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ヤンは岩壁に手を突き、よろめくようにして暗い洞窟の中を移動していた。
背中にあった羽は無残に溶け、ところどころ骨が露出している。
肌も、光を浴びた表面が溶け、皮膚が剥がれ落ちていた。
肉を覆う組織のなくなった顔や腕、足からは鮮血が流れ出ている。
「おのれラウリ・ノルドグレン…このままでは終わらぬぞ」
ヤンは怨嗟の言葉を吐きながら、よろめきつつ壁伝いに奥へと向かっていった。
そこは、死の山と呼ばれる急峻な岩山の中腹。そこに隠れるようにして存在する洞窟の中だ。
ヤンが、ラーファエルの指示により、魔物たちを人目から匿い飼育していた場所でもあった。
洞窟内にいた魔物は、すでに全て表に解き放たれており、今、ここには一匹の魔物すら残ってはいない。
その暗く静かな洞窟の中を、ヤンはゼイゼイと荒い息を吐き、怪我をした体を引きずりながら歩き続けていた。
狭い通路を通り抜け、やがて開けた場所に出ると、ヤンは一度くずおれるようにして膝を折る。
両肩を上下させていたが、荒い呼吸をなんとか整えると、再び立ち上がって歩き出した。
広間の中央付近まで移動し、ヤンは両手を地面につける。
その瞬間、地面に巨大な魔法陣が浮かび上がった。
「ラウリ・ノルドグレン、待っておれ。今から貴様を八つ裂きにしてくれる」
ヤンが低く呪文をつぶやくと、その中央にぽっかりと穴が開く。その穴の中から無数の魔物が現れはじめた。
魔物たちは、水が噴き出すかのように穴から次々と飛び出てくる。
しかし、それらの魔物の姿は、壁蝕の時に壁を越えてくる魔物とは少し違っていた。
例えば、鳥に似た魔物ラウムと、豹に似た魔物オセが混じったような奇妙な姿の魔物であったり、通常のエリゴルの倍の大きさがあろうかという巨大化した魔物であったり、本来は二枚の翼であるはずのウァプラの背に四枚の翼が存在していたりと、今まで認知されている魔物の姿とは明らかに異質な容貌をしている。
その異形の魔物たちは、穴の中からとめどなく溢れ続け、そのまま洞窟の外へと飛び出していった。
暗い笑みを浮かべながらその光景を見届けると、やがてヤンは力尽きて地面に倒れる。
億劫そうにごろりと転がって上を向き、ゼイゼイと荒い息を繰り返した。
「ラウリめ、混成種の力を思い知るがいい。こいつらの能力は、壁を越えてくる眷属とは比べ物にならないからな。これだけの数を、あいつ一人で食い止めることが出来るはずもない」
ヤンは、地面に寝転がったまま高笑いをする。
するとその時、魔物が飛び出す穴の中から突然人の姿が現れた。
ラーファエルだ。
洞窟に現れたラーファエルは、一人で笑うヤンの姿を見つけると静かに歩み寄った。
「急に扉がつながったので何が起きたのかと思えば…お前の仕業だったのかヤン。これはどういうことだ? お前はいったい何をしている?」
ラーファエルは、無表情のまま大地に体を投げ出すヤンを冷たく見下ろす。
「その怪我はどうした?」
ヤンは寝転がったままラーファエルを見上げ、その言葉に体を強張らせた。
体を起こそうとするが成功しなかった。
ヤンは起き上がることを諦め、体を大地に投げ出したまま口を開く。
「ラウリだ、ラウリ・ノルドグレンにやられたのだ。あいつは今、この東壁にいるのだ」
苦しげな息の元、ヤンがそう告げると、ラーファエルがわずかに目を細める。
「ラウリ・ノルドグレンが東壁にいるのか」
そう言って、かすかに首をかしげて見せた。
「しかし、どうやってお前にそれほどの傷を負わせたというのだ。ラウリは氷界魔法を得意としているはずだが、お前のその怪我は、氷界魔法による傷ではあるまい」
ヤンは小さくうなずく。
「はっきりとはわからん…。だが、おそらく魔法具だ。そうとしか考えられん」
ヤンは、痛みに苦悶の表情を浮かべつつ答えた。
ラーファエルは、無表情のまま考えるように顎をつまむ。
「なるほど、魔法具で手傷を負わされたのか…。つまりお前は、その腹いせに、私の許可もなく勝手に扉をつないだというのだな、ヤン」
後半部分を告げるとき、ラーファエルの声が低く冷たく響いた。聞く者の背筋が寒くなるような恐ろしい声だ。
ヤンは、焦ったようにラーファエルを見上げた。痛む体を無理やり反転させ、腕を使ってわずかに上体を起こす。
「そ、それは…ラウリ・ノルドグレンを殺すためだ! ラウリはいまだ三壁に影響力がある。カレヴィがノルドグレンを継ぐのに、奴の存在は必ず邪魔になるはずだ。あれが生きていては、今後の計画に支障をきたすことにもなる。それに、これだけの数の混成種をラウリ一人で止めきれるはずもない。そうなれば、混成種たちはキッティラまで侵入することができるだろう。今の時期なら、内地の守りは手薄だ。簡単に人間どもを虐殺することが出来る。北壁だけでなく、我々は東壁をも手中に収めることができるはずだ」
饒舌に語ってみせるが、ヤンのその表情には恐怖の色が見えた。
恐怖を隠すために虚勢を張り、大声でまくし立てているにすぎないのだ。
ラーファエルは、ヤンを見つめたまま静かに口を開く。
「確かに今の話には一理ある」
ヤンは、明らかに安どの色を見せた。
しかし、その安堵もつかの間、ラーファエルは酷薄な表情を浮かべて続ける。
「だが、許可もなく勝手に扉をつなげたのは、あきらかに越権行為だな。ましてや混成種を勝手に放つなど愚かにもほどがある」
「い、今までも、壁蝕の時に混成種を放っていたではないか! それに、今回用意した魔物たちはかなりの数をラウリに殺されてしまった。計画を完遂するためにはもはや混成種を使うしか手は――――」
「ヤン」
ラーファエルは、静かな口調でヤンの言葉を遮った。
その時のヤンはというと、顔色をなくし、怯えた表情で息を詰めている。
ラーファエルは膝を折って片膝を大地に着け、微笑みを浮かべてヤンを見た。
だが、その微笑みはぞっとするような冷たさをはらんでいる。
「今まで壁蝕で放っていた混成種は、比較的原種に近い姿のものだけだ。それも、調査、観察のために一定数放っていただけ。混成種を使う舞台が今日ではない事、お前もわかっているだろう?」
口調は子供に言い諭すかのように穏やかだというのにヤンは、恐怖のあまりひゅっと息を詰めた。
「にもかかわらず勝手にこんな真似をしたのはどういうわけだ?」
ヤンは、カタカタと体を震わせはじめる。
「わ、悪かった。もう二度と勝手な真似はしない、だから――――」
ヤンがすがるような表情でそう言った時、ラーファエルが見透かすようにすっと目を細めた。
それを見てヤンは再び息を詰める。
「…た、頼むラーファエル。許してくれ、もう二度とお前を失望させるような真似はしない。この命にかけて誓う」
ヤンはなりふりかまわず哀願する。
するとラーファエルは静かに立ち上がった。
ヤンは怯えた様子でラーファエルの一挙手一投足を見つめる。
ラーファエルは懐に手を伸ばし、小瓶を取り出した。
「これを使え」
ラーファエルは小瓶をヤンに向かって無造作に放り投げる。
小瓶は、ころころと転がり、ヤンの前で止まった。
ヤンは手を伸ばしてその小瓶を拾う。
「回復薬か…」
許されたという安堵の息とともにそうつぶやいた。
そんなヤンを尻目に、ラーファエルは無表情に告げる。
「お前の傷を治させるために、わざわざここにヨルマを呼びつけるわけにもいかないからな」
ヨルマは、ラーファエルたちの眷属なかで、ただ一人回復魔法を使うことが出来るのだ。
「それに、お前の空間魔法は、我々にはまだ必要だ」
そして、ヤンも同じく、眷属の中でただ一人空間魔法を使うことが出来る。
今のラーファエルの言葉の裏を返せば、用が済めば必要なくなるともとれる発言だったが、この時のヤンはそれに気づけていなかった。
痛みを取り除くことばかりに気を取られ、すぐに小瓶を開けて煽るように飲む。
すると、ヤンの体の傷がみるみるうちにふさがっていった。
だが、傷口はふさがっただけの事で、すでに負ってしまった傷跡が消えるわけではない。
ヤンの体には、あちこちに傷跡が残っていた。
ひきつれた火傷のような傷跡と、枯れ木のように醜く変わった自分の翼を、ヤンは肩越しに振り返り、苛立ったように表情をゆがめた。
「くそ…ラウリめ…」
その声を拾ったラーファエルの目がすっと細められる。
「ヤン、まさかまだわからぬ訳ではなかろうな? お前のその私怨が今回の失敗を招いたという事を」
ヤンは、ハッとした様子でラーファエルを見た。
「い、いや分かっている。二度と軽率な真似はしないと誓う」
慌てて否定するが、ラーファエルの目は細められたままだ。
ヤンは気まずそうに視線を逸らした。
ラーファエルは、ヤンから視線を外して、いまだ魔物が飛び出し続ける穴へと向ける。
「ヤン、北壁に戻るぞ。ここの扉は閉じろ。完全に閉じるのだ。扉があった痕跡を残してもならぬ。しかし、その前に――――」
ラーファエルは、一度そこで言葉を切った。
そして、顎をつまんで意味ありげに目をきらめかせる。
「どうせこれだけの数の混成種を放ってしまったのだ。ならばこの機を利用してあいつを使ってみよう」
ヤンは驚きに目を見開き、ごくりと喉を鳴らした。
「まさか…カメイラを使うのか?」
「そうだ」
薄気味の悪い微笑みを浮かべたラーファエルを、ヤンは凝視する。
戸惑いを露にしていたヤンだったが、やがてのろのろと膝を折り、地上に魔方陣を描いた。
すると、新たな穴が生み出される。
その穴から一人の子供がでてきた。
年齢は五、六才程度。黒髪に茶色い目をした一見すると西壁人に見える容姿の男児だ。
男児――――カメイラは「キャハハ」と笑いながら洞窟内を目的もなく走り回る。
クフフ ウフフ
人間の子供にそっくりの無邪気な様子で、楽しげに走り回った。
ラーファエルは、その様子を満足げに眺めている。
「ではヤン、我々は戻ろう」
ラーファエルに促され、ヤンは頷いた。
そして、カメイラが出てきた穴と、混成種があふれ出していた穴を閉じる。
ヤンが再び地上に魔方陣を描くと、今度はヤンとラーファエルの二人の姿が、突如地上から消えうせた。
洞窟の中には、無邪気に走り回るカメイラの姿だけが残されている。
カメイラは、笑い声をあげたまま洞窟の外へと向かいはじめた。




