108
ラウリは、茂みの中で息を殺し、じっと潜んでいた。
ノーンハスヤが稼いでくれた時間を利用し、体力の回復を試みている。
その脳裏には、先ほど対峙したヤンの姿が浮かび上がっていた。
(先ほどの男、背中に翼が生えていたな。それをのぞけば、人と全く同じ外見だった。あれが超上位種か…。恐ろしいほどの実力を持っているな)
そんなことを考えながら、ラウリは手を握ったり開いたりして動きを確かめる。
ヤンと対峙し、意識を失いそうになっていた時よりは、いくらかましになっていた。
とはいえ、まだまだ万全の状態には程遠い。
体の調子を確認しながら、ラウリは周囲にも意識をめぐらし、探るように耳を澄ませた。
すると、風が枝を揺さぶり、梢を打ち鳴らす音に混じって、獣が大地を走り回る音が聞こえてくる。
ラウリを捜して、魔物が辺り一帯を走り回っているのだろう。足音は縦横無尽に移動していた。
しかし、その音は徐々にラウリへと近づきつつある。
(じきに見つかるな。もう少し回復できればよかったが、それも難しそうだ)
ラウリは深呼吸を繰り返して呼吸を整える。
体の状態を考えれば、絶望的ともいえるような状況だったが、不思議と恐怖はなかった。何故かとても静かな気持ちになっている。
(やけになって諦めているわけではないが、こんな状況だというのに何故か焦りは感じない。不思議だな。ウィルヘルミナを一人で残すわけにはいかないと気が張っているせいだろうか)
ラウリは剣に手を伸ばした。
(ウィルヘルミナのためにも、何としてもこの場を切り抜け、生き残らなければならない)
眼差しの中に強い力を宿し、魔物の足音がする方向を睨みつける。
(必ず生きて帰るのだ)
己を鼓舞するために、ラウリは心の中で何度もそう繰り返した。
やがてその時は来る――――。
下位の魔物――――オセが、茂みに隠れるラウリを発見した。
ラウリは、オセと目が合うなり無言のまま剣を滑らせ一刀両断する。
その血の臭いを嗅ぎつけ、魔物たちが集まりだした。
ラウリは茂みから姿を現し、剣を構える。
魔物たちは、ラウリを見つけるとすぐに飛び掛かってきた。
ラウリは力強く剣を振り、襲い掛かってくる魔物を次々に切り伏せる。
その圧倒的な強さに恐れを抱いたのか、魔物は一旦襲い掛かるのをやめ、警戒するように周囲を取り囲んだ。
低いうなり声をあげつつ飛び掛かる間合いをはかり、魔物はじりじりと包囲網を狭めはじめる。
その時、魔物の背後――――はるか上空から声が聞こえてきた。ヤンだ。
「探したぞラウリ・ノルドグレン」
ヤンは邪悪に笑いながら、ゆったりと大地に降り立つ。
周囲を見回して魔物の死体を確認すると、再びラウリに視線を戻した。
「召喚魔法で消耗しているはずだが、ここまでやれるとはな。やはりお前はここで殺しておかねばならぬようだ」
ヤンはそう言うと風を起こしてラウリに向けて放つ。
ラウリは、とっさに地界九位魔法で防御した。
「アフ・プチ」
残りの魔力量を考慮して下位の魔法を使ったため、全ての攻撃を防ぐことはできない。
地界魔法はあっという間に破壊され、防ぎきれなかった鎌鼬がラウリに襲い掛かった。
しかし、ラウリは退くことなく逆にヤンとの距離を一気に詰める。
剣の攻撃範囲内まで突っ込んでいくと剣で切りつけた。
ラウリの剣が、ヤンを捉えるかに見えた。
しかし、ヤンはすんでのところで切っ先をかわし、近距離でもう一度風を放つ。
放った鎌鼬は、無防備なラウリの体に襲い掛かり、傷つけながらその体を吹き飛ばした。
ガハァッ!!
ラウリは岩にたたきつけられ、口から大量の血液を吐き出す。
ラウリの体は、鎌鼬によってあちこちが切り裂かれ、左腕はかろうじて繋がっているような酷い有様だった。
ラウリは、千切れそうな腕を押さえつつ大地に片膝をつく。
絶望的な状況だったが、それでもラウリはまだ諦めてはいなかった。
活路を捜して、必死に思考をめぐらしている。
らんらんと輝く青い目で、ヤンをひたと睨みつけた。
優位にあるはずのヤンの方が、気圧されたようにごくりと喉を鳴らした。
鬼気迫るラウリの様子は、まさしく手負いの獣。
体中が傷だらけで、体力も残り少ないはずだというのに、気力は全く衰えてはいない。生を希求する意思はどこまでも貪欲で、対峙する者を圧倒するほどの力を放っていた。
一瞬でも気を抜けば首元にくらいつかれる。
そんな錯覚をヤンに抱かせるほどだった。
脂汗を浮かべて一歩下がったヤンを睨みつけつつ、ラウリは魔法を唱える。
「マサライ」
聖界十位魔法で出血を止めると、ラウリは無事な右手で剣を構えなおした。
ヤンは、ひきつった笑顔を浮かべて眼を細める。
「いいなその目。この状況で全く諦めていない。さすがだラウリ・ノルドグレン。褒めてやろう」
ヤンの言葉とともに、周囲を覆いつくす魔物たちが一斉に唸り声を上げはじめた。
この状況で、ラウリが生き残れる確率は万に一つもないはずだ。
にもかかわらず、ラウリのほうがヤンたちを怯ませている。
それほどに、ラウリの放つ殺気はすさまじかった。
(どんなに魔力を温存したところで、私が使える高位の魔法はせいぜいあと一回、是が非でもそれで決着をつけなければならん)
そんなラウリを見下ろしながら、ヤンはクククと低く喉を鳴らす。
「私はそういう目をした奴を、絶望のどん底に突き落とすのが楽しみなのだ」
ラウリもまた、片方の口角を上げて応じた。
「最悪な趣味だな。だが、果たしてお前にそれができるのか?」
挑発され、ヤンがギラギラとした目をラウリに向けた。
「この状況でまだ減らず口を叩くか。だが、負け犬の遠吠えは見苦しいぞ。死ね、ラウリ・ノルドグレン!!」
怒りに任せてヤンが風を放つ。
ラウリは地界十位魔法を唱えた。
「プアトゥタヒ」
その土壁の内側で横に逃れて直撃を避ける。土壁はすぐに吹き飛ばされたが、しかし、威力を殺す役目はしっかりと果たしていた。
攻撃の直撃を避けたラウリは、間を置かずして氷界八位魔法を唱える。
「トゥンダ」
鋭い氷の刃が何本も生まれ、ヤンに襲い掛かった。
「馬鹿め、そう何度も同じ手を食うか!!」
地界魔法を目くらましに使うラウリの手をあざ笑いながら、ヤンは風を生み出し攻撃を相殺する。
風と氷がぶつかり合うかと思ったその瞬間、ラウリは息つく間もなく次の魔法を唱えていた。
「ヴェル・マーテ」
巨大な氷の柱が生まれてヤン目掛けて襲い掛かる。
しかし、そこでラウリの目がかすみ始めた。
氷界三位魔法を使ったため魔力の消費が激しく、意識がもうろうとしだしたのだ。
(まずい、これでは威力が半減してしまう)
精霊魔法を行使する時に、毒などの状態異常があると効力が減少してしまう。
ラウリの今の状況は、まさに状態異常に入るため、精霊魔法の効果が減ってしまうのだ。
威力を減らさぬよう、もちこたえようと必死に歯を食いしばったが、ラウリの体は度重なる戦闘で限界を迎えていた。
今はかろうじて立っているような状況で、体はフラフラだった。
ラウリがよろめいたその時――――しかし、瞬時にして周囲の空気が変わった。
(なんだ?)
ラウリはすぐに異変を感じ取り、かすむ目で周りを見回す。
すると、自らの右手にはまる指輪が輝いていることに気づいた。
(これは…ウィルヘルミナの作った魔法具――――)
一方その時のヤンはというと、ラウリの放った氷界三位魔法を風で受け止め跳ね返していた。
怒りに染まった顔でラウリを睨むと、すぐに風を起こした。
「この死にぞこないが小癪な真似を! 死ね!! ラウリ・ノルドグレン!!」
ヤンは、呆然と指輪を見下ろして佇む、無防備なラウリめがけて鎌鼬を放つ。
怒りによって増幅された鋭い風が、渦になってラウリに襲い掛かった。
だがその時――――。
突然ラウリを守るようにして、分厚い土壁が生まれる。地界魔法が発動したのだ。
(なんだ、これは!?)
ラウリが驚きに目を見張りながら土壁を見まわしていると、今度は聖界魔法が発動し、ラウリの傷を癒した。
ラウリは、驚いた表情で自分の体を見下ろす。千切れそうだった腕はおろか、魔力不足すらもが一瞬で回復されていた。
「これは、どういうことだ…」
地界魔法によって守られ、視界を遮られているラウリには知る由もなかったが、土壁の外側では、ヤンの放った風が土壁にぶつかり爆ぜているところだった。
ヤンが放った風魔法は、突如現れたその土壁に、髪の毛一筋程の傷もつけられてはいない。
ぎょっとした表情で土壁を見つめるヤンに、今度は唐突にまばゆい光が襲い掛かった。
目を焼くような眩しい光に襲われ、ヤンはとっさに目を閉じ、腕で顔を庇う。
目を閉じたヤンは、じりじりと体を焼く熱を感じとった。
いまだかつて感じたことのない異変をすぐに察知し、ヤンは失明覚悟で目をこじ開け、自分の体を見下ろして状態を確認する。
そして、驚愕に目を見開いた。
「なんだこれは!? いったいどういうことだ!? 何が起こっているのだ!?」
悲鳴のような声をあげるヤンの体は、光を受けて溶けはじめていた。
いや、ヤンだけではない。周囲にいる魔物のたちまでもが、皆溶け出しはじめていた。
ヤンの表情が恐怖に変わり、急いで飛び立とうとする。
しかし、広げた翼までもが一瞬のうちに光に溶かされ消え失せた。
「やめろ! 誰か助けてくれ!!」
ヤンの絶叫が響き渡る。
ヤンの体が大地に倒れ、逃げようと大地を這いはじめた。
ヤンは息も絶え絶えに、必死の形相で、大地に指で紋様を描きはじめる。
完成すると紋様がひかり輝き、突如としてヤンの体がその場から消え失せた。
一方、ラウリのいる場所を中心にして放たれている光は、どんどん強さを増し、逃げ惑う魔物たちを溶かしていく。
かなり広範囲にわたって魔物を殲滅しつくすと、唐突に光が消え失せた。
同時に、ラウリを囲んでいた土壁も消え失せる。
ラウリはというと、急に見渡せるようになった周囲を見回し、驚愕に目を見開いた。
辺りに動く魔物の気配は一つもなく、数えきれないほどの、溶けかけた魔物の遺骸ばかりが横たわっている。
ラウリは、すぐに状況を理解することが出来ず、呆然とその場所に立ち尽くしたのだった。




