26 ジェーン・ドゥへの贈り物(7)
「短い間でしたが、本当にお世話になりました。ありがとうございました」
着替えを済ませて旅支度を整えた私は、改めて、先代様に頭を下げて御礼を伝えた。
学園という王太子の膝元から逃げ出すために補助具を貸してくれたこと。
心と身体、両方を休めることができる環境をくれたこと。
ギルドへの紹介状だけでなく、着替えと路銀を用意してくれたこと。
……本当に、感謝してもしきれない。
換金用に小ぶりの宝石をいくつかくすねて持ってきていたのに、『それはこれからのために取っておくように』と気を遣ってくれたのだ。
侯爵令嬢の立場を捨て、先行き不透明な生活を始めようとしている自覚があるだけに、備えを用意しておけることの安心感はとても大きい。
どれほど頭を下げても足りないほどで、大きな借りを作ってしまった気分だ。
「ウィロウの膨大な魔力とそれを使いこなす君のセンスがあれば、ギルドでも大体のことはやっていけると思うが……何かあればいつでも連絡しなさい」
「はい。ありがとうございます」
社交辞令的に返したけれど、ここを出たあと、先代様に頼るつもりはなかった。
ギルドで新しい戸籍を得てしまえば、私はただの平民。
先王陛下の時代からおぼえがめでたい国内屈指の有力貴族、イグレシアス侯爵家に対する接点なんて不自然さの象徴でしかないのだから。
身を隠すつもりなら、この先、自力で生活拠点と自活できるだけの経済力を手に入れなければいけない。
何より、先代様の厚意とはいえ先立つものをいただいておいて、これ以上せびるような真似をすれば身の程知らずと罰が当たるだろう。
「……」
「? どうかなさいましたか?」
「いや、その……」
何やらもの言いたげな先代様に尋ねるが、もにょっとした答えしか返ってこない。
私の方に何かまだ話していないことがあっただろうか、と試しに思案を巡らせてみても、それらしい心当たりはてんで見つからず……結果的に、先代様と私が見つめ合うという謎すぎる状況が生まれた。
た、助けてコードさん……!
思わず我らが凄腕執事殿をちらりと見やれば、困ったように笑ったあと、胸に手を当て恭しく頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました。私、アドルフ様にお仕えするコードと申します。お嬢様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「……え」
「コード!」
「申し訳ございません、旦那様。お嬢様が大変お困りのようでしたので……」
悪びれた様子のないコードさんに、先代様はギッと目くじらを立てる。
だが、どうやらすぐに気持ちを切り替えたようで、咳払いで気を取り直して私に向き直り──
「私はウィロウの祖父で、アドルフ・フォン・イグレシアスという。君の名を頂戴しても?」
コードさんと同じように名を名乗り、ごく当たり前のように私の名を問うた。
……まさか私の名を尋ねられるとは予想しておらず、答えに詰まり、わずかに唇が震えた。
何か言わなければと思うのに、喉が引きつったように言葉もつっかえて、はくりはくりと意味もなく唇が動くだけ。
いつまでも、ちっとも何も言わない私に、先代様たちは困ったような顔をしている。
その表情を見ていると、どうにもいたたまれなくなってしまうのでやめてもらいたいところ。
なにぶん、答えようのない質問をされて困っているのはこちらの方なのだから。
「……私もウィロウ、じゃ、駄目なんですか?」
「君は『ウィロウの一部であってウィロウではないもの』なんだろう?」
「それに、これから新しい戸籍を作るのですから、今までの名前はやめておくのが無難かと」
「揚げ足取りは嫌われますよ、お二方」
……なんて、憎まれ口を叩いてしまったけれど、これは完全に私が墓穴を掘っただけ。
つまりは完全な八つ当たりである。
私は確かにウィロウの一部である。
だが、決してウィロウと私はイコールで繋げられる存在ではない。
いわば、そう、あの子が背負いきれない物を代わりに背負うためだけの人格。
それが、私。
だからこそ、私はウィロウの一部であってウィロウではないのだ。
私はウィロウと記憶や感覚を共有しているが、私の記憶や感覚があの子に共有されることはない──それは、この十八年で証明されている確かなことで。
……だからなおさら、答えられない。
「名前なんて、とっくの昔に失くしてそれきりです」
「!」
「自分でも忘れましたし……だから、まあ、強いて名乗るなら名無しとか?」
肩をすくめ、おちゃらけて笑った。
私が歩んできた人生はまだおぼえているが、名前の方は忘れてずいぶん久しい。
この事実に気付いた当初は愕然としたものだけど、そもそもの話、転生後も前世の記憶や人格が残っていることこそ異常事態。
名前ひとつ忘れてしまったくらいで癇癪を起こす必要もない、と大らかに構えることにしたのだ。
……それに、どうせ私に名前があっても、呼んでくれる人なんかいないのだし。
思い出せなくても何も問題なんてなかったのだ、……先代様たちに名前を尋ねられるまで、ずっと。
「なら、私が名付けても構わないか?」
「えっ。……あー、まあ、はい。それは構いませんが……」
黙り込んだかと思えば、ずずいと食い気味な姿勢で確認を取ってくる先代様に気圧され、しどろもどろに頷いた。
急に一体なんなんだと、訝しむ気持ちを抱えたのもつかの間。
「『ウィル』、はどうだろう」
提案された名前の響きに、思わず息をのんだ。
「『ウィロウ』を意識して、というのもあるが……『ウィル』は守護者という意味を持つ名前でもあるから、君にどうかと思うのだが」
「……私にはもったいない名前です。あの子の守護者だなんて、そんな高潔な名前を賜るには、私は性根が捻じ曲がってますから」
でも、そんな風に言ってもらえるくらい私のことを認めてもらえたと、そう思ってもいいのだろうか?
所詮ウィロウの代役でしかない私を、本当に認めてもらえたのなら。
……それはきっと、身に余るほどの幸福に違いない。
こみ上げてくる感情を決壊させないよう注意を払いながら、先代様に微笑みかけ、おもむろに口を開く。
「先代様にお許しいただけるなら、『ウィル』をもじって『ヴィル』と名乗らせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「もちろんだ。ほかならぬ君の名前なのだから、君が気に入るのが一番に決まっている」
「ありがとうございます」
ヴィル。ヴィル。
私の名前。……私だけの、名前。
今しがた与えられた名を口の中で転がすように何度も繰り返せば、ふわふわ、ぽかぽかした心地に自然と頬が緩む。
そんな私に先代様も相好を崩すと、ぽす、と頭を撫でて。
「ヴィル。ウィロウのことはくれぐれも任せた」
「はい、もちろんです」
「……君もどうか、息災で。世間が落ち着いたら、また、一緒にお茶をしよう」
「! ──はい!」
指を絡めて交わした、再会を願うささやかな約束。
……それが叶う日を心待ちにしてしまう私はやっぱり、ウィロウの守護者なんて、相応しくないのだ。
『Will』なんて自分に相応しくない名前だと思いつつ、完全には切り捨てられなかったので『Evil(形容詞・邪悪な)』からとって『Vil』を名乗ることにした……という設定は、入りきらなかったのでこちらに追記。
ようやく転生者に名前がつきましたよヤッタネ!
明日からはおじいちゃん視点の話。




