39 そして魔女はわらう(8)
とてもバイオレンスな回です。
暴力・嘔吐といった表現が苦手な方はご注意ください。
突然、目の前の景色がぐるんっと渦を巻いた。
まるでひどい立ち眩みをした時みたいに、天井と地面がひっくり返って、重力に引っ張られた頭がぐらぐら揺れて、身体の力が抜けていく。
必然、立っていることが難しくなり、私はずるずるとその場に座り込んだ。
(――きもちわるい)
平衡感覚が狂ったせいか、強烈な吐き気がこみ上げてくる。
胃がひっくり返った、ような?
ううん、それよりもっと酷い。
身体の中の内臓という内臓が、頭の中に詰まった脳みそが、心の中の表層と深層が無理やりかき混ぜられているような、そんな感覚。
そうしてぐちゃぐちゃになったところへ、強制的に『何か』が投入されて混ぜこまれているのに、その『何か』は混ざりきることなくずっと分離したまま。自分の中に不自然なものが埋め込まれたような、『何か』の異物感が気持ち悪くてたまらなくて、我慢する間もなく身体が勝手にえずいていた。
「お゛え゛っ……」
喉の奥が焼けるように熱い。
背中を丸め、咳き込むごとに口の中に酸っぱい味が広がり、びちゃびちゃと逆流した胃液が床を濡らしていく。
こんなことをしたって、きっと異物感がなくなるわけじゃないのに。
それでも身体は吐くことをやめられず、部屋中に異臭が充満していく。
「な、んで……? そんな、なんで、ちが、ぼく、ぼくは、こんなことっ──こんなこと、今まで一度だっめなかったのに! ごめん、ごめんねっ、しっかりしてウィロウ!!」
(……お前のせいか!)
嘔吐に気力体力を持っていかれ、思考速度もやや鈍くなってしまったけれど。私の目の前にしゃがんで激しく動揺している王太子の発言から、自分は魅了をかけられていたらしいことを理解して、連鎖的にこの気持ち悪さの理由をなんとなく把握した。
きっと、事前の備えとして用意しておいたペンダントが仕事してくれた結果、私は今も正気を保てている。
けど、思ったより王太子の魅了が強かったのかなんなのか、魅了を弾いた副作用(?)として猛烈な気持ち悪さと吐き気に見舞われている……というのが、私の今の状況なんだろう。
あくまで『きっとこういうことなんじゃないかな』っていう予想だけど、たぶん、あながち間違いでもないんと思う。
それ以外に、この急な体調の変化に説明がつかないし。
「っは、はは……!」
「!?」
「残念だったね、ヘンリー。私もウィロウも、もう二度と、お前を好きになることはないよ」
でも……弾いて無効化できたからといって、魅了をかけられたのは普通に不愉快だし。こうして気持ち悪くなっているのも、たぶん、元を正せばヘンリーのせいなわけだし。ちょっとぐらい意地悪しても、意趣返しをしても、八つ当たりをしても許されるでしょ。
まあ、言ってることは嘘でもなんでもない、ただの事実だけど。悪い顔で見下したように、嘲るように、にやーっと笑って嫌味っぽく言えば、繊細な子だもの。こちらの悪意が十分すぎるほど伝わるだろう。
……ただ、ひとつだけ問題だったのは。
判断力の落ちた思考が、相手の精神状態を考慮していなかったことで。
「――い、やだ」
「ひぎゅっ!?」
「いやだ嫌だいやだ、い゛や゛た゛あ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛っ!!」
ごそりと表情の抜け落ちたヘンリーが、いきなり私の首に両手をかけた。
後頭部を壁にぶつけて脳が揺れ、視界が回る。ぐっと首を締め上げられて、酸素の通り道を圧迫されて。息苦しさだけでなく、頭の中にじわじわと血の溜まっていく感覚がする。息ができない。だけど身体は酸素を必要としているから、呼吸をしようとして、失敗して、開いた口からカヒュ、コヒュ、と変な音が漏れる。
ヘンリーの手に爪を立てて引っ掻く指先が、全身の末端がぴりぴり痺れて、頭の中がぼわーっとして、聞こえる音もこもったようにぼやけていて。何か、泣き叫ぶように喚いているのは視界から見て取れるけれど、何を言われているのかはわからない。
……どうせ『行かないで』とか、『ずっと傍にいて』とか、子どもの癇癪みたいに縋って来ているだけなんだろうけどさ。魅了が効かないとわかるや否や、すぐさま暴力で屈服させる方針に転換するようなやつに、誰が大人しく従うかってのばぁか。
(あ、でも、ちょっとやばい、かも、な?)
音も、景色も、頭の中もぼやけて輪郭をなくしていく。
痙攣した四肢から力が抜けて、感覚を失っていく。
(そろそろ、ぜんぶ、とぶ――)
「ヴィル!!」
「……ッ、かふ、ごほっ!」
頭の中が真っ白になった。と、思ったら。真っ白になっていたのは、頭の中ではなく、視界の方だったらしい。突然目の前が明るくなって、だからたぶん、明順応? 視界が眩んで、そして、首への圧迫感がなくなった。
急に酸素の通り道が開いたからか、一瞬、息が詰まって。それから激しくむせ込んだ。喉が痛い。胸が痛い。頭がくらくらする。少しでも楽になりたくて、自然と身体をくの字に折り曲げた。ひゅうひゅうと高い喘鳴が、頭の中に反響している。
「しっかりしろ、ヴィル!!」
「…………お、そい、よ」
ぐらりと傾いた身体が抱き留められた。
頭上から聞こえた悲鳴のような声は、風君のもの。……ということは、力の入らない身体を受け止め、支えてくれているのも、きっと風君なんだろう。
ほっと安心すれば、身体の強張りも解ける。
憎まれ口を叩いているけど、表情も、きっと和らいでいる。そんな気がする。
風君の腕の中で視線を動かすと、離れた場所で、顔面蒼白で取り乱すヘンリーが取り押さえられていた。
取り押さえているのは、お城の衛兵で。少し離れた場所には、険しい顔でヘンリーを見つめる、アレクシスの姿があるし。肌に突き刺さる、おぼえのある『威圧』も感じた。
懐かしいなと感じる余裕があるのは、それが身内の放つもので、かつ、私に向けられたものではないからだろう。
(完全に現行犯だもん。逃がせないし、逃げられないよねぇ?)
ざまあみろ、と思った瞬間、フッと気が遠くなった。
ヘンリーが捕まった瞬間を目にしたことで、気が抜けてしまったからかもしれない。
……。
……、……。
……さもありなん、ではあるけれど。
次に目が覚める時、私は、どうなっているのかなぁ。
予定より倍、話数が伸びたお話でした。とりあえず今回はここまで。




