第97話 彼氏と彼女の朝
「……ん」
腕の中の柔らかく温かい物の抱き心地が良すぎて、微睡みながらも抱き締める。
鼻腔に入ってくるシトラスの香りを胸一杯に吸い込み、幸せな気分に浸りつつ再び眠りの海に旅立とうとした。
しかし「んぅ」というくぐもった声が胸元から聞こえた事で、悟の意識が一気に覚醒する。
「っ!?」
目を開けて視線を下に向けると、亜梨栖が気持ち良さそうに寝息を立てていた。
つい驚きに体を震わせてしまったが、その程度で起きる亜梨栖ではなく、すやすやと眠り続けている。
ホッと胸を撫で下ろして心臓の鼓動と思考を落ち着かせれば、そもそも慌てる必要など無い事に気が付く。
「そっか、アリスと付き合ってるから抱き合ってもいいんだったな」
付き合った日に一緒に寝るなど普通のカップルでは有り得ないが、悟達からすればようやくと言える。
それに、昨日は唇を触れ合わせたのだ。
亜梨栖を抱き締める程度で取り乱しては、大人失格だろう。
それでも亜梨栖の体の感触や甘い匂いに、心臓が虐められるのは避けられないのだが。
「ホント、俺には勿体無いくらい可愛い子だな」
マナー違反だと思いつつも、折角起きたのならと亜梨栖の姿を堪能する。
乱れてはいても艶のある長い銀髪に、今は閉じられているがルビーにも負けないくらい美しく輝く瞳。
体つきはメリハリがあり、亜梨栖の体を見下ろす体勢なせいで、母性の塊が歪んでいるのが分かってしまう。
肌は日に焼けないせいで雪のように白く、反対に血色の良い艶やかな唇からは、気持ち良さそうな寝息が漏れている。
何の憂いもないような穏やかな寝顔と合わせて、凄まじい美少女が悟の恋人になったのだという事実が改めて沸き上がってきた。
胸を満たす歓喜に頰がだらしなく緩んでしまう。
「多分、俺達が知り合って、しかも付き合えたのは凄い確率なんだろうな」
七歳下の異性となど、普通は知り合う機会がない。
例え知り合えたとしても、せいぜい顔見知り止まりだろう。
それだけではなく、五年も離れた上で付き合う事になったのだ。
様々な事情があったとはいえ、ここまで来れたのは天文学的な確率のはずだ。
「ありがとう、アリス」
出会いこそ互いの親が引き合わせたからだったが、その後の関係を亜梨栖は実力で勝ち取った。
彼女が来てくれなければ、悟はずっと過去を引き摺ったままだっただろう。
亜梨栖は決して受け取らないが、何度お礼を言っても足りないくらいだ。
少しでも悟の気持ちを伝えたくて、彼女を起こさないようにそっと頭を撫でる。
すると長い睫毛がふるりと震え、紅玉の瞳を見せた。
「もしかして起こしたか? ごめんな?」
「……」
光の無い瞳が悟を映すと、無表情がとろりと蜜が詰まったような笑みへと変わる。
「だい、じょぶ。もっと、なでて」
「了解だ」
幼げな言葉での要求を呑み、優しく、梳くように撫でる。
お気に召したようで、心地良さそうに亜梨栖が目を細めた。
そのまま二度寝するかと思ったが、次第に亜梨栖の瞳が意思の光を帯び始める。
白磁の頬が薔薇色に染まった所で、愛らしい恋人へと笑いかけた。
「おはよう、アリス」
「…………おはよう、お兄ちゃん」
「おっと、敬語はいいのか?」
てっきり悟から逃げるか胸に顔を埋められるかと思っていたが、予想を裏切って敬語が抜けたまま挨拶された。
とはいえ耳まで真っ赤に染めているし、視線は迷子になっているので、間違いなく羞恥に炙られているのだろう。
意外に思ってつい指摘すれば、我慢の限界が来たようで胸に頭突きされた。
「いい。ここまで来たら、思いきり甘えるもん」
「それじゃあ気の済むまでくっついていようか」
もしかすると、これから甘えたい時は敬語を外すのかもしれない。
幼馴染かつ恋人である少女のいじらしい甘えぶりに、吐息混じりの笑みを落とした。
すると音だけで把握したようで、ぐりぐりと胸に顔が押しつけられる。
「お兄ちゃんは、やっぱりいじわる」
「悪かったよ。お詫びに沢山撫でるから」
ご機嫌斜めな割に悟からは離れないので、単にじゃれているだけだ。
なのでもっと撫でようとしたのだが、亜梨栖がいきなり顔を上げた。
頬を紅色に染めながら微笑まれて、悟の心臓が鼓動を早める。
同時に、彼女の笑顔にどこか悪戯っぽいものを感じて背筋が冷えた。
「それだけじゃ、だめ」
「……何をすればいいんですかね」
「ん」
亜梨栖が頬を紅潮させて唇を僅かに突き出す。
短い言葉と合わせて何を要求されているのかすぐに分かったが、昨日したばかりだ。
嬉しくはあるものの、相変わらずの押せ押せっぷりに頬が引き攣る。
「そういうのって、もっとムードとかあるんじゃないか?」
「ムードを重視しておあずけされるくらいなら、私はそんなもの投げ捨てる」
「妙に男らしいなぁ……」
おそらく、もったいぶられるよりかはどんどん触れ合いたいのだろう。
付き合いたてのカップルにしては変だが、どうせ悟の傍に居るのは亜梨栖だけなのだし、他のカップルと対比しても仕方がない。
苦笑しつつ亜梨栖に顔を近付ければ、澄んだ瞳が睫毛に隠れた。
「ん……」
「ふ……」
特別な事など何もしない、ただ唇と唇を触れ合わせるだけの行為。
なのに、悟の胸を幸福感が満たしていく。
ゆっくりと唇を離せば、先程よりもとろみを増した瞳が悟を見つめた。
「きす、きもちいいね」
「だな」
ふにゃふにゃとした笑みを浮かべた亜梨栖に体を押され、横向きから仰向けになる。
枕代わりなのかすぐに亜梨栖が胸に頭を乗せると、一瞬だけ目を見開き、すぐに楽し気に細めた。
「お兄ちゃん、心臓の音が凄いよ?」
「そりゃあそうだろ。頑張って良い所を見せようとしてただけだ」
悟は出来る限り亜梨栖をリードしようと、精一杯虚勢を張っていただけだ。
なのでキスの前から心臓はうるさい事になっているし、今も全く落ち着いていない。
亜梨栖の指摘に羞恥が上ってきて視線を逸らせば、くすくすと軽やかに笑われた。
「私も一緒だからだいじょーぶ。確かめてもいいよ?」
亜梨栖が顔を浮かせながら尋ねてきたせいで、襟ぐりから見える絶景に視線が吸い寄せられてしまう。
継ぎ足された羞恥が悟の頬を炙り、思いきり顔を背けた。
「……やめとく」
亜梨栖の鼓動を確かめようとすれば、母性の塊に体のどこかが触れてしまう。
付き合っているので触れていいはずだし、亜梨栖から誘ったので嫌がられないとは思うが、例え手が触れたとしても悟は理性を抑える自信が無い。
いくら亜梨栖が投げ捨てると言っていても、最初はもっと良い雰囲気の中でしたいのだ。
そこまで考えて、ふと気付く。
(当たり前のように手を出す事を考えてるじゃねえか!)
亜梨栖に何も伝えないという意思を曲げられ、高校卒業まで告白を我慢出来なくなり、そして体を重ねる事まで考えようとした。
自らの思考に愕然とするが、そんな事など知るかとばかりに亜梨栖が艶やかな笑みで微笑む。
「気になったら、いつでも確かめてね?」
次はどれくらい耐えられるのかと、甘い疼きを堪えながら思うのだった。




