十歳だぞ? なんで今なんだよ。ベルの父親は、ベルを教会魔術師にしたいのか? 例えばベルが跡継ぎじゃない次男とか三男だったとしても、王立学校に通わせて、軍属魔術師にするのが普通なんじゃねえの? 長男が早世した場合の事を考えたら、教会魔術師にするなんて選択、普通はねえだろ? ベルの父親はいったい何を考えてんだよ」
ザクリスは眉根を寄せて考え込んだ。
「そうだね普通ならしない選択だよね…」
そこで言葉を止め、黙り込む。
「オレには全然納得がいかねー。いったいどんな父親なんだよ。ベルが命を狙われてても放っておきやがってさ。挙句の果てには教会学校なんかに行かせるって…いったいどういう了見なんだよ。ベルが学校に行くのは親に言われたからだって言ってたし、あの様子を見る限りじゃベル自身だって教会魔術師になりたいって感じじゃなかった。なのに、なんで無理やり教会魔術師にしようとすんだよ!?」
言葉にしているうちにだんだんと腹が立ってきて、ウィルヘルミナは拳を握りしめ、思わず怒りに任せて机をドンと叩いた。
以前ベルは、『私はある人物に死を望まれている』と言っていた。
最近、もしかしたらその相手は父親なのではないかと思うようになっていた。ベルとの会話で、父親の話題が出るたびに漂うおかしな空気から、そんな気配を感じていたのだ。
むろんそれはウィルヘルミナの推測でしかなかく、ベルに真偽を質したわけではない。
もしそれが事実だったとしたらと想像しただけでやりきれなくなり、とてもではないが口に出すことができなかった。そして、ベルの心情を思うと、胸が締め付けられた。
ウィルヘルミナは、まさか父親が自分の子供にそんなことを望むはずがないと、何度も否定してはみたが、しかし、とうとうその疑念を晴らすことはできなかった。
むしろ今回の件で、その惨い想像が、ますます現実味を帯びてくる。
ザクリスは、硬い表情でウィルヘルミナを見返した。
「私には、ベル君の家の込み入った事情は分からない。だからこれは私の推測なんだけど、お父上がベル君を教会学校へ入学させようとしているのは、ベル君に家を継がせるつもりはないという意思の表れなんじゃないかな」
それを聞いたウィルヘルミナは、苛立った様子で声を荒げる。
「だとしたら、本人に相続を放棄させればいいだけの事だろ。わざわざ教会魔術師にする必要なんてどこにもねえじゃん。なんで息子の将来を勝手に決めちまうんだよ。教会魔術師になったら、家の断絶を回避するための相続とか、よっぽどの事情がない限り自分の意思で還俗することは難しいだろ? ベルの気持ちはどうなるんだよ。跡を継がせるつもりがねえんだったら別にそれでもいい。けど、せめてベルのなりたいものにならせてやれよ。なんでやりたいことすらやらせてやらねえんだよ!」
「そうだね…。けれども、先ほどのベル君は全てを受け入れていたように見えたよ。たぶん彼が悩んだ末に出した結論なのだと思う。私たちは、ベル君が苦しみながらたどり着いたその決心に、口を挟むべきじゃないと思う」
「確かにベルが決めた事なのかもしんねえけど…でも…」
ウィルヘルミナにはどうしても納得がいかなかった。
はじめて会った時、ベルは尖った空気を纏っていた。
他人を寄せ付けず、必要以上に干渉されないように一線を引き、冷めた目で世の中を見ていた。
『疎まれているのだ』
『そんなにも私を殺したいのなら、死んでやってもいい』
そう言って、全てを諦めきっていたあの頃のベルの顔を思い出すと、ウィルヘルミナはたまらなくなる。
それだけの絶望を見せつけられてきたのだと思うと、苦しくて切なくてたまらなかった。
けれどもベルは変わった。
剣術や魔術の勉強に真剣に取り組み、上達することを心から楽しむようになった。
そんな最近のベルの心境の変化を間近で見てきたからこそ、よけいに納得ができなかった。
「なんでだよ…せっかくベルの気持ちがいい方向に変わってきてたのに…。こんなのあんまりだ」
「それでも、部外者の我々にはどうすることもできない」
「そうかもしんねえけど…でも、オレには納得できねーんだよ! こんなの絶対におかしい!」
叫んで、拳を白くなるほど握りしめて唇を噛をもみしめる。
(打ち込めるものができたのに、なんであきらめなきゃなんないんだよ。そうだよ、あきらめる必要なんかねえじゃねえか)
ウィルヘルミナは決心した様子で立ち上がり、ドアに向かって荒々しく歩き出した。
「レイフ君? どこへ行くの?」
「オレ、やっぱりもう一回ベルに会って話をしてくる」
「会ってどうするの?」
「ベルの本心を聞き出してくる」
「本心を聞き出したからといって、我々にできることなんてたかが知れている。今更ベル君の決心をぐらつかせるようなことをするのは、かえって酷かもしれないよ」
「それでも、オレはベルの本心が聞きたい。誰にも本音を吐き出せないまま、一人で抱えこんでいることだって酷な話だ!」
「レイフ君…」
「とにかく、オレはもう一回ベルに会いに行ってくる」
すると、ザクリスも後を追って立ち上がる。
「待って。私も一緒に行く」
ウィルヘルミナは、不貞腐れたような顔でザクリスを振り返った。
「ザクリスさんは反対なんだろ? 別に来てくれなくてもいいよ。オレは一人でベルに会いに行くから」
ザクリスは困ったようなため息を吐き出す。
「別に反対というわけではないんだ…。でも、世の中には、どんなに頑張っても越えられない壁はたくさん存在するんだ。私は、それを知っているから、だから…」
そこまで言って、ザクリスは遠い目をした。
やがて首を横に振りながらため息を吐き出す。
「いいや、これは言い訳だね。今まで私が壁を超えることができず、何度も挫折を繰り返してきたから…。だから君たちにも、はじめから諦め、早々に気持ちに蓋をして折り合いをつけることを押し付けようとした。駄目だね私は…。君たちには、乗り越えられる壁かもしれないのにね」
ザクリスは、自嘲するように笑った。
「私も行くよ。一緒に行かせてほしい」
ザクリスとウィルヘルミナは、夕暮れに染まりつつある空の下を、二人並んで歩いていた。
二人の間には、沈黙ばかりが横たわっている。
その沈黙を破ったのは、ザクリスだった。
「実はね…私は、もとは教会魔術師だったんだ」
唐突な告白に、ウィルヘルミナは驚いた表情で隣を歩くザクリスをふり仰ぐ。
「私は枢機卿たちの怒りを買ってしまってね。教会から破門された身なんだ」
ザクリスは、歩きながら静かに空を見上げた。
「教会では失われた叡智の研究を禁止しているんだけど、レイフ君は知っている?」
ウィルヘルミナは初耳だと驚きながら首を横に振る。
「そうなのか!? 知らなかった。でもなんで?」
「はっきりとした理由はわからない。最近になって、ようやくその理由の輪郭が掴めてきたけど、まだ確証はないから、もう少し確信が持てたら、いずれその質問に答えるね。とにかく、教会では失われた叡智の研究を禁じているんだ。当時の私は失われた叡智の研究はしていなくて、純粋に金界魔法の研究をしていただけだったんだけど、どういうわけか、隠れて失われた叡智の研究をしているに違いないと、急に難癖をつけられてね。紆余曲折ののちに、それが理由で教会を破門されることになったんだ。表向きには、やってもいない失われた叡智の研究が破門の理由とされたけど、たぶん本当は、一部の枢機卿がはじめた禁書目録の作成に異議を唱えたことが原因だと思うんだ」
「禁書目録? なにそれ?」
ウィルヘルミナが聞き返すと、ザクリスは静かに続ける。
「簡単に言えば、教会にとって不利になるような著書を『禁書』として扱い、焼き払うための選定をすることかな。教会の体制を批判していたり、今後危険な思想に発展しそうな主張をしていたり、とにかく一部の枢機卿たちが、そういう類の本をよく検討もせずに禁書と定め、強制的に排除しようとする動きがあって、当時の私はそれを批判していたんだ」
ウィルヘルミナは目を見開いてザクリスの横顔を見つめた。
「禁書目録に指定された本の中には、教会の現状を憂いて、今後のためにどう動くべきか、真摯に書かれていた本もあった。だから私は異議を唱えたんだ。もともとヴァン教がここまで拡大できたのは、国が国教と認めたことが大きい。言い換えれば、トゥルク王国の権威を利用して成長してきていたんだ。だから、今更国の力を排除しようとしても無理がある。頑強に手綱の取り合いをするのではなく、妥協点を探る方が建設的だ。お互いの主張が反目しあったままでは、最終的には戦争しかなくなる。それは絶対に回避しなければならない選択だからね。禁書目録の中には、そういう解決方法を模索するような主張が書かれた本もあった。だから私は、指定を見直すように訴えていたんだ」
「そうだったんだ…」
「でも、私のそういう主張は国側に与していると思われていたんだろうね。だから失われた叡智の研究をしているとでっち上げられ、一方的に断罪されて異端審問にかけられたんだ。本来なら火刑でもおかしくはなかったんだけど、こんな私の事を助けてくれた人々がいてね。おかげで私は、火刑は免れた。その代償として教会からは追放される事にはなったけど、でも、今私はこうして生きている」
ザクリスは穏やかな口調だったが、その言葉の奥には諦念の影がはっきりと見てとれた。
「自分が正しい。心からそう信じて主張しても、巨大な力の前ではそんな正論はなんの意味もなさない。権力の前で、個の力は無力なんだ。自分の命と引き換えに自分を押し通すか、諦めて屈服するか、その二択しか存在しない。私は後者を選んだからこうして生き長らえることができたんだ。今ではこうして金界魔術という自分の好きな世界に没頭することで、全てから逃げ出したんだ」
ザクリスはそう言って悲しげに微笑んだ。かつての自分と向き合い、よみがえった記憶によって、再び当時の悲しみと絶望に塗りつぶされていた。
諦め、そして自嘲。
そんな空気を纏うザクリスに、かけるべき言葉が見つけられず、ウィルヘルミナは口を引き結ぶ。
いつも穏やかにほほ笑むばかりのザクリスの過去に、こんな絶望が存在していたことを知って、少なからぬ衝撃を覚えていた。
(オレ…何も知らないくせに、ただ批判だけしてた。こんなの自分勝手で薄っぺらい考えを振りかざしてるだった…)
「でもね、イヴァールから頼まれて君と一緒に過ごしているうちに、少しずつ昔の自分を思い出してきたんだ。イヴァールが君を私に預けたのは、負け犬に成り下がった私に発破をかける意味もあったのかもしれないね。尻尾を巻いて逃げ出した私の尻を叩こうとしたのかもしれない」
そう言ってほほ笑んだザクリスは、いつものザクリスだった。
悲しみと絶望に蓋をして、ただ穏やかに、心の底からの笑みを浮かべている。
「ごめんザクリスさん」
後悔ばかりがせり上がってきた。ウィルヘルミナは、自分の未熟さが、ただはずかしい。
「オレは何も知らないで、ザクリスさんの事一方的に責めてた…。オレにはそんなふうに批判する権利なんてないのに」
「そんなことはないよ。自分を殺して生きていくことは、ある意味死んでいる事と同義だ。まだ子供のベル君に、生きる屍の道を強いるのは、私みたいな負け犬の発想だったね。レイフ君みたいな青臭さ、私は割り切ってとうの昔に捨ててしまっていたよ。物わかりがいい振りして、最初から全部諦めていただけなのにね」
ザクリスは手を伸ばし、ウィルヘルミナの頭を撫でた。
「君はそのままでいいんだよ。トーヴェさんも言っていたでしょう? 好きにしていいんだと。私も、君たちが、君たちらしくあるための手伝いをさせてもらうことに決めたよ。卑屈な穴倉生活とは、そろそろさよならすることにするよ」
ザクリスは、吹っ切れたような微笑みを浮かべている。
「ザクリスさん…オレは…」
(いいのかこのままザクリスさんを巻き込んだりして…。もしかしたら、オレはザクリスさんの穏やかな生活を滅茶苦茶にしようとしているのかもしれない)
そんなウィルヘルミナの気持ちを察したのか、ザクリスは微笑みを浮かべたまま首を横に振った。
「いいんだよ。私は今、とても気分がいいんだ。久しぶりに本当の自分を取り戻せた…そんな気がする。ベル君の件は、もう少しよく話を聞いてみよう。ベル君は命を狙われているからね。教会学校に行く事を拒否したら、何か不都合があるのかもしれない。フレーデリクさんたちの話も聞いてみないことには、どの手段が最善なのかまだ判断がつかないからね」
(そうか…ベルの父親がベルを疎んでいるのだとしたら、父親の命令に反発し、教会学校に行かないと主張したら、余計不利な状況になるかもしれないんだ)
ザクリスは、もう一度ウィルヘルミナの頭を撫でた。
「大丈夫、きっといい方法がみつかるよ。だからそんな顔をしないで」
ザクリスの穏やかに響く声を聞いていると、不思議と気持ちが落ち着く。
「ザクリスさん、ありがとう」
ウィルヘルミナの礼に、ザクリスは笑みを深くした。




