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消極的ながらもペテルの了承が得られたことで、ウィルヘルミナたちの壁蝕討伐隊への参加は決まった。
しかし、フェリクスとイッカの同行は許されなかった。
エルヴィーラの了解が得られなかったためだ。
エルヴィーラの言い分は『足手まとい』の一言。にべもないものだった。
フェリクスもイッカも、何かもの言いたげな様子ではあったが、エルヴィーラに口ごたえできないのか、ウィルヘルミナが拍子抜けするほどおとなしく従っていた。
(絶対ごねると思ってたんだけどな。やっぱり母ちゃんが怖いのかな)
そんな感想を抱きつつ、ウィルヘルミナはちらりとフェリクスたちを見やる。
フェリクスとイッカは、言葉少なに出発準備の手伝いをしていた。
(確かに今の二人には、壁蝕の討伐は荷が重いよな。連れてったら、誰かが面倒見てやらなきゃならなくなるけど、今の状況じゃそんな余力はねえ。ベイルマン辺境伯爵の連れて行かないって判断は正解だ。こんな状態で、オレがあいつらの事まで守るなんて無責任なこと言えねえからな。それに、オレは一刻も早く壁際に行かねえとならねえ。オレには御爺様を助けるって目的があるんだ)
ラウリの事を思うと焦燥感がせり上がってくる。それを振り払うように頭を振り、唇をきつく噛んでうつむくと、そばで作業していたベルンハートが気づいて肩に手を置いてきた。
「焦っているようだな。だが、こういう時だからこそ落ち着け」
「分かってる。焦ったってしょうがねえってことは…。けどダメなんだ…。なんか嫌な予感がするんだよ。なんでかわかんねえけど胸騒ぎを覚えてしょうがねえんだ」
振り払っても、振り払っても、胸の中にとてつもない焦燥感が沸き上がってくる。
何度も自分の気持ちを落ち着けようとするのだが、それでもうまくいかず、思わず弱音をもらした。
ベルンハートは、眉根を寄せる。
「そうか…、お前が不安なのもわかる。だが、負の考えに囚われてはいけない。そういう考えは、かえってよくない事態を引き寄せる。難しいかもしれないが平常心を保つんだ」
ベルンハートは、うつむくウィルヘルミナの顔をのぞき込み、安心させるように背中に手を置いた。
「お前の御爺様は強いのだろう? 前に私にそう話してくれたではないか。厳しくて、それでいて優しくて、いつでも正しい道を照らしだしてくれる、心から尊敬できる人物だと。今は信じるんだ、その御爺様の強さを」
「ベル…」
ウィルヘルミナはくしゃりと顔をゆがめる。
ベルンハートの、力づけようとする真摯なその眼差しが、ウィルヘルミナの胸の中を温かく満たした。
「そうだよな…御爺様ならきっと大丈夫だ。オレが守るなんて言ったら、きっと張り倒されちまうよな」
目の裏側にツンとした痛みを覚え、ウィルヘルミナはとっさに軽口をたたいて誤魔化そうとする。
顔を背けて、滲む涙をやり過ごすように何度も目を瞬かせていると、ベルンハートの温かい掌がその背中をいたわるように撫でた。
(やめろよな、今優しくされたら…。くそっ)
こらえていた涙が溢れそうになり、ウィルヘルミナは急いで顔を覆い隠す。
「…りがとな…ベル。オレ、御爺様を信じるよ…」
絞り出すようにそう言うとベルンハートは頷き、無言のままウィルヘルミナの背中を撫で続けた。
(ようやく出立したか)
ヨルマは、城壁の窓からエルヴィーラたちの部隊が出立したのを見届けると、こっそりと部屋を出ていく。
周囲に注意を払い、人の気配のないことを確認すると、無人の廊下を足早に移動した。
向かう先には地下牢がある。
そこにニルス=アクラスが捕らえられていることを、ヨルマは事前に突き止めていた。
エルヴィーラやイヴァールのように、目端の利く人間が居てはニルス=アクラスの開放が難しい。
だからヨルマは、イヴァールをベルンハートに同行させたのだ。キッティラから追い払うために。
一行の出発を待ってから、ヨルマはこうして密かに行動を起こしていた。
足音を忍ばせ、明かりのない階段を一気に駆け下りる。ヨルマは恐ろしいほど夜目がきくのだ。
細心の注意を払いながら階段を下りきると、地下通路へと足を踏み入れる。
その手には、前もって手入しておいた牢屋のカギが握られていた。
(計画がかなり狂ってしまっている。早くニルス=アクラスを解放して、ベルンハートの殺害を実行させなければ)
ヨルマの胸の内には焦燥感が募っている。
計画が失敗続きで思うように進まず、その焦りが、ヨルマに普段よりも軽率な行動をとらせていた。
今までヨルマは、自分の手を汚すような事は決してしなかった。
にもかかわらず、今はヨルマ自らが動き、ニルス=アクラスを解放しようとしている。
慎重に慎重を重ねてきたというのに、自分自身でその苦労をぶち壊そうとしていた。
しかも、ヨルマ本人は、まだその事実に気づいていなかった。
(イヴァール・クーセラは侮れぬ男だ。本来ならばあの男を壁に近づけたくはないが、しかし、奴がここに居てはニルス=アクラスを解放できぬ。ヤンには負担を強いることになるかもしれないが、背に腹は代えられぬ。イヴァールは、エルヴィーラ・ベイルマンもろとも壁際で仕留めることとしよう。二人とも始末できれば、文句もあるまい)
ヨルマは低く笑い、きらりと目を光らせる。
(死の山には扉があるのだからな。いざという時は、混成種を使えばいいだけのことだ)
ヨルマは、イヴァールを壁に近づける危険と、ニルス=アクラスの開放とを天秤にかけ、後者を選んでいたのだ。
(それにしてもニルス=アクラスの奴め、まさか捕まるとはな…。人間ごときに捕まるなど、百年前ならば考えられぬような失態だ。これだけの失態を犯したのだ。もはや始末されるのは必至。死ぬ前にせいぜい役に立ってもらうとしよう)
そこでヨルマは残忍な忍び笑いを漏らし、くつくつと低く喉を鳴らした。
そのまま無人の地下通路を小走りに移動し、ヨルマは目的の牢屋の前で立ち止まる。
しかし――――。
ヨルマはそこで眉をひそめて牢の中を覗き込んだ。
そしてこわばった表情に変わる。
(いったいどういうことだ…?)
のぞき込んだ牢の中は無人だった。
(何故ニルス=アクラスが居ない。どこに行ったのだ)
ヨルマはカギを握り締めたまま、厳しい表情で考え込む。
だが、すぐに何かに思い至り、ハッと顔を上げた。
(まさか…これは罠か?)
ようやくそう思い至り、ヨルマは緊張した表情で周囲を見回す。
注意深く探るが、近くに人の気配はない。
(しまった、うかつだった…これは罠だ。いつから私に気づいていたのだ? 気づいていたのはイヴァール・クーセラか? それともエルヴィーラ・ベイルマンか?)
ヨルマは脂汗を浮かべ、警戒しながら足早に来た道を戻りはじめる。
(くそっ、しくじった)
ニルス=アクラスが地下牢に捕らえられているのは間違いないはずだった。
ヨルマは、この建物にニルス=アクラスが連れ込まれる姿をちゃんと見届けたのである。
しかし、地下牢は無人。
よく考えれば警備も手薄で、明らかにおかしな状況だった。
(最初から罠だったという事か。しかし、罠であるなら、どうして私がこの地下牢に忍び込んだ時点で拘束しようとしない? いったい何が起こっているのだ?)
ヨルマは、脂汗を浮かべながら地上へと戻る。
慎重に周囲を探るが、やはりそこには何の気配もしなかった。
だが、ヨルマの脳裏には、絶えず警鐘が鳴り響いている。
(これは、絶対に何かがおかしい。絶対に何かがある。このままここに残るのは危険だ)
ヨルマは悔しそうに歯噛みした。ここにきて自らの失敗をようやくさとったのだ。
(くそっ、ここまでか)
ヨルマは、再び静かに移動しはじめる。城を抜け出すべく、門を目指した。




