恋は思案のほか 8
「誰か来る」
ラルフ殿下はそう言うと、私の体を抱え上げあっという間にクローゼットに押し込んで、自分もむりやり入ってきた。
(ちょっ…ちょっとお!)
クローゼットの扉を完全に閉めないで、少し開けておいたため、暗闇にはならず少し明かりが差し込んで、クローゼット内部の様子も少しわかる。
王妃さまの豪奢なドレスが所狭しと吊られている中に大人二人だ。
しかもラルフ殿下は規格外にデカい体を無理やり押し込めている。
(ドレスがこすれて傷がついちゃう!ああっ!このドレスの素材はシワになりやすくて手入れが難しいのにっ!こっちのドレスの宝石飾りにひっかからないように注意しなくちゃ…お直しに出したら高くつくわっ!)
クローゼットの中の王妃さまの高価なドレスが気になってもぞもぞと体を動かしていたら、“黙ってろ”とばかりにラルフ殿下から手で口を塞がれ、体を押さえつけられた。
殿下の胸に押し付けられた顔を無理やり上げたら、殿下は目で“外の様子を見てみろ”と合図をする。
王妃さまの部屋には若い男女が入り込んできているようだ。
はじめはあたり憚るようにしていたが、人がいないとわかると、だんだん会話の声が大きくなってきた。
少し開いた扉の隙間からのぞくと、若い女性のほうはリリーさまだ。
男に腕をつかまれ、ひきずられるようにしてテーブルに置いてある首飾りの入った箱に近づく。
男、ランバード子爵が、乱暴な口調でリリーさまを怒鳴りつける。
「早くその首飾りをここに入れろよ!どうしてさっき他の皆と一緒に箱に入れなかったんだ!!こっそり元に戻せるいいチャンスだったのに!…まぁ、この部屋に誰もいないのが幸いだった。今のうちに戻しておけば、君が首飾りを盗んだことは誰にもバレやしない」
リリーさまは狂ったように首を振った。
「いやです!王家の首飾りを手に入れることができれば、わたくしと結婚して下さるっておっしゃったわ!」
男は苛ただしげに舌打ちした。
「馬鹿だな。あんなこと本気にするなんて。君があんまり結婚してくれってうるさいから、できもしないことを言って、僕のことを諦めさせようとしたんじゃないか。それを真に受けて王家の首飾りを盗むなんて、とんでもなく愚かな女だよ!捕まって罰を受けるのは君の勝手だが、僕のことを巻き添えにしないでほしいね。とんだ迷惑だ」
リリーさまは真っ青になって震えている。
髪を振り乱し、顔を歪めてとめどなく涙を流している姿は、いつもの彼女とは別人のようだ。
「そんな…だってあなたは、わたくしを愛しているっておっしゃいましたわ…!」
リリーさまはなおも追いすがる。男は汚いものを振り払うように吐き捨てた。
「嘘に決まっているだろう、そんなもの!…お堅い聖女さまを落とせるか、仲間内で賭けをしたんだ。君はあっけないほど簡単で、手ごたえもまるでなかったよ!」
「わ…わたくし、身も心も全てあなたに捧げましたのに!」
男は、リリーさまを身体的にも精神的にも貶める厭らしい言葉を言った。
その後もさらに聞くに堪えない罵詈雑言を並べ立てる。
(…ひどい…)
なおもすがりつこうとするリリーさまに、男はとうとう腕を振り上げた時、
「そこまでにしておくんだな」
クローゼットを開けて、ラルフ殿下が外に出た。
(クローゼットから登場なんて何だか間抜けなんですけど…)
つられて私も外に出る。
「ラ…ラルフ殿下…!」
ラルフ殿下のいきなりの登場に、男は青くなって震えだした。
あっという間に、リリーさまを置き去りにして部屋から逃げ出す。
「待て!」
ラルフ殿下は男を追う直前、私の方をちらりと振り向き「後は頼んだ」と言って駆けていった。
「…」
部屋に残された私とリリーさま。
リリーさまは、首飾りを握り締めたまま、茫然自失の態で立ち尽くしている。
「リリーさま」
私がそっと肩に手を置くと、くたりっとその場に崩れ落ちた。
首飾りが手からすべり落ちる。
「わっ…わた…わたくし…」
血の気の全くない白い顔で、わなわなと震えている。
大きく見開いた目からとめどなく零れ落ちる涙。
「…あの男のことは悪い夢をみたと思って忘れることですわ」
リリーさまはイヤイヤするように、全身を捩った。
「あの方は…ダニエルさまは…わたくしが王家の首飾りを手に入れることができたら、結婚して下さるっておっしゃいました…!伝説の恋を叶える首飾りの力で、わたくしの家のことも、お父さまのことも、みんなうまくいって結婚できるようになるに違いないって…!」
冷静に考えればすぐにわかるこんな逃げ口上を、なぜこうも他愛なく信じ込んでしまったのだろう。男の虚言にすがることが全てになってしまったリリーさま。
(これが、慎ましい中にも堅い信仰をもって自分を律していらしたリリーさまか…)
リリーさまは、傍らの私をまるで見ようともせず、独白するように続けた。
「…わたくし、最初はとても無理だと思いました。王妃さまの首飾りを手に入れるなんて。ぬ、盗むなんて、怖ろしい罪だと…。でも、あの日、あのお茶会で、王妃さまが首飾りをお出しになったとき、わたくし、神から試されているのだと思いましたわ。恋を叶える伝説の首飾りがわたくしの目の前に現われたんですもの!わたくしの愛が報われるには、この時を逃しては他にないと…!」
そして、隙をうかがって王妃さまの居室から首飾りを盗みとったのだという。
(きっと、その時リリーさまを試したのは、神ではなく悪魔だったのだわ)
「…それからの日々は地獄のようでした。罪深いわたくしを神さまがいつもご覧になっている気がして…。毎日教会に通い、告解室で懺悔をしましたけれど、苦しさは増すばかり。…王妃さまが気づいておられることも知っていましたわ。いつ、わたくしの罪があきらかになるのかと、怯えながら過ごしておりました」
リリーさまの顔が苦痛に歪む。
片手は無意識にご自分の胸元を辿っている。
「罪が公になることを怖れていたわけではありません。捕らわれて獄につながれてしまうと、あの方にもう会えなくなる…。そのことだけがひたすら怖ろしかったのですわ…!我ながら、何と浅ましい女でしょう…!!」
体の奥から搾り出すような声だ。
「それでも、それでも…わたくしはあの方に一目お会いしたかったのですわ…。今夜の舞踏会も、王妃さまの与えてくれた最後の機会であることは知っていました。…でも、どうしてもあの方に見てもらいたかったのです…。わたくしの全てを捨てて手に入れた首飾りを。わたくしの愛の証を」
昏い笑みが唇に浮ぶ。
先ほどの悲嘆の様とは一転、発作のように小刻みに笑い出した。
(錯乱されているわ)
とにかくここから連れ出そうと、そっとリリー嬢の体に手をかけた。
リリー嬢はひたすら片手で胸元をいじくっている。
(…?)
何も装飾品をつけていない胸元をのぞきこみ、はっと気づいた。
十字架がない。
リリー嬢は、どんなパーティに出席するときでも十字架の首飾りを外さない方として有名な方だ。
それが彼女の信仰心の篤さを周囲に知らしめる一因でもあり、彼女のトレードマークでもあったのだが…。
すでにゲームの時に着ていた揃いのドレスからパーティ用の青いドレスに着替えている。
普通だったらドレスに合わせて首飾りをつけるものだが、今リリー嬢の胸元を飾るものは何もない。
何もないところをひたすら触れているのは、いつもの癖で無意識に十字架に触れているのだろうか。
私は慎重に声をかけた。
「…リリーさま。十字架はいかがなさいました」
リリーさまは、何を言われているかわからない、というようにぼんやりと私に顔を向けた。
暗い深淵のような眼の奥には、何も映し出されていなかった。
目の前の私の顔も。神への愛も。
(信仰心と、男への愛。二つに引き裂かれて、結局残ったものは何もなかったのだわ…)




