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エルヴィーラたち東壁魔術師団の一行は、馬を急がせ壁に向かっていた。
皆、無言のまま必死に馬を疾駆させている。
その一団の中に、ウィルヘルミナ、ベルンハート、イヴァールの姿があった。
イヴァールは、ベルンハートに付き添う形で隊に参加しているため、今は公然と二人の側にいることができている。二人にピタリと付き従い、いつも通りの無表情の仮面を張り付けたまま馬を駆っていた。
その時のウィルヘルミナはというと、気もそぞろな状態で、意識は早くも壁へと向けられている。頭の中はラウリの事でいっぱいで、明らかに集中力を欠いていた。
そんなウィルヘルミナを、イヴァールが横目で見て、苦々しいため息を吐いているが、ウィルヘルミナは気づけないでいる。
ウィルヘルミナとは対照的なのはベルンハートだ。
ベルンハートは壁に向かう緊張感からか、注意深く周りに目を配っている。おかげでベルンハートは、ある異変に気づけていた。
ベルンハートは走りながらウィルヘルミナに馬を寄せ、小声で語りかける。
「レイフ、後ろを見てみろ」
その声で我に返り、ウィルヘルミナは怪訝な表情で言われた場所に視線を向けてみた。
ウィルヘルミナたちは、一団の比較的前方にいるのだが、それよりも後方――――隊の中央付近には物々しい雰囲気が漂っていた。
部隊の中央付近は、屈強な魔術師で固められており、その中央に二人乗りの人影が見える。
二人乗りの後方に乗っている人影は、外套を被っているので顔までは見えないが、かなり小柄な人物だ。
(なんだあれ、誰だ? もしかしてあの小柄な人間を厳重に取り囲んでるのか? いったい何でだ?)
ウィルヘルミナが不可解そうに眉を顰めると、ベルンハートが小声で続ける。
「おそらくあれはニルス=アクラスだ」
その言葉に、ウィルヘルミナはぎょっと目を見開いた。首をめぐらせ、まじまじとベルンハートの顔を見返す。
(はぁ!? ニルス=アクラス!? なんでそんな奴を一緒に連れてきてんだよ!?)
表情からその心情を悟ったベルンハートも頷いた。
「どうして奴を連れてきているんだろうな。その辺りの理由が私にもわからない。もしかしたらヨルマに関係しているのかもしれないが…」
(なるほどヨルマ絡みか…。確かにあり得なくもない話だな。あいつ、イヴァール先生を無理やり壁に行かせようとしてたし。もしかしてこれはその対策ってことなのか? けど、ニルス=アクラスを壁に連れてくなんて悪手な気がするけどなあ。はっきり言って邪魔だろ。それに、途中で逃げられても大変だ。同行させたりして大丈夫なのか?)
そんな事を考えつつ、ウィルヘルミナは、ちらりとイヴァールに目を向ける。
二人の話が聞こえているはずなので、反応を見ようとしたのだが、イヴァールは相変わらずの無表情。
無反応のまま、まっすぐ前を向いて馬を駆っていた。
ウィルヘルミナは、苛立った様子で小さく舌打ちをする。
(スルーかよ。オレたちの会話聞こえてるくせに、教える気はねえってか? でも、ニルス=アクラスの存在を知っても無反応ってことは、やっぱり先生は予めこの事を知ってたってことか)
イヴァールの態度から、すでに知っていたと考える方が妥当な気がしたのだ。
(相変わらずだなこの陰険眼鏡。オレばっかり蚊帳の外にしやがって。いつも大人しく引き下がると思ったら大間違いだかんな。オレにもきちんと情報よこしやがれ!)
ウィルヘルミナは内心で怒りを覚えつつも、コホンと咳ばらいを一つし、表面的には平静を装ってイヴァールに声をかける。
「イヴァール先生は、いかがお考えですか? 先生も、あれはニルス=アクラスであると思われますか? もしそうだとしたら、ベイルマン辺境伯爵はなぜあの男を連れてきたのでしょう? 壁際に捕虜を連れて行くなんて普通では考えられませんが」
少しでも情報を引き出そうと質問を繰り出す。
しかし、イヴァールは質問をすべて無視し、じろりとウィルヘルミナを一瞥した。
そしてぴしゃりと言い放つ。
「今はくだらないおしゃべりをしている場合ではありませんよ。もっと緊張感を持ちなさい。我々は壁に向かっているのです。いつ魔物に遭遇するかもわからない状況なのです。もっと気を引き締めて事に当たりなさい」
イヴァールは、先ほどウィルヘルミナが気を緩ませていたことを暗に責めているのだ。
(眼鏡、このやろう。質問にも答えねえで説教かよ。ざけんな。つか、この様子じゃ情報引き出すのは無理そうだな。いったん諦めるか)
イヴァールの性格上、これ以上は聞いても素直に答えてくれないことをウィルヘルミナは瞬時にして悟った。
周囲の目もあることから、今は一度諦め、次の機をうかがうことにする。
内心では腹を立てていたが、しかしそれをぐっと堪え、表面的には見事な従僕の仮面を張り付けた。
「出過ぎたことを申しました。申し訳ございません」
慇懃に頭を下げて返すと、イヴァールは再び意味ありげな視線をウィルヘルミナに投げた。
さっきまでは無表情だったというのに、何故か今のイヴァールの顔には不機嫌な様子がありありと浮かんでいる。
「ギルデン卿、貴方は時折言葉に乱れが生じます。貴方の行い次第では、主である殿下の品位まで問われることになるのです。今のように正しい言葉遣いを心掛けなさい」
まるで内心を見透かしているとばかりに、怒りをにじませた声でぴしゃりと言い放った。
一方ウィルヘルミナはというと、不満があるにもかかわらず、自らが折れて頭を下げたというのに、追い打ちをかけるように嫌みを言われ、額にぴしりと青筋が浮かんだ。
一見澄ましたような表情をしているが、心中は穏やかではなかった。
(こ、の、や、ろ、う、マジでふざけんな!! なんでお前はいつもそう喧嘩腰なんだよ!? もうちっと言い方があんだろうが、この陰険クソ眼鏡!!)
怒りのあまり表情を完全には制御できず、唇の端がぴくぴくとひきつっている。
だが、力業で無理やりその怒りを押さえつけると口を開いた。
「それは申し訳ございません。以後気を付けます」
ひきつった笑顔を浮かべてそう返すと、イヴァールが呆れ混じりのため息をこれ見よがしに吐き出す。
「気を付けるだけでは困るのです。自分の立場をわきまえ、正しい言葉遣いを遵守なさい。殿下の顔に泥を塗るような言葉遣いを決してしてはいけません。いいですね」
(まだ言うか、このやろう。おのれ陰険眼鏡…許せん!! オレが空気を読んで大人の対応してやってるっつーのに、なんだその態度は!? あぁ゛? ざけんなよごるぁ)
イヴァールの底冷えするような視線と、ウィルヘルミナの必死に怒りを抑えた視線とがぶつかりあった。バチバチと見えない火花が散っている。
その側で二人のやりとりを見守っていたベルンハートは、思わずといった様子で『くっ』と笑いを漏らした。
口元を押さえて隠そうとはしているが、その両肩は震えている。
(にゃろうベル、お前も眼鏡側の人間なのか!! 笑ってる場合じゃねーよ! 陰険クソ眼鏡がなんか隠そうとしてんの気づけよな。明らかに話をそらしてるだろ!! しかも、ここぞとばかりにオレの事までディスりやがって、フザケンナ!!)
ウィルヘルミナは、笑いをこらえて肩を震わせるベルンハートを横目でギロリと睨みつけた。
だが、それも一瞬の事で、すぐに胡散臭い微笑みで表情を覆い隠す。
「いががなさいました、殿下」
ウィルヘルミナは、ニッコリという形容がまさにしっくりとくる、いい笑顔を張り付けていた。
意訳するならば『笑ってる場合じゃねーよ』といったところである。
視線に気づいたベルンハートは、まだ笑い足りないと言った様子だったが、なんとか笑いを収めると穏やかな眼差しでウィルヘルミナを見た。
「どうやら、ようやくいつも通りに戻ったみたいだな。先ほどまでは深刻な様子だったから安心したぞ」
屈託ない様子で言われ、ウィルヘルミナは素に戻ってぱちりと眼を瞬く。
ベルンハートに全く他意がない事を悟ると、毒気を抜かれて気まずそうに後頭部を掻いた。
(オレ、またベルに心配かけてたのか…。くそ、オレのが年上なのにだせーな)
一人反省し、すぐに背中を伸ばして居ずまいを正し慇懃に首を垂れる。
「ご心配をおかけいたしました、申し訳ございませんでした」
今度の言葉は本心からのものだ。
「いいや、気にするな。お前の元気が出たのならそれでいい」
(まいったな…。最近のこいつはオレの心配ばかりしてんな。これじゃどっちが年上かわかんねえよ)
何やら居心地が悪くなり、思わずベルンハートから視線を逸らした。
(しかし、頭冷やして考えてみると、言い方は気に入らねーけど確かに先生の言い分には一理あるんだよな。言葉遣い云々はおいとくとして、もしオレが気を抜いてる最中に何かあって、その結果ベルに怪我をさせるようなことになったりしたら後悔してもしきれねえ。先生がいるからつい油断しちまった。ここからはしっかり気合を入れねーと)
ウィルヘルミナは反省しつつ、ちらりとベルンハートに視線を戻す。
ベルンハートは、すでに前を向いていた。
イヴァールもまた、いつもの無表情に戻って前を向いている。
そんな二人を見ていると、ラウリを案じるあまり、胸の奥にわだかまっていた焦りがようやく収まり、平常心を取り戻すことができていた。
(むかつくけど、先生とベルのおかげでやっと目が覚めたわ。くよくよしてる場合なんかじゃなかったな)
ウィルヘルミナは吹っ切れたような顔に変わって、二人と同じく前を向く。
決意を新たにしていると、不意にベルンハートが声をかけてきた。
「レイフ」
ウィルヘルミナはベルンハートを振り返る。
すると、力づけるようなベルンハートの視線とぶつかった。
「大丈夫だ。お前の御爺様は絶対に無事だ」
(ベル…)
ウィルヘルミナは、フッとほほ笑んだ。
「ありがとうございます殿下」
そんなやり取りを傍で見守っていたイヴァールの口元にも、かすかな微笑みが浮かんでいた。
一行は、馬がつぶれないギリギリの速さで壁に向かう。
夜は、さらに更けていった。




