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四葉のクローバー 8

薄暗い部屋だが、目が慣れてくると部屋の様子がわかってくる。

私とユーグが転がされている床の続きには大きめのベッドがある。

安っぽい紗がかけられており、甘ったるい香の匂いが染み付いている。

廊下への扉とは別に、東側にもう一つ扉がある。この宿の性格上、おそらく浴室があるのだろう。


隣に転がっているユーグはまだ目覚めない。

私は、両手両足を縛られた体を芋虫さながらに動かしてユーグに近づいた。

(いたっ…!)

右足に痛みがはしる。

いつの間に痛めたのだろう。

痛みを無視してユーグのすぐ近くにたどり着き、縛られた両手でユーグの体を揺らす。

「…う、むぅ…」

ユーグが眉根を寄せて身じろぎし、ぱちっと目を見開く。

「!!」

一目で状況を見て取ったのだろう、驚愕に顔をこわばらせる。拘束された体をがむしゃらに動かして暴れだした。

「むぐぐぐ~~っ!!むごっ!!」

猿轡をかまされているせいで言葉にならない。

(ユーグ、落ち着いて!)

私は彼を落ち着かせようと、体に触れて目で訴えようとするが、通じない。

「むごごご~~っ!!」

「なんだい、うるさいね!」

バンッと扉が開き、マーシャが入ってくる。

扉の向こうの廊下には、店の用心棒であろう屈強な男が二人立っている。

ユーグが目を覚ましたのを見たマーシャは、笑いながら猫のように私たちの方へ近づいてきた。

「目を覚ましたのかい、坊や」

「!!」

男だとバレていることに、ユーグは目を見開く。

「目を覚ましたところで今夜は地獄だよ。…エレイン」

私の方へ振り向き、耳元でもったいぶった口調でささやいた。

「今夜、あんたたちを買ってくれる客が決まったよ。…ヴィスコンティ男爵さ」

(…ヴィスコンティ男爵)

くくっとマーシャが笑う。

「懐かしい名だろう。昔王宮にいた頃、ずいぶんあんたに執着してたからね。あんたも知ってのとおり、あいつは本物の変態だよ」

くいっとユーグを顎で指す。

「あんたとこの坊や、喜んで二人とも相手すると言ってたよ」

そう。ヴィスコンティ男爵は女はもちろん、可愛い男の子も大好物なのだ。

昔王宮にいた頃、よく誘いをかけられた。

私はなんとかかわし続けていたが、相手をしたメイドたちの噂を聞く限りでは、その情事の様子は場馴れしたメイドたちにとっても、なんともえげつないものだった。

「~~っ!!」

ユーグの体がはっきりと硬直する。

自分の身にそういう危機が降りかかるとは思ってもいなかったのだろう。

マーシャはそれを見て心底面白そうに笑い、私の猿轡を外した。

「どう?エレイン、こんなことになっちゃってさ?何とか言ってみたら?」

「…マーシャ、私が憎いの?」

マーシャは大袈裟に目をぐるりと回し、からからと笑った。

「まさか!今夜からまた同じ仕事をして飯を食ってく仲間になるんじゃないか。仲良くしようじゃないか、“同僚”さん?」

悪意に満ちた笑いを顔に浮かべながら、懐から小刀を取り出し私の手足の拘束を解いた。続けてユーグの拘束も解く。

「男爵が来る前に、体を洗ってきな。今夜はずっと廊下に見張りをつけてるから、逃げようとしたって無駄だからね」




ユーグと二人、隣の浴室に押し込まれる。

「ちくしょう!なんだってこんなことになったんだ!!」

ユーグは真っ赤な顔でいきりたっている。

私は浴室をぐるりと見回した。

寝室よりさらに狭いつくりの部屋に、小さなバスタブが置かれている。

壁の上部には、換気のための小さな窓。

(私には無理そうだけど、小柄なユーグなら通り抜けられるんじゃないかしら)

すばやく隣の寝室の扉を小さく開き、様子を窺う。

寝室にも窓はあるが、そちらの窓から脱出すると物音に気づかれてしまう可能性がある。

マーシャはすでに出て行った。

見張りの男たちは廊下にいるのだろう。

(浴室なら、多少音を立てても平気ね)


悔しそうに地団駄を踏んでいるユーグを強引に振り向かせる。

「ユーグ、聞いて!あの窓、ユーグなら抜けられるでしょ。すぐここから逃げて、助けを呼んできてちょうだい」

「ちょ、ちょっと待てよ!お前を置いてけって!?女を置いて一人で逃げ出すような真似、できるか!!」

大声をあげるユーグを「シッ」となだめて、私の足を指さす。

「…馬車の中でひねったみたいなの。一緒に逃げると足手まといになるわ。私はなんとか時間をかせいでやりすごすから、その間に助けを呼んできてほしいの」

「そんな…だって、その男爵ってやつは、俺たちのこと―――、あんたを…」

ユーグは途方に暮れたように呟き、最後まで言えずに言葉をとめた。

「…乱暴しようとしてる。でも、ここで二人でいたってどうにもならないでしょ。人身売買の組織も、早朝に出航すると言っていた。早く手を打たないと間に合わなくなるわ。私が一緒に逃げられない以上、あなたが先に逃げてくれたほうがいいの」

「…」

ユーグは、くしゃくしゃっと顔を歪め、泣きそうな表情になった。

私はそんな彼の背中を、縛られたままの両手でバン!と叩き、

「そんな顔しないの!ユーグが助けを呼んできてくれるって信じてるから。ねっ、自警団団員のユーグ?」




ユーグが窓枠に手をかけて、体を持ち上げて外を覗き込む。

「どう?下に降りることはできそう?」

ユーグは、「ああ。壁にツタが這ってるからそれでなんとか降りられそうだ。見張りもいない」と言って床に足をつく。

そして、私の顔を心配そうに見やり、目を泳がせながら、

「…なあ、あんたは大丈夫なのか…その…」

悔しそうに、もどかしそうに下を向いた。

「心配してくれるのね」

「なっ…!んなことはっ…そのっ…!」

途端に真っ赤になる。

(可愛いとこがあるじゃないの)

安心させるように微笑みかけた。

「大丈夫よ。伊達に長年メイドやってきたわけじゃないわ。下心のある男をかわす術なんて、星の数ほどあるんだから。…そうだ、これがあったわ」

私はエプロンのポケットから、昼間もらった小さな袋を取り出した。

「なんだこれ?…練り飴?」

小さな油紙の包みを開けると、真っ赤な飴が出てくる。

水あめと小麦粉を練り合わせた飴は、指先にちょっと力を入れると形を変えるほど柔らかい。

真っ赤な練り飴を手に、私はユーグににっこりと笑いかけた。

「これを使って男爵を撃退するわ。だからユーグ、協力してちょうだい」




「…あんなことして、俺、ラルフ兄に殺されんじゃないかな…」

ユーグは上気した顔で青ざめる、という不思議な顔色になってブツブツ言っている。

「何をブツブツ言ってるの。ほら、さっさと逃げて!」

ユーグを窓に押しやる。ユーグは更にぼやく。

「全然キャラが違うじゃないか。今まで猫かぶってたんだろ」

「文句ならあとで聞くわ。…シッ!」

遠くから聞こえる酒宴のざわめきがひときわ大きくなった。

そろそろ男たちが引き上げてくるかもしれない。

私は急いでユーグの耳元に囁いた。

「いい?この店の正面から右端の通りに辻馬車が止まってるのが見えたわ。あれはグレゴリー商会の辻馬車よ。この時刻で客待ちをしてるってことは、グレゴリー商会の運行路から考えて、ここは城下の東端に位置してると思う。

辻馬車をつかまえて、最短距離で走ってもらうと、一時間くらいでメイフェア亭に着くわ!」

ユーグが目を見開く。

「なんでそんなの知ってんだ…」

慣れたメイドなら、城下にあるすべての辻馬車の店、馬車の型、運行路、それぞれの店の縄張りはどこか、どの時刻にどの道を走っているかがだいたいわかる。

貴人の送迎はもちろんのこと、王宮を出入りするすべての客や商人たちの出入りを把握していなければならないからだ。

「いいえ、待って。そろそろラルフ殿下が戻られるはず。できれば、関所の街道沿いを通って行ってちょうだい。うまくいけばお戻りのラルフ殿下と行き会えるかもしれないから!殿下はいつも街道沿いの宿屋で一度馬を休ませるわ。もしラルフ殿下と会うことができたら、事情を話して来てもらって!」

「わ…わかった…!!」

ユーグは夜の闇に身を躍らせた。



ユーグが出て行って、しばらくして、扉がガチャリと開き、でっぷりと肥満した男が一人入ってきた。

貴族らしいフロックコートを身にまとっているが、この安宿にはそぐわず、浮いてみえる。

ヴィスコンティ男爵。

外見は紳士を装っているが、中身は下種だ。

「エレイン。久しぶりだのう。まさかこんなところで会うなんてなぁ」

用意された薄物の寝巻きを着て、ベッドに腰掛けてうなだれている私を見てフゴフゴと鼻を鳴らす。

「小僧はどうしたんじゃ?」

私は、ますます顔をうつむけ、辛くて堪らないというような声で弱々しく言った。

「…まだ浴室にいます…お願い、あの子だけは見逃してやってください…!」

男爵がぐいっと私の顎をつかんで無理やり顔をあげさせる。

「そのぶんお前が相手をしてくれるのかい?小僧は後回しじゃ。まずお前の味見をしてやろう」

興奮に小鼻がふくらんでいる。

私はイヤイヤ、と弱々しく形ばかりの抵抗をしてみせる。

「随分長いこと焦らしおって、憎い奴じゃ。今夜はうんと可愛がってやろう…っ」

男爵は荒い鼻息を私の顔にふきかけながら、肩をつかんでベッドに押し倒した。

汗ばんだ体を押し付け、首筋に鷲鼻を埋め、スンスンと匂いを嗅いでくる。

「いい匂いをしておる…味もいい…!」

ベロリと耳の下を舐めた。

「…っ!」


(ああ、嫌嫌、気持ち悪い!!…―――もう少しの我慢よ、我慢!!)


体中を這いずり回る男爵の手、至近距離でふきかかる生臭い息。

鳥肌が立ち震えそうな体を必死に押さえつけ、ただ黙って耐える。

「さあ、お前の可愛い体を見せてもらおうかのう!」

男爵は嬉々として私の服の襟ぐりをビリッと破り―――ピタリと止まった。


「な、な、なんじゃ、これはっ!!」

男爵の手によって露わにされた私の胸元、鎖骨の下から胸の上の部分にかけて、毒々しい赤い斑点がビッシリと埋まっている。

ロウソクだけの部屋の灯りの下では、なおさら不気味に見えるはずだ。


さっきユーグに手伝ってもらったのはこれだ。

真っ赤な練り飴を口にくわえて、私の体中に斑点をつけてもらった。

自分の手でつけられるところは自分でつけたが、手が届かないところはユーグに頼んだ。

効果を上げるために、服に隠れる部分にだけつけたかったので、必然的にユーグには服の下の肌の大部分を見られることになったわけだが…。恥ずかしがって嫌がるユーグを強引に説き伏せたのだ。



私は、顔を伏せ、さめざめと泣きながら言った。

「…ある村で、体中に赤い斑点が浮き上がって、臓腑が腐って悶え苦しんで死ぬ、という奇病が流行っていて…。私は殿下の命で視察に行ったんです。…でも、私の体にも少しずつ斑点が出始めて…きっと感染したんだわ…」

「ぞ、臓腑が腐って死ぬ…?」

コクリ。

顔を伏せたままただ頷く。

「で、伝染病なのか…?」

コクリ。

「ど、どうすれば感染を防げるんだ…?」

震える手でしきりに口をぬぐう。さっき私の肌を舐めたのが気になるのだろう。

「村のお医者様が言うには、着ている服を全て脱ぎ捨てて焼却処分して、体中の毛を全部剃り落として、裸のまま熱湯を頭から何回も何回もかぶれば、感染することはないだろうって…」

「ひっ、ひいいいいっ!!」

男爵は飛び上がって、扉の外に飛び出していった。


ドタン!ゴ、ゴゴゴゴゴンッ!!

階段を転げ落ちるような音。「どうなさいましたっ!」というあの女主人の声。


続く怒号と悲鳴。

ややあって、ズダダダダッ!と物凄い勢いで階段を上ってくる音がして、凄い形相をした女主人が、開けっ放しだったこの部屋の扉をバンッと閉じ、鍵をかけてまた階段を駆け下りて行った。


(隔離のつもりかしら)

階下では今だに女たちの悲鳴と「お湯!お湯を沸かして!」「剃刀持ってきてっ!」という声が響く。

(これでしばらくこの部屋には誰も来ないわね)




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