26
季節は廻り、今は春になっている。
ウィルヘルミナがザクリスに預けられたのは、昨年の九月の事。
それから八か月の時間が過ぎ、ウィルヘルミナは九歳、ベルは十歳になっていた。
トーヴェとウィルヘルミナの例の訓練を見せられて以来、ベルの足はザクリス邸から遠のいていた。
ベルは、トーヴェに教えを乞うことに集中したのだ。
その話を聞いた時、鍛錬の時のトーヴェの鬼畜さを身をもって知っているウィルヘルミナは、『骨は拾ってやるぞ』と心の中で思ったものである。
しかし、そんな心配をよそに、ベルが訓練を途中で投げ出すことはなかった。トーヴェの厳しいしごきに耐え、今でも必死に食らいついている。
そしてウィルヘルミナはというと、精霊魔法の契約に専念することができるようになり、契約のペースは格段に上がることになった。
その甲斐あって、現在のウィルヘルミナの契約階位は、地界、金界、氷界、雷界、聖界が一位まで完了し、残る火界、風界、闇界は二位という驚異的な成長を遂げていた。
今は、火界一位を契約するべく魔法陣を描いている最中であった。
ウィルヘルミナは、そんな忙しい毎日を過ごしていたが、それでも一週間に二回程度はロズベルグ邸を訪れ、ベルの訓練の相手をしている。
ベルの腕は日を追うごとに上がっており、魔法抜きの体術だけでは、五回に一度くらいは、ウィルヘルミナと五分に持ち込める程までに成長していた。
そしてベルは、訓練と同時に精霊魔法の契約も進めており、その結果ベルは五職であることが判明していた。
ベッド型の魔法具の一件以来ベルを狙う暗殺の手は緩み、大きな事件は起こっていない。
本来ならばウィルヘルミナが金界二位魔法を契約できた時点で、ベルの部屋に仕掛けられていた魔法具を中和するべきだったが、しかし、諸事情からそれを断念している。
もし魔法具を中和すれば、二位魔法の使い手の存在――――つまりウィルヘルミナの能力が敵にばれ、こちら側の手の内をさらすことになりかねないからだ。
条件を満たさなければ魔法具が発動することもないので、とりあえずはベルの寝室を別の部屋に移動することで対応してある。そのため、件の魔法具はそのままの状態で保管されていた。そうやって敵の反応をうかがってはみたが、何の動きもないままだった。
おかげで、結局犯人はわからずじまい。現状では不安要素をぬぐい切れてはいないが、それなりに穏やかな日常を過ごすことができていた。
そんな春うららかな朝の事――――。
ザクリス邸に、早朝から早馬で手紙が現状ではた。
手紙の送り主はイヴァールで、ザクリスに宛てられたものだ。
手紙では、このところ教会の有志者たちを悩ませている頭痛の種――――教会内部の対立について触れられていた。
実は、ザクリスは元教会魔術師で、破門されて還俗しているという特異な経歴の持ち主だった。
ザクリスの研究や思想、主張などが、教会上層部の保守陣の怒りに触れ、そのため追放の憂き目に合ってしまったのだ。
だが、破門されたはずの当のザクリスは、すでに過去の事と吹っ切っており、教会に対して復讐しようなどという気持ちは全く持っておらず、破門に対する恨みもなければ、信仰への執着もない。
逆に教会の外の方が気楽でいいと笑い飛ばし、晴れて自由の身となった今では、教会で厳重に禁止されている失われた叡智についての研究に没頭していた。
そういった経緯もあり、イヴァールはザクリスに教会内での反目、確執などについて、忌憚のない意見をもらうためこうして手紙で相談することが多いのだ。
このところの教会内部の対立激化の原因は、ソルム教皇の後継問題にあった。
ソルム教皇は七十五歳とかなりの高齢で、ここ十年ほどの間、何度となく後継者問題が取りざたされている。そのたびに対立の溝はどんどんと深まっていき、今はもう簡単には収拾のつかない状況に陥っていた。
後継の候補者は数名いるのだが、中でもベンクト大司教とエーミル大司教の二名は支持者が多く、他の候補者たちから頭一つ抜け出ており、実質的に、次の教皇選挙はこの二人の一騎打ちといっても過言ではなかった。
ベンクト大司教は、中央大司教区の置かれている司教座都市ミッケリの教会管区長を兼任する大司教で、トゥルク王国に対して強硬な姿勢を崩さないタカ派である。
対してエーミル大司教は、西方大司教区の置かれている自由都市ナーンタリの参事会に籍を置く穏健派のハト派であった。
だがこの二名、両者ともが痛しかゆし。それぞれが問題を抱える困った人物であった。何故なら、両者とも主張が両極端すぎるのだ。
そのおかげで、互いに教皇選挙の選挙権を持つ枢機卿らの過激で偏った支持を得ているともいえる。
そのどちらの候補が次代教皇になっても、今後の教会の未来に暗雲が垂れ込めるのは間違いなかった。
二人が主張する相反する意見の詳細に触れる前に、そもそも、何故教会と王国が対立しているのか、予備知識として説明が必要になろう。
一般的に『教会』と略して呼ばれているヴァン教会は、もともと王令によって国教と認められている宗教である。
国教化された歴史は千数百年程さかのぼることができ、古より続く由緒正しい信仰だ。
ヴァン教を国教と認めたこの『王令』とは、言いかえれば勅令の事で、王が発する法的効力を持つ命令の事である。
この事実からも、教会と王国は、かつては友好的な関係にあったことが裏付けられよう。
教会側としては国の庇護をあてにしていたし、国側も宗教による民の支配を目論んでもいた。
つまり両者の関係は、利害の一致により友好的にはじまっていたのだ。
しかし、時が経つにつれ両者の間では様々な権力闘争が勃発し、しだいに関係は悪化していくことになる。
その悪化の原因はいくつかあるのだが、この数十年の間で最も取り沙汰されているのは聖職叙任権であった。
聖職叙任権というのは、文字通り聖職者を叙任する権利の事である。
本来、司教や司祭を選ぶ権利は、その土地の領主に在った。
教会は、国王の発した王令や、領主が発行した特権状などによって、土地の所有や税の徴収、自治が保証されているため、各領主の下に位置付けられていたのだ。
ちなみに『特権状』は、領主が教会や都市、村落共同体などに対して個別に権利付与した文書のことである。
しかし、時が経つにつれ聖職者たちは世俗領主化していき、その土地における権力を強大化させ、やがて領主たちの下にあったはずの教会の立場は、ゆっくりと逆転していった。
その過程で、もともとは領主――――つまり国側にあった聖職叙任権や課税権が、徐々に教会側に渡っていくことになったのだ。
はじめこそ『王令』や『特権状』によって特別に認められていた教会の権利は、時代の流れによって慣習化されていき、いつしか、教会が聖職者の任命をし、領地への課税額を決めることも当たり前になっていったのである。
そうやって教会は盤石の地位を築いていった。
だが、教会権力の拡大を懸念した二代前の国王が、王令を根拠に、教会の任命に待ったをかけ、自分の子飼いの司祭たちを、司教や大司教に無理やり任命するという事件が起こった。
この時、各司教座には、すでに教会が任命した司教や大司教が居たにもかかわらず、国側が勝手に新たな任命をしたため、両候補が並立する事態となり、国中が混乱に陥った。
この対立のおかげで、世論も国王派と教会派との二派に分かれて分断し、あわや軍事衝突という危機的な状況にまで悪化した。
だがこの時、当時は中立を保っていた四壁が和解を提案し、かろうじて武力衝突を回避できた。その後、国と教会とが協議を開始し、政教条約を結ぶことによって事態は収束したのだ。
この時の政教条約により、国王は聖職叙任権を放棄する事になったが、その見返りに、教会側は教皇選挙の投票権を王に与え、選挙に参加することを許した。
本来教皇を選出するために行われる教皇選挙は、国や四壁の干渉を厳格に排除している。選挙権を持つのは枢機卿だけで、そして、その枢機卿の任命権は教皇が持っていた。
教会内部の決定は、教会のみで行い、外部の干渉は決して許さないというその掟を、代々の教皇たちはそれまで遵守してきていたのだ。
だから、選挙権を国王に与えるというこの決定は、教会側にとってかなりの譲歩であるのだった。
その譲歩によって、ようやく国王側に任命権を放棄させるに至ったのだ。
そうやって一旦は和解したはずだったが、しかし、現アードルフ国王の治世になり、突如として政教条約を破棄し、聖職叙任権の正当性は王国にあると再び主張しはじめた。のみならず、中央集権化を提言し、四壁や教会に王国の決定に従うよう一方的に通告してきたのだ。
アードルフ国王が主導で進めようとしている法整備は、聖職叙任権だけでなく教会や四壁の所領に対する課税権、軍の指揮統制権などが含まれており、教会の掟や四壁の自治を真っ向から否定し、破壊しようとするものだった。
それはもはや宣戦布告にも等しい一方的な内容で、それを認めてしまえば、教会や四壁の弱体化は必至。存続すらもが危ぶまれるような酷い内容だった。
こういった背景を踏まえた上で、ベンクト大司教とエーミル大司教の主義主張について触れよう。
タカ派のベンクト大司教は、国王の教皇選挙権をはく奪し、国王をヴァン教から破門、国側との武力による全面対決をも辞さないという強硬派である。
対してハト派のエーミル大司教は、交渉による落としどころを探り、教会の独立性や存続を認めさせた上での王国との共存、隣人としての融和を図る穏健派である。だが、実際のところエーミル大司教は国王のひも付きの疑いが晴れないいわくつきの人物であった。
しかし、現時点で選挙権を持つ枢機卿たちへの影響力が大きいのはこの二者で、今教会内は、この二つの主張に分断されて対立し内部崩壊の危機すら迎えている。
その事態に苦慮する有志者たちは、様々な解決策を模索しているのだが、成功していないのが現状だ。
最近は、高齢であるソルム教皇の体調面の心配もあり、枢機卿の総入れ替えさえも考慮されるほどだった。
枢機卿の指名権は、現教皇に一任されているので不可能なことではない。
ベンクト派とエーミル派を教皇選挙から排除するためには、もはやそれしか方法はないと、一部からの過激な意見があるのだが、しかし、いざそれを実行すれば、新たな非難や反発を生み出すのは必至。もしかしたら、今以上の混乱に陥る危険性もあるのだ。
教会内は今、八方塞がりの状況に陥っていた。
手紙を読み終えたザクリスは、表情を曇らせる。
「いよいよまずい状況だな。昔から教会組織に問題は多かったが、この頃は特にひどい。かつては多少の内部対立が存在していても、執行部は教会としての決定を取りまとめられるくらいには機能していた。それなのに、今は教皇選挙すらまともに行うことが出来ないのだからな…」
イヴァールの所属する修道院は、これら権力闘争とは全く別の次元に存在する。
修道院自体は教皇の直轄になるのだが、修道院は世俗権益を全て排除し、ヴァン教の教えを厳格に貫いている。今の教会とは一線を画す存在で、独立不羈の立場にあった。
修道院は、教皇選挙への投票権もなければ、教会全体で行う公会議での発言権も認められていない。それゆえ教会に対しての政治的な影響力は全くないのだが、逆に教会からの干渉を受けることもない不可侵領域でもあった。
イヴァールは今、教皇の命を受けて密かに問題の調査、解決にあたっているようだが、状況はどうもかんばしくないようだ。
手紙には、しばらくカヤーニを訪れることができないので、レイフのことをくれぐれも頼むと結ばれていた。
ザクリスは読み終わった手紙を火にくべて燃やす。イヴァールから、読み終わった手紙はすぐに処分してほしいと綴られていたのだ。
イヴァールは、前から用心深いところがあったが、手紙にレイフの事が書かれるようになってから、その傾向が増した。
ザクリスは、レイフの身の上について、イヴァールの愛弟子である事以外は特に知らされてはいないが、こうしたイヴァールの徹底的なまでの用心深さから、ある程度の推測はできていた。
イヴァールは、公にしている所属は修道院であるが、修道院に所属する前から秘密裏にラウリに仕えている。
そのラウリ・ノルドグレンは、現在、両親を亡くしたウィルヘルミナ・ノルドグレンの後見人となっているが、しかし、手続きを経ずに強引に後見人になったことで、現北壁当主であるエイナルとは対立する事になっていた。
ウィルヘルミナ・ノルドグレンは、生来病弱であるため、めったに外に出ることはなく、彼女についての情報は、片目が神獣眼であるという事以外全く伝わってはいない。
だが、今の北壁で神獣眼というと、ウィルヘルミナ・ノルドグレンではなく、決まって去年誕生したばかりのエイナルの三男のカレヴィ・ノルドグレンの話になる。悲劇の令嬢ウィルヘルミナ・ノルドグレンの存在はすでに忘れ去られ、今ではほとんど人の口の端には登らなくなっていた。
何故なら、カレヴィ・ノルドグレンは両目ともが神獣眼であるからだ。
両目が神獣眼である者は、大陸史を五百年遡らなければ存在しないほど稀少で、不運続きの北壁では、今、カレヴィ・ノルドグレンを神聖視する動きが生まれている。カレヴィを神の代理人と崇め奉る一部の人間が存在するのだ。
イヴァールが連れてきた修道士見習いの『レイフ・ギルデン』は隻眼で、しかも隠しているとはいえ女性なのである。
ザクリスは知らぬふりを通してはいるが、『レイフ』が何者であるのか、すでに見当がついていた。
「ラウリ様も気苦労が絶えない事だろうな。教会といい北壁といい、難問が山積みだ」
ラウリは元教会魔術師で、かつては枢機卿位にいた。今でも教会内部への影響力は残っているはずで、きっと今回の教会の内紛には頭を痛めている事だろう。
ザクリスは、ラウリと直接の面識はないのだが、イヴァールからその人柄をつぶさに聞かされており、ラウリの人物像を昔から好意的に捉えていた。ザクリスの耳に届く世間一般のラウリに対する評価も、好意的なものが多かった。
それに、最近では間近で『レイフ』に接する機会にも恵まれ、ラウリに対してますます高評価を抱いている。ウィルヘルミナの人間性に惹かれたザクリスは、その祖父であり後見人でもあるラウリに対して、自然と好印象を抱いていたのだ。
そのため、ラウリの心労を想像すると、同情に近い気持ちを抱いた。
「北壁では、いまだに残っているラウリ様の四壁への影響力を、一掃しようとするきな臭い動きがあるようだし、かなり心配だ。しかも、その犯人が自分の息子だというのだから、なんともやるせない事だ…」
レイフを預かった当初、ザクリスは北壁の情報に疎かったのだが、レイフが女性であることに気づいて以来、北壁の噂に敏感になり、積極的に情報収集も行っている。それによると、かなり物騒な情報も入っていた。
ノルドグレンは、北壁からウィルヘルミナが姿を消した事実をすでに把握しており、その筋の人間たちに懸賞金をちらつかせて捜索を行っているらしいのだ。それだけでなく、ラウリやウィルヘルミナに刺客までもを送っているという情報すらあった。
「レイフ君の周囲には、もっと気を配らないといけないな。目立つ行動も控えさせないと危険かもしれない…」
ザクリスはつぶやいて、深刻な表情で視線を伏せる。
すると、そこに元気な声が響いてきた。
「ザクリスさーん、飯できたよ。食べよーぜ」
重苦しい気配を断ち切るかのように、部屋の外からウィルヘルミナが声をかけてくる。
ザクリスは、しばしの間愁いを忘れ、微笑みを浮かべて立ち上がった。
「今いきます」
頭の中にわだかまる懸念材料を、今だけは片隅に追いやり、『レイフ』が用意してくれた食事を摂るためにザクリスは部屋を後にした。




