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四壁の王  作者: 真籠俐百
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「お疲れ様です。はちみつ入りのヤギの乳を温めてありますよ。どうぞ」

 ウィルヘルミナが家に帰ると、家庭教師であるイヴァール・クーセラが、端正なその顔にめずらしく微笑みを浮かべながら出迎えた。

 北壁人特有の金色の長い髪を無造作に後ろで一つにくくり、切れ長の青い目を穏やかに細め、口元に淡い笑みを浮かべるイヴァールの姿は、まるで宗教画に描かれる、信徒の告解を許し受け入れる聖人のようだ。

 しかし、そんな慈愛に満ちたイヴァールの姿を見たウィルヘルミナは、反射的に慄く様にのけぞり、警戒するようにイヴァールを見上げた。

 日頃は不愛想、冷徹、鉄仮面が定番の、感情の起伏が乏しいはずのイヴァールが、何故か微笑みを浮かべているその様が、ウィルヘルミナに少なからぬ衝撃と恐怖とを与えたのだ。

 ウィルヘルミナは、すぐに反応はせず、寒さに震えながらもその真意を探るようにじっとイヴァールを見つめかえす。

 ピリついた空気とともに、二人の間にしばしの沈黙が訪れた。

 このイヴァールは、先ほどウィルヘルミナが森の中で『陰険眼鏡』『陰険クソ童貞眼鏡』などと、心の中でののしっていた人物その人だ。

 今のイヴァールは眼鏡をかけていないのだが、ウィルヘルミナにとって眼鏡はイヴァールの必須アイテムであるがゆえ、隠れてあだ名に使っていた。

 何故ならイヴァールは、ここぞという場面で魔法を使う時には、必ず片眼鏡を装着するからだ。

 イヴァールの片眼鏡は魔法具で、効果を端的に説明すると、魔法の力を増幅させる装置で、眼鏡をかけて魔法を使えば数倍の威力が見込めるという代物である。

 常日頃、イヴァールがこの眼鏡の手入れをする姿を幾度も見かけており、ウィルヘルミナの中ではそれが印象的であるがゆえに、こっそりと彼のあだ名に使っているのだった。

 ウィルヘルミナは、イヴァールが微笑みを浮かべて差し出すホットミルクを一瞥してから、もう一度イヴァールを見上げる。

(これって何かの罠ってわけじゃねえよな。油断させておいて、その隙に攻撃してくるとか)

 そんな疑いを持ちたくなるほど、今の状況に違和感を覚えていた。

 イヴァールの笑顔など、これまでめったにお目にかかったことがないからだ。

(眼鏡のやつ、今日は機嫌がいいのか? こっちは魔物どころかサイコにまで遭遇して、やっとの思いで逃げかえってきたってのに、安全な屋敷の中でホットミルク飲んでるとか、いいご身分だな)

 やがて自分が追いやられていた状況を思い出し、ふつふつと怒りがこみあげてきた。じっとりと恨みがましい視線を投げつけてやる。

(何がお疲れ様だ。しれっと言いやがって。オレの事を壁の畔に置き去りにしてきた張本人のくせに。ふざけんなよ、白々しいんだよこのチェリーが。ミルクなんかじゃなくて麦酒(エール)でもよこしやがれ。その方が早く体があったまるわ)

 この世界では、場所によって水の安全性に欠けるため、子供でも度数の少ない酒を飲むことは当たり前である。それゆえ、酒を要求することは非常識ではなのだが、しかし、ウィルヘルミナは視線にその思いの丈をのせるだけで無言だった。

 イヴァールは、その視線から何かを受け取ったのか、はたまた受け取っていないのか全く読めない。相変わらず顔にはうさんくさい笑顔を張り付けたまま微動だにしなかった。

 ウィルヘルミナは、内心ささくれだった気持ちで悪態をつきつつも、しかし寒さに負けた。

 不満を内包した表情のまま、無言でホットミルクを受け取る。

 ウィルヘルミナの体は冷え切り、歯の根も合わぬほどガタガタと震えていたのだ。

 両手を温めるように手のひらで陶器のカップを覆い、ミルクをゆっくりと口に含む。

麦酒(エール)の方がよかったけど、ま、ないよりはましか)

口の中にじわりと広がる甘みと暖かさに、知らず知らずのうちにほっと安堵の息を吐いていた。

 

「さあ暖炉の前にどうぞ」

 人心地ついたウィルヘルミナは、イヴァールに誘われるまま暖炉の前に移動する。

 この男――――イヴァールは年齢三十歳。修道士である。

 トゥオネラにおいて家名があるということは貴族である証拠で、イヴァールの出身は副伯と呼ばれる地方貴族であった。

 そして修道士というのは修道院に属する修道聖職者のことで、通常ならば、俗界とは隔離された修道院の中で、禁欲生活を送っているはずの厳格な聖職者のことだった。

 ちなみに、教皇、大司教、司教、司祭といった聖職者は、在俗聖職者と呼ばれ、俗世の中で祭祀をつかさどっている。こちらは、聖職者であっても結婚が可能だった。

 修道院は教皇直轄の教会一派ではあるのだが、その性質から他の教会とは一線を画している。教皇といえどもなかなか干渉することのできない、教会の中でも独立した特別な存在であるのだ。

 修道士は、その厳格な教義から婚姻は絶対に許されない。結婚はもとより、女性との性的な接触のみならず、男色すらもが禁止されていた。

 余談ではあるが、それゆえウィルヘルミナは、イヴァールの事を『チェリー』『童貞』とあてこすっているのだった。

 話しを戻そう。

 そんな人物が何故在野に居るのかというと、ウィルヘルミナの祖父ラウリ・ノルドグレンが、孫の家庭教師として招いているためだ。

 ウィルヘルミナは、このイヴァールから魔法を教わっているのだ。

 とはいえ、イヴァールは修道士。一年中ずっとこの屋敷に滞在しているわけではない。

 一年のうち、十か月程度は修道士として厳しい修行に打ち込み、その合間を縫って残りの二か月程度の日数を、年三、四回に分けて不定期にラウリ邸を訪れている。

(今回を乗り切れば、また三か月間くらいはこいつに会わずに済むはずだ。頑張れオレ)

 ウィルヘルミナは、心の中でそう自分を励ましていたが、それも仕方のない事だった。

 何故なら、このイヴァールの教育方法はとてつもなく厳しい実地訓練ばかりで、おそらくウィルヘルミナでなければ死んでいるようなレベルであった。

 それは誇張でもなんでもなく、紛れもない真実。

 実際、今日の出来事を振り返ってみれば、それが嘘ではないことが理解できるはずだ。

 何しろイヴァールは、魔物が出没する壁蝕真っ最中の壁の畔に、魔法具なしの八歳児を平気で一人置き去りにしてくるような男なのだ。並みの神経ではない。

 そんな危険と隣り合わせの指導から戻り、人心地ついたばかりのウィルヘルミナは、ミルクと暖炉のおかげで体が温まると、きょろきょろと周囲を見回しはじめた。

「そういえば、トーヴェ先生は?」

「トーヴェならば、ラウリ様と壁の見回りに行っておりますよ」

「そうか…」

 小さくつぶやいて再びミルクに口をつける。

 祖父ラウリの不在を聞いて、ウィルヘルミナは少しだけ緊張感を解いた。

 そして、辺境伯爵家の令嬢らしからぬ行動に走る。

 ウィルヘルミナは、それまで立ったまま暖炉の前で火にあたっていたのだが、祖父の不在を聞いた途端、はしたなくも床に胡坐をかいて座り込んだ。

 そんなウィルヘルミナを見て、イヴァールは呆れたような半眼になる。

 諦めたように小さくため息を吐き出した。

 礼儀作法の手ほどきは、ラウリの管轄である。自分がしゃしゃり出て口幅ったいことを言うのはやめておこうと考えたのだ。

 それに、そろそろラウリが帰ってくる頃合いだ。

 ラウリが今のこの姿を見れば、どのような結果がもたらされるのかは火を見るより明らかだ。

 イヴァールは、それを親切に教えてやるつもりは毛頭なかった。

 日頃表面的には従順なのだが、内面的には何を考えているのか全く掴めないこの少女の、いい薬になるだろうと思ってあえて放置した。

 そんな不穏な気配など全く察知することもなく、ウィルヘルミナはミルクをすする。

 ウィルヘルミナには、このイヴァールの他にももう一人家庭教師がおり、名をトーヴェ・ヴァルスタといった。三十五歳の男である。

 トーヴェは軍属魔術師――――ちなみにイヴァールは教会魔術師――――で、トーヴェは主にウィルヘルミナの剣術の指導を担当していた。

 余談であるが、ウィルヘルミナが、先程壁の畔で『おっさん』と称したのはこのトーヴェのことで、『爺さん』と称したのはラウリのことである。

 ラウリはノルドグレン辺境伯爵家の前当主で、今は次男であるエイナルに家督を譲り、壁の畔にあるこの屋敷に隠居していた。そしてウィルヘルミナの後見人でもある。

 イヴァールが先ほど述懐していた通り、ラウリはウィルヘルミナの礼儀作法の教師であるのだが、イヴァールやトーヴェが不在の時には、二人に代わって魔術と剣術を文字通り叩き込んでくれるスパルタ教師でもあった。

 厳格なラウリが、今のウィルヘルミナの姿を見ればどういうことになるのか想像に難くない。

 しかし当のウィルヘルミナはといえば、イヴァールの黒い気配に微塵も気づくことなく、暖炉の前でほっこりくつろいでいた。

(この時期に二人で壁の巡回とか、よくやるよなー。壁蝕の討伐の責任を負うノルドグレン家には敵視されてる状況だっつーのに、命を狙われながらも討伐に参加した挙句わざわざ敵の手助けをしてやるなんて、ぜんぜん意味わかんねーわ。元当主の使命感なんかな)

 不満そうに唇を突き出しながらホットミルクを口に含む。

(そういえば、確かおっさんは宮廷魔術師になったんだよな…。だったら中央でバリバリ上をめざしゃいいのに。わざわざ休暇取って北壁に滞在して、オレの家庭教師なんてせせこましいことしなくたっていいのによ)

 ウィルヘルミナは、暖炉の前で背中を丸めつつ内心でぼやいた。

 トーヴェは、イヴァールと同様に副伯と呼ばれる貴族である。

 副伯というのは辺境伯に準じる地方貴族で、侯爵、子爵、男爵と呼ばれる中央に属する都市貴族とは一線を画していた。

 しかしトーヴェは、今はエルヴァスティ王家に召し抱えられている。

 中央と辺境の確執を考えれば、これは異例中の異例の人事で、王家や都市貴族、自由都市の商工業組合からかなりの反発があった。

 副伯を中央の軍属に配するのは論外という時流が、今のトゥオネラには強固に根付いているのだ。

 だがその人事は、まだ幼いベルンハート・エルヴァスティ第二王子の独断で断行された。

 それは半年前の出来事であった。

 しかし、トーヴェは今もラウリに仕えている。

 トーヴェが中央に食い込んだのは、ラウリの命を受けての事なのだ。

 ただし、対外的にはトーヴェがラウリに仕えていたのは五年前までの事となっている。


 そう、五年前――――。


 それは、ウィルヘルミナが前世の記憶を取り戻す事件があったその時期に重なる。

 むろん、この五年前の出来事こそが、彼らの運命を大きく変えることになったのである。



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