10
「これをトーヴェとイヴァールに送ってくれ」
それはまだ夜の明けきらない薄暗い早朝の事。
ラウリは書いたばかりの手紙を屋敷の者に預けた。
そのまま手早く身支度を整え、外出の準備をする。
「私はエイナルに会いに行ってくる。用が済めばすぐに戻ってくるつもりだが、帰りはいつになるかわからない。お前たちは一度町へ戻れ。屋敷で待つ必要はない」
エイナルの不穏な動きを察知しているラウリは、自分が不在の屋敷に使用人を置かないようにしている。
ラウリの不在時に、何か不測の事態が起こり、犠牲者が出てしまうことを避けるためだ。
「かしこまりました」
見送りのために頭を下げる男に軽く頷いて返すと、ラウリは馬に乗って単身屋敷を後にした。
(ウィルヘルミナはそろそろカヤーニについた頃だろうか)
馬上のラウリは、ふと空を見上げそんなことを考える。
ウィルヘルミナのことを思い出せば、ささくれだっていた気持ちが少しだけ和らいだ。
このところ忘れかけていた微笑みを取り戻し、ラウリはしばしの間、穏やかな表情に変わる。
(今後、北壁はさらなる混乱に突入するはずだ。できれば、ウィルヘルミナをごたごたから遠ざけておきたい。南壁は北壁と違って色々と過ごしやすいだろう。同年代の者たちと交わり、健やかに暮らせるとよいのだが…)
いつもは険しいラウリの目元に、優しげな皺が寄った。
(私はお前のためにこの北壁を守ろう。お前が成長してこの地に戻るまで、老骨を賭して北壁を守ると誓うぞ)
そう気持ちを奮い立たせれば、これから控えている気鬱な面会を成し遂げる力が湧いてくる。
疲れ果てていたはずの体にも心にも、じわじわと力が漲っていった。
このところのラウリは、多忙を極めていた。寝食を忘れ、笑顔も忘れるほどに。
イサクからエイナルの報告を受けたラウリは、ただちに教会と、東壁、西壁、南壁とに手紙をしたため、改めて結束の確認をとった。
一度こじれた関係が、すんなりと戻るはずもなく、かなり難しい調整を求められたが、何とか一応の収束にこぎつけることができていた。
返事の中には、イヴァールの意見と同様に、エイナルに対しての決断を迫る意見も見受けられたが、ラウリは明確な答えを避けてやり過ごした。
そして、北壁への援助も取り付けた。
これで、当面北壁の民が飢える心配はなくなった。
来年の援助のめどは立っておらず、懸念材料を全て払拭できているわけではないが、それでも領民たちが今年の冬を越せるという現実に、ラウリは心の底から安堵していた。
まだまだ問題は山積みで、ラウリの心が休まる時はない。今後も気を引き締めて問題解決に当たらなければならなかった。
(四壁と教会の協定継続の確認がひとまずはできたとはいえ、事態は予断を許さない。いつ破綻してもおかしくない状況なのだからな)
今回の件で教会、東壁、西壁、南壁へ連絡を取った際、全員からラウリのエイナルへの対応の甘さを批判されていた。特に東のベイルマン辺境伯爵家当主の意見は過激だった。
ラウリに東壁の兵を秘密裏に貸すことをほのめかし、武力での早期解決を望んだのだ。
むろんラウリはその申し出を断った。
他家の軍を使って、当主を弑逆するなど正気の沙汰ではない。
そんな事をすれば、東壁に大きな借りを作ることになり、今後、対等な関係ではいられなくなる。それだけではない、もしその経緯が外部に明らかになったとすれば、笑いものになって北壁の名誉は地に落ちるのは明白。さらに、弑逆となれば民意とてついてくるはずもなかった。
それに、事はもはやエイナル一人の問題ではない。
たとえエイナルを当主の座から引きずりおろしたところで、事態が収拾できるわけではないのだ。
ほんの一か月前まで、ノルドグレンの相続権を持つ直系は、エイナルの長男ハラルド、二男ホルガーとウィルヘルミナの三人だけだった。
しかし、その事実に変化が起きていた。相続権を持つ直系が一人増えたのだ。
ハラルドとホルガーはエイナルと前妻との間にできた子で、前妻はすでに他界している。
今の妻ゲルダは後添えなのだが、そのゲルダが、男児を出産したと知らされたのは一月ほど前のこと。
この出来事が、相続の問題を悪化させた。
当時、ラウリはゲルダ懐妊の知らせをうけてはおらず――――イサクもその事実を把握してはいなかったというのに――――突然男児出産の知らせを受けたのだ。
しかも、ゲルダが産んだ男児は、神獣眼だというのだから驚きを隠せない。まさに青天の霹靂の出来事だった。
本来ならば、今や稀少な存在となっている神獣眼をもつ男児が、北壁に誕生したことは、喜ばしい出来事である。平時であれば、ラウリにとっても慶事以外の何者でもない。
しかし、素直に喜ぶことができない様々な事情があった。
今までのノルドグレンの相続の順位は、たとえエイナルに男児が居ても、神獣眼であるウィルヘルミナの方が上であった。
神獣眼であるという事は、それだけ正当性があるのだ。
だが、現当主であるエイナルの正嫡に、神獣眼の男児が生まれた。
つまりその男児は、ウィルヘルミナよりも相続順位が上になってしまう。手放しに喜べる事態ではなかった。
それに、ラウリにはどうしてもゲルダという人間を信用することが出来ない。
(本当にエイナルの子なのだろうか? そもそも、本当に子が生まれたのだろうか?)
本当にゲルダが子を産んでいて、その子が神獣眼を持っているのだとしたら、四壁に連なる者であることは間違いない。つまりエイナルの子であることは疑いようもないはずなのだが、しかしラウリには、どうしても信じられない。
ゲルダの纏う妖しげな雰囲気が、ラウリの直感に何かを訴えかけてならないのだ。
(見た目に騙される者も多いが、あれは紛れもなく邪悪な女だ)
嫣然とほほ笑むゲルダを思い浮かべたラウリは、嫌悪感と忌避感とに表情をゆがめた。
六年前の嵐の日、突然エイナルが保護してきたゲルダという女は、たいそう魅惑的な女だった。
乗っていた馬車が壊れ、立ち往生していたところに、視察中のエイナルが偶然通りかかり、ゲルダを助けたというのが二人の出会いの経緯だったが、エイナルは、その時一目でゲルダに心を奪われていた。
その数か月前に、愛する妻を失ったばかりで塞ぎがちであったエイナルが、瞬時にして恋に落ちるほどには、ゲルダは美しい女だったのだ。
後になって思い返してみれば、当時のエイナルの行動は、異常と言わざるを得ない。
直情型だったクラエスとは違い、本来のエイナルは、温和で生真面目、冷静で、なにより慎重な性格をしていた。
そのエイナルが一目ぼれをしたというのが、まず腑に落ちなかった。
それに、行きがかり上助けただけの見ず知らずのゲルダに、宿屋や滞在先を世話をしてやるというのならばまだしも、視察を中断し、激しい雨の中、わざわざゲルダを屋敷に連れ帰ることもおかしな行動だった。
元々のエイナルは責任感のある人間だ。仕事を途中で投げ出すはずがないのだ。
そのうえ、知り合ったばかりの他人を家に連れ帰るはずもなく、どれをとっても違和感しか覚えられない。
だが、当時のエイナルは、妻を亡くして気落ちしており、普通の状態ではなかった。だからラウリとクラエスは、その異変を深刻に捉えることをせず、そういうこともあるだろうと自分を納得させ、見逃してしまっていた。
しかし、日が経つにつれ、ラウリはゲルダに不信感を抱きはじめた。
ゲルダは西壁にある副伯タフテラ家の者だった。
西壁の貴族が、遠く離れた北壁を訪れていたというのに、何故かゲルダの旅の目的地は、はっきりしていなかった。
ゲルダ本人の言では、ゲルダもまた夫を亡くしたばかりで、傷をいやすためにあてもなく旅行をしていたと言っていたが、ラウリはその話に違和感を覚えていた。
西壁に住む女性が、ふらりと旅をするには、北壁はあまりにも遠すぎて不自然だ。
しかも、ゲルダの身の上が、同じく妻に先立たれて気落ちしていたエイナルの共感を高めたのだから、なおさら疑わしい。
どれもこれもが作り物めいた話で、どうしてもゲルダの話を信じ切れなかった。
それに、ラウリたちが手を尽くしてゲルダの身元を調べても、ゲルダの語る話以上の情報を得ることができない。
ゲルダは、西壁タフテラ家の出身で、一時、同じ西壁にある副伯トイツカ家に嫁いでいた。だが、そこで夫と死別していた。
前夫との間に子はなく、トイツカ家の相続権を持つ他の親族もいなかったため、ゲルダはそのままトイツカ家に骨を埋めるつもりであったらしい。法律上、夫が死んだ場合でも、妻であるゲルダが存命の内は、トイツカ家を継続することは可能なのだ。
しかし、夫の死別とほぼ同時期に、今度はゲルダの生家であるタフテラ家の当主が亡くなった。
タフテラ家の相続人もゲルダしかいなかったため、悩んだ末、ゲルダは嫁ぎ先のトイツカ家の存続を諦め、やむなくタフテラ家に戻り跡を継いだそうだ。
そのため、ゲルダの嫁ぎ先であるトイツカ家は、すでに断絶していた。
いくら調べたところで、これらのゲルダが話す内容以上の情報は出てこなかった。
地域の住人への聞き込みによって、タフテラ家とトイツカ家の事情に間違いがない事はわかったが、しかし、ゲルダと交流があり、人となりを知るような者はおらず、また、ゲルダの詳細な生い立ちを調べようにも、ゲルダの幼少期を知る者や、結婚期間の様子を知る者もいない。皆、流行り病で亡くなっており、すでにこの世に存在しないのだ。
そのため、仮に何者かがゲルダになりすまし、偶然を装ってエイナルに接近していたとしても、その事実を突き止める方法がなかった。
そんな状況にもかかわらず、ゲルダを一目で気に入ったエイナルは、周囲の反対を押し切って無理やり結婚をしてしまった。
そのゲルダが、最近になって極秘に神獣眼を持つ男児を出産したというのだ。
ゲルダの年齢は現在三十六歳。三十歳のエイナルよりも六つ年上の年増女だ。
前夫との結婚生活が十二年。エイナルとの結婚生活が約六年。
あわせて約十八年もの長い間、子ができなかった女が、突然出産をし、しかも産んだ子供が神獣眼だというのだ。
全くありえない話ではないが、出来すぎた話なのである。
その真偽を確かめるためにも、ラウリはノルドグレンに赴き、生まれた赤ん坊の存在を確認してくるつもりだった。
念のため、ハラルドとホルガーの身辺警護を強化しろと忠告するつもりであったが、当のエイナルに聞く耳があるかどうかは疑問であった。
まさかハラルドとホルガーが暗殺されるような事態には至らないとは思うが、何が起こるかわからない。
ゲルダが、ラウリの想像通りの女であるとするのなら、何を置いても己の子供をノルドグレンの当主にしようと画策するだろう。
現状において、それを阻む要素は何もないが、もし何か問題が起これば、ゲルダならばたやすく前妻の子供たちを排除するに違いない。
ラウリとしても子供たち二人を保護してやりたかったが、エイナルが手放さないのだ。
(あの女に出会ってから、エイナルは変わってしまった。私の懸念を伝えたところで、はたしてどれだけ聞く耳を持つものか…)
エイナルはゲルダに骨抜きにされ、人格が変わってしまっていた。
今のエイナルは、ゲルダにそそのかされ、許されざる罪を犯すほどには狂っているのだ。
(昔のクラエスとエイナルは、仲の良い兄弟だった。あの女が現れるまではな…。あの女が全てを滅茶苦茶にしたのだ)
ゲルダを思い出すだけで、どす黒い憎しみの感情が湧き上がってくる。
(アネルマ、クラエス、カトリン…)
失ってしまった愛する者たちの名前を胸の内で呼ぶと、深い悲しみに支配された。
ラウリは拳を強く握りしめ、必死に憎しみの感情を押さえ込む。
(私にはまだ守らねばならぬものがある。皆どうか見守っていてくれ)
あの惨劇の中、幼いウィルヘルミナが生き残ったことは、まさに奇跡だった。
救出されたその時、ウィルヘルミナは生きていることが不思議なほどの怪我を負っていたのだ。
あの傷から生還できた事はまさに奇跡という外にない。
ラウリは目を伏せ、心の中で切に願った。
(神獣よ、どうか御加護を…。この先もあの子を守ってください)
神獣眼を持つということは、神獣に愛されている証拠。
その加護が、ウィルヘルミナの命をこの世に繋ぎ止めたに違いないと、ラウリはそう信じているのだ。
だからこそラウリは、ゲルダの産んだ子が神獣眼を持っているなどとは信じられなかった。いや、信じたくはなかった。
(ゲルダの産んだ子が、本当に神獣眼であったとするなら、また問題だな)
苦り切った顔でため息を吐き出す。
そこに、いったいどんなからくりがあるのか、今のラウリには想像もつかない。
(クラエスは、優秀な魔術師だった。そのクラエスを出しぬいて殺めたことも驚きだったというのに、今度は神獣眼を持つ子供を産むとは…。あの女はいったいどんな手を使っているのだ)
クラエスの強さについては、父親の欲目で言っているわけではない。
クラエスは、大陸でも五本の指に入ろうかという名だたる魔術師だったのだ。
そのクラエスが、たかが賊程度の凶刃に倒れるなど、あり得るはずがない。
だがクラエスは殺されてしまった。
しかも、表向きは金品目的で押し入ったただの強盗に。
時間が経つにつれ真実に近づけてはいるが、エイナルたちによる謀殺の決定的な証拠はまだない。
今の段階では、エイナルたちを断罪できるほどの証拠はそろっていないのだ。
(金で雇える程度のくだらぬ輩に、クラエスが後れを取るはずがないのだ。神獣眼の子供を産んだこととて、やはり私には信じられない。あの女、どんな手を使っているのだ。それに、いったい何者なのだ)
考え事にふけっている間に、ラウリはいつの間にかノルドグレン家に到着していた。
ラウリは、余計な考えを無理矢理頭の中から追い出し、厳めしい門を見上げる。
「私だ。門を開けよ」
ラウリが声を上げると、巨大な城門がギギギと音を立てながら開いた。




