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四壁の王  作者: 真籠俐百
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 ラウリが五年ぶりに訪れたノルドグレンの屋敷は、奇妙な程静まり返っていた。

 イサクの報告には、屋敷の空気はいつも張りつめており、雰囲気はよくないのだと書かれていたが、確かにその通りで、皆黙々と作業をしており無駄口を叩くようなものは誰一人としていない。

 見知った者の姿も全くなく、おかげでラウリは、誰にも阻まれることなく屋敷の中を歩くことが出来ていた。

(これだけ人がいるというのに、誰もしゃべらず笑顔もないとは…)

 どことなく切迫したような気配すら感じられる屋敷の空気に、ラウリは異様さを覚えていた。

(庭も、ずいぶんと変わったな)

 庭の手入れはとても行き届いている。

 草花の類は全て排除されて一つも見えず、十分すぎるほど整えられた綺麗な庭ではあるが、気持ちが安らげるような空気は全くない。

(花がないせいか?)

 亡き妻アネルマは花が好きだったため、常に庭のあちこちに花が咲いていた。

 だが、今庭を埋め尽くしているのは、眩しいほどの緑ばかり。

 緑一色に覆い尽くされた芝の上に、整然と並べられた白亜の彫刻たちまでもが冷たさを際立たせ、どこか立ち入りがたいよそよそしい印象ばかりを与えていた。

(侘しいものだな…。五年でこれほどまでに変わるのか…)

 妻や家族たちが過ごしていた頃の面影が全くないその庭を一瞥してから、ラウリは感傷を断ち切るように踵を返して歩き出した。

 案内を待たず、まっすぐ当主の執務室へと向かう。その足取りには微塵の迷いもない。

 ラウリは、黒檀の両開きの扉の前に立った。

 かつては、自らも一日の大半を過ごしていたその部屋の扉を見つめ、一度呼吸を整えてから腹に力を入れる。

「私だ。開けるぞエイナル」

 ラウリは、返事を待たずに左手で扉を押し開く。右手は、いつでも剣に手を伸ばせるような状態にしていた。

 ギイと立てつけの悪い音が聞こえ、ゆっくりと扉が開くと、その中にはエイナルとゲルダの姿がある。

 ゲルダは、相変わらず人目を引く妖しい美しさを兼ね備えていた。

 黒く長い髪は、うなじを見せつけるかのように高く結い上げられ、垂れ目がちの赤錆色の目は、男を誘うように細められている。真っ赤な唇は艶やかに濡れて、子供を産んだとは思えない若々しさと妖艶さで、蠱惑的にラウリを迎え入れた。

 当主専用の部屋で、悪びれずもせずにゲルダがくつろいでいることに軽い苛立ちを覚えながら、ラウリは足を踏み入れる。

「久しぶりだなエイナル」

 エイナルは、椅子に腰かけたまま、鷹揚にラウリを見返した。

 目が合ったラウリは、一瞬息をのむ。

 エイナルは以前会った時よりも、かなり痩せこけていた。肌の血色は悪く、眼窩が落ちくぼみ、ぎょろりと目だけが浮き上がって、まるで病人のようだ。手の指も骨ばっていて、死に際の老人のように細い手だった。

「父上、ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」

 口調は、外見から想像していたよりも力強いものだった。

 ラウリは、それを確認して人知れず安堵の息をつく。関係は悪化していてもエイナルはかつて愛し慈しんだ息子。まだ心の片隅残る親子の情が、エイナルの無事を素直に喜ばしく思わせたのだ。

 ラウリは自分の甘さを自覚して苦々しくなる。

「お前も…思ったより元気そうで何よりだ」

 自虐的な思いを噛みしめながらラウリはそう答えたが、エイナルは卑屈に喉を鳴らした。

 エイナルは、言葉こそ好意的なものでラウリを迎え入れたが、歓迎する空気は全くない。

 二人の間には、空々しい空気ばかりが流れた。

 ラウリは、未練を断ち切るようにエイナルから視線を外し、その傍らに立つ者へ鋭く向ける。

「ところでエイナル、ここは当主専用の執務室だぞ。関係のないものの立ち入りは禁じられている。お前はそんなことも忘れたのか」

 するとエイナルは嘲るように鼻を鳴らし、側に立つゲルダの腰を引き寄せた。

「父上は、相変わらずの石頭のようだ。ゲルダは関係者ですよ。だからこの部屋への立ち入りを許可しているのです。父上、貴方の方こそが招かざる客であること、自覚していただきたい。父親だからといって、部外者が許可なく立ち入ってよい場所ではないのですよ、この部屋は」

 呆れしか覚えることのできないその稚拙な皮肉に、ラウリは頭痛を覚えた。

(どこまで毒されているのだその女に)

 ゆっくりと憤りが湧き上がってくる。

 しかし、その空気を遮るかのように、涼やかな声が響いた。

「エイナル様、お父様に対してそのような態度をなさっては無礼ですよ。五年ぶりにこの屋敷を訪れてくださったのです。そんなに冷たいことをおっしゃらないで」

 ゲルダが、なまめかしい仕種でエイナルの胸に触れ、甘えるように頭をもたせ掛ける。

 その姿のまま視線をラウリによこしたが、ゲルダの目は、ラウリに対しても婀娜っぽく絡みついていた。

(毒婦が)

 ラウリは内心で忌々しく吐き捨てた。

 ゲルダは六年前にはじめて会った時に、ラウリに対しても女の武器を使って取り入ろうとしていた。

 庇護欲をそそるように、弱々しくラウリの胸に凭れかかり、赤くなまめかしいその唇で幾度も睦言を囁いてきたのだ。

 だが、ラウリは一目見てゲルダの心根の邪悪さを見抜いていたし、妻の事を心から愛していたので、誘惑に揺らぐことはなかったが、エイナルは違った。

 いとも簡単に手玉に取られてしまった。

 ラウリやクラエスは早くからゲルダの危険性に気付き、エイナルに忠告をしていたのだが、とうとう受け入れられることはなかった。

 逆に、二人がエイナルからゲルダを奪おうとしているように思えたようで、エイナルは奪われまいと尚更意固地になっていった。

 その結果がこれだ。

(ここまで誑かされている姿を見ると、情けなくなってくるな)

 ゲルダの妖艶さに狂わされるエイナルを見れば、ただ嘆かわしいばかりだった。

 そして、色欲でエイナルを支配しているゲルダにも嫌悪感を覚える。

 ラウリは、侮蔑するような冷たい眼差しを二人に向けたまま、静かに口を開いた。

「エイナルよ、お前はアードルフ国王に親書を送ったそうだな。いったい何を考えている」

 エイナルはわざとらしく肩をすくめてみせた。

「何を考えている? それはこちらの台詞ですよ父上、いつまでも王家と敵対しているべきではありませんよ。我々は和睦を結ぶべきです」

「和睦? お前が親書に書いた内容は、そんなものではなかろう。そもそも今のこの現状で、王家とそんなものが結べると本気で思っているのか? お前の行為は、友好状態にある四壁と教会とに不信感を与えるだけの行為なのだぞ。気は確かか」

「父上の方こそ、お気を確かに。まさか父上は、王家との全面戦争でも望むおつもりですか? 戦争をすれば、無意味な血が流れることになりますよ。それに現在の法体制では、トゥルク王国の体制を維持することは困難なのです。法整備は必要不可欠でしょう」

「誰が戦争を望んでいるなどと言った。最終的に目指すべきは和睦であること、私も承知している。法整備が必要なこともだ。だが我々の権益は守らねばならん。今王国側から提示されている条件は、我々の存続すらが危ぶまれる危険な内容だ。王家にのみ絶対的な主権を与えることは危険だと言っているのだ。お前はそれくらいのこともわからぬのか。それに、お前が送った親書の内容は、和睦の話などではないだろう。話をすり替えるなエイナル」

「父上はいつもそうだ。私の事は否定ばかりする。兄上の事はあんなにも可愛がっていたというのにね。不出来な弟の方は、粗探ししかしてはくださらぬ。どうせなら、兄上の方が生きておられれば良かったですね」

 ラウリは拳を握りしめ、歯を食いしばった。

(クラエスを殺したお前がそれを言うのか!?)

 瞬時にして憤りが噴き出したが、ラウリは必死に抑え込んだ。

 荒くなる息を、深呼吸で整える。

「エイナルよ、私は過ちを正しているだけだ。邪推はやめろ」

 絞り出すように言うと、エイナルが笑った。

「果たして邪推でしょうか?」

 にやにや笑いを浮かべるエイナルに、ラウリはカッとなる。

 怒鳴りつけようとしたその言葉を止めたのはゲルダだった。

「エイナル様、そのような言い方はおやめください。お父様は貴方の事を思って言ってくださっているのですよ。どうしてそれがわからないのですか」

「お前は優しい女だな、ゲルダ」

(白々しい)

 ラウリは、じろりとゲルダを睨み据える。

 だが、ゲルダは眉一つ動かさなかった。

 薄気味悪いほどに完璧な笑顔をその顔に張り付け、妖しく首を傾げる。

「お父様も、そうお怒りにならないでくださいまし。どうぞ仲良くなさって下さい。お二人がそのように反目し合っていては、子供たちが悲しみますわ」

『子供たち』という言葉に、ラウリの頬がピクリと反応した。

 果たしてその事実にゲルダは気付いたのか。その真偽はともかくとして、ゲルダは作り物のような笑顔のまま、目を細める。

「そういえば、お父様にはまだお引き合わせしておりませんでしたわね。私たちの可愛い子に」

 ラウリの表情に、緊張感が走った。

 むろんラウリにとっては願ってもない申し出だったのだが、余裕を滲ませるゲルダとエイナルの姿を見て、不快さが波のように押し寄せてくる。

(つまり神獣眼は、はったりなどではないという事か?)

 黙ったまま立ち尽くすラウリをよそに、ゲルダは外に控えていた侍女に申し付けて赤子を連れてこさせた。

 侍女から赤ん坊を受け取ると、ゲルダはそこはかとなく毒のひそんだ美しい笑顔を浮かべてラウリに歩み寄る。

 上目づかいにラウリを見ながら、舌ったらずの甘えた口調で口を開いた。

「お父様、どうか抱いてやってくださいまし。この子が私とエイナル様の大切な子供、カレヴィですわ」

 ラウリは、手を下ろしたまま動かない。

 ゲルダの抱いている子供は眠っており、目を閉じているが、玉のように美しい赤子であった。

「ほうらお爺様よ、カレヴィ、ご挨拶なさい」

 ゲルダがその体をあやすように揺らしてやると、カレヴィの目が開く。

 その両目は――――。



 ラウリは、内心の動揺を押し殺して帰路についていた。

 先程見たばかりの赤子の顔を脳裏に思い描き、険しい表情に変わる。

(確かに、あの赤子の両目は黒かった。だが、あれは神獣眼などではない。ウィルヘルミナ以外の神獣眼の持ち主とも会ったことがあるからわかるが、あの赤子の目は似て非なる物。あんな禍々しい目を、私は見た事がない。ゲルダは、そしてあの赤子はいったい何者なのだ)

 ラウリの中に恐怖が鎌首をもたげる。


 あれは――――あの者たちは人ではない。


 どうしても拭うことのできなかった疑念が、今、確信となってその胸に刻み込まれた。

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