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口を手でふさがれた状態のウィルヘルミナは、ベルンハートに引きずられ、近くの空いている部屋に無理やり押し込まれた。
ベルンハートは、部屋の扉を後ろ手に閉めつつウィルヘルミナを解放する。
解放されたウィルヘルミナは、ベルンハートをギッと睨みつけた。
「何すんだよベル!!」
だが、ベルンハートはその怒りと視線を正面から受け止め、静かに見つめ返す。
「さきほども言ったが落ち着けレイフ」
「落ち着け? ふざけんな、これが落ち着いてなんかいられるかよ! オレの御じい――――」
動転しているウィルヘルミナは、感情のままに怒鳴り返そうとしたが、しかし、ベルンハートがとっさにウィルヘルミナの口元を手で押さえつけた。
周囲を警戒しながら、小声でたしなめる。
「声が大きい。少し抑えろ。お前の気持ちはよくわかる。お前は大切な人の心配しているのだな。だが、こういう時だからこそ落ち着くんだ。平常心を失えば、取り返しのつかない失敗を犯すことになる」
それでもウィルヘルミナは不服そうに睨み返した。
頭に血が上った状態のため、ベルンハートの言葉を冷静に聞くことができないのだ。
(早馬に乗ってきた人の話では、御爺様は隊の人間を逃がすために単身残ったって言ってた。あまりにも御爺様らし過ぎて嫌になる。御爺様は、たとえ自分がどんな危機的な状況に陥ろうとも、自分よりも他人を優先させる。あの人はそういう人なんだ。だから絶対にオレが助けねえと!! 絶対に御爺様を死なせたりなんかしねえ!!)
ベルンハートは、興奮するウィルヘルミナを見つめ返し、安心させるようにうなずいてみせた。
「助けに行くことを止めているわけではない。ただ、落ち着いて対処しろと言っているのだ。私にはお前の詳しい事情は分からないが、お前は今名前を偽って潜伏している。それは、何かから逃げているためだろう? ここで騒いで注目を浴びてはいけないのではないか? 敵がどこに潜んでいるかわかならいのだぞ」
穏やかに言い聞かせるように言われ、ウィルヘルミナはハッとした表情にかわる。
「ネストリ・ギルデン殿についてもそうだ。二人で身分を偽って何かから逃げているのに、お前がここで騒ぎを大きくして、敵に居場所が露呈するようなことになったらどうするつもりだ。お前の軽率な行動が、助けようとしているその人の立場を危うくするかもしれないのだ。もっと慎重に動け」
諭すように言われて、ウィルヘルミナはようやく落ち着きを取り戻した。
ホッと息を吐き出し、体中に込めていた力を抜く。
ウィルヘルミナが落ち着きを取り戻したことを確認してから、ベルンハートはウィルヘルミナを解放した。
頭が冷えたウィルヘルミナは悔しそうに視線を伏せる。
(そうだった…。御爺様もオレも、今は北壁から追われる身。見つかって捕らえられるようなことになれば、最悪処刑されることになる。もしここで御爺様の偽名がバレたりしたら、たとえ捕まらなかったとしても、今後の逃亡生活にも影響を及ぼすことになる)
今すぐにもラウリのもとに駆け付けたいというのにそれができない。
もどかしさと悔しさとで顔をゆがめた。
そんなウィルヘルミナの肩に、ベルンハートが手を置く。
「大丈夫だ。壁蝕に参加できるように私が学校に掛け合う。だから心配するな」
ウィルヘルミナははじかれたように顔を上げた。
「どうやって!? いくら王族だからって、今のお前はただの教会学校の生徒だぞ。生徒が壁蝕に参加なんて…そんなの許してもらえるわけがねえだろ!」
拳を強く握りしめ、顔をゆがませている。その表情は、ラウリの事を思って今にも泣きだしそうだった。
ベルンハートは、そんなウィルヘルミナの頭を引き寄せ抱きしめると、落ち着かせるようにその背中を優しく叩く。
「安心しろ、策ならばある。ヨルマに掛け合うのだ。あれは緋の竜の一味。どうやら緋の竜は私の事を殺したいらしいからな。それを逆手にとって利用すればいい。私が必ずお前を壁際に連れて行ってやる」
ウィルヘルミナは目を見開き、こわばった表情でベルンハートを見た。そして首を横に振る。
ベルンハートが、自分を餌にして無理やり壁蝕に参加しようとしていることがわかったのだ。
「ベル、駄目だ。それは危険だ」
しかし、ベルンハートは微笑みを浮かべて首を横に振る。
「大丈夫だ、お前がいるからな」
何も気にするなと、ただ穏やかに微笑んでいた。
ウィルヘルミナは、くしゃりと顔をゆがめる。
(なんでこいつはいつもこうなんだ…オレのために馬鹿なことしようとしやがって…)
ウィルヘルミナは、激しく首を横に振った。
「お前を危険な目にあわせるのは絶対にだめだ」
ウィルヘルミナにとっては、ラウリもベルンハートもどちらも大切なのだ。どちらかを犠牲にすることなどできなかった。
だが、その両肩にベルンハートが手を置く。
「私なら大丈夫だ。お前は私を守ってくれると誓ってくれたではないか。だから遠慮なく私を使え」
ウィルヘルミナは俯けていた顔を上げた。
ベルンハートは、視線が合うと微笑んでうなずく。
「こう見えて私は悪運が強いのだ。だから大丈夫だ。何も心配するな」
おどけた気配を滲ませて言うベルンハートを見て、ウィルヘルミナはくシャリと顔をゆがめた。
負担をかけまいとするベルンハートの気遣いを感じて、目の奥がつんと痛みを感じる。
「ベル…悪い。恩に着る」
言葉少なにそう返すと、ベルンハートは破顔した。
そして、涙をやり過ごそうと、うつむくウィルヘルミナの背中を優しくさすった。
その後二人は、教師たちに壁蝕の増援部隊への参加を交渉しに向かった。
ベルンハートが壁蝕参加を申し出ると、予想通りペテルは頭ごなしに反対する。
ヨルマもまた表面的には反対していたが、内心では別の計算が働いていた。
計画がうまくいっていない現状を含め、様々な問題を解決するためにも、ベルンハートの申し出はヨルマにとってまさに渡りに船だったのだ。
何とかして二人を壁際に向かわせようと頭の中で画策しはじめる。
イヴァールは一人壁際に立ち、無言で成り行きを見守っていた。
ペテルとベルンハートの双方が引かない状況で、ヨルマは演技じみたため息とともに口を開く。
「ペテル先生困りましたね。このままでは、殿下はまた勝手に討伐部隊に参加するかもしれませんよ。パルタモでの前科もあることですし…」
ヨルマは、大げさに困ったという表情をしながらペテルを見た。
パルタモでフェリクスたちが勝手に詰め所を抜け出し、警備所に行っていた時の事を蒸しかえし、ペテルに不安を与えているのだ。
ペテルもその件を思い出し、厳しい表情でベルンハートを見下ろした。
「殿下、あの時と今回とでは状況が全く違います。決して馬鹿な真似をしてはなりません。壁蝕の討伐というのは、今の貴方では想像のつかないような危険と隣り合わせの任務なのです。討伐への参加は、絶対に許可できません」
「だが、今壁蝕では異常事態が起こっている。魔術師は一人でも多い方がいいはずだ」
「なおさら駄目です。貴方が行って、どうなるというのですか? 殿下、あなたはご自身を過大評価なさっていらっしゃる。もっとご自身を客観的に捉える事を覚えたほうがよろしい。とにかく許可はできません」
「なぜ駄目なのだ。ベイルマン家には参加の許可を取ってある。それは、我々が討伐に参加するに足る能力があるという証明ではないのか」
二人は互いに一歩も退かず、激しく言い合う。
ヨルマが、見かねた様子で折衷案を提案した。
「ペテル先生、このままお互いに退かず、その結果前回のように隠れて勝手に行動されるよりは、対策を練って殿下の思うようにして差し上げたほうが良いのではありませんか?」
「ヨルマ先生、正気ですか!? 殿下を壁蝕討伐に参加させようと言うのですか!?」
ペテルが血相を変えてヨルマを睨みつける。
しかし、ヨルマは困った表情を崩すことなく続けた。
「この通り殿下の決心は硬いようですから、我々が反対しても勝手に討伐に参加してしまうかもしれません。繰り返しますが、殿下には前科があるのです。ここで何を言っても、意思を曲げることはないでしょう。殿下の表情がそれを物語っております。それでしたら、イヴァール先生を引率に着けて、安全を担保して参加させる方がよいのではないですか?」
突然話を振られ、イヴァールの眉がピクリと反応する。
だが、イヴァールは壁際で腕を組んだ姿勢のまま、全く口を開かなかった。
氷のように冷たいその視線をゆっくりとめぐらし、ヨルマを睨みつける。
だが、ヨルマは動じなかった。
ウィルヘルミナはというと、かすかに眉根を寄せていた。
(なんだ…? なんで先生のことまでオレたちと一緒に壁に行かせようとするんだ? なんか変な感じだな)
ウィルヘルミナは違和感を覚え、眉をひそめて考え込む。
ヨルマは続けた。
「ペテル先生、イヴァール先生の実力は今日見せていただいた通りです。そしてギルデン卿のお力も素晴らしい。御二方がついておられれば、たとえ壁蝕であろうとも恐れることはないのでは?」
自信を持った態度でヨルマが言い切ってみせる。
ペテルの視線が、迷うように揺れていた。ベルンハートが勝手に抜け出し、壁蝕に参加してしまうかもしれないという懸念に、激しく動揺している様子だ。
(こいつ、ベルの事を殺したいはずだよな。なのに、なんでわざわざ先生の引率なんて提案するんだ? 意味わかんねー)
ベルンハートも、疑問を感じている様子で眉をひそめていた。
ヨルマは、イヴァールの能力を十分把握できているはずだ。同行させれば、ベルンハートの殺害実行が困難になることは目に見えている。
にもかかわらず、何故イヴァールを同行させようとするのか、ウィルヘルミナも、ベルンハートも、まるで理解できなかった。
もしかしたら、それだけ壁際にある罠に自信があるという表れかもしれないと不気味な気配を感じ取り、二人は厳しい表情で口をつぐむ。
ヨルマの意見を受け、ペテルはしばし考え込んでいたが、やがて諦めたようなため息を吐きだした。そしてイヴァールを振り返る。
「イヴァール先生、貴方も壁蝕の討伐に参加してください。おそらく、ヨルマ先生の予想は正しい。ここで私が反対しても、きっと殿下はまた勝手に参加しようとなさるでしょう。子供たちだけで無謀なことをさせるわけには参りませんので、どうかイヴァール先生が付き添ってください」
そういうと、ペテルはイヴァールの返事をまたずにベルンハートを振り返った。
「討伐隊への参加には、イヴァール先生の付き添いが条件です。よろしいですね」
念を押されて、ベルンハートは無言でうなずく。
ウィルヘルミナは釈然としない思いを抱えつつも黙ってベルンハートの傍らに立っていた。
イヴァールは相変わらず無言のまま厳しい表情で宙を睨み据えている。
そしてヨルマはというと――――。
他人の目に触れぬよう、一人ひっそりとほくそ笑んでいた。




