第95話 過去を知った上で
「とまあ、そんな感じです。……自分の醜態を晒すのって、恥ずかしいですね」
全てを話し終えた亜梨栖が、恥ずかし気に頬を染める。
その表情には悟への恨みなど少しも見えなかったものの、何を返せばいいか分からない。
亜梨栖が自分を責めるなと言っていたが、これで責めなければただの人でなしだろう。
じくじくと痛む胸を抑えるように、顔を俯ける。
(俺のせいで、あんな苦労を……)
悟とて急に亜梨栖から離れて苦労を掛ける事は、しっかりと頭に入れていた。
しかし、彼女の視点で当時から悟の家に来るまでを語られると、凄まじく胸が痛む。
そんな苦労を掛けた人間が、今から想いを伝えていいのか。
弱気な感情が胸を満たし、悟の口を閉ざさせた。
「兄さん。顔を上げてください」
じっと固まっている悟へと、柔らかな声が掛かる。
けれど、悟には顔を上げる資格などない。
顔を俯けたまま、頭を深く下げた。
「ごめん。ごめんな」
「はぁ……。やっぱりこうなりますよねぇ。恥ずかしいのもそうですが、だから言うのを渋ってたんですよ」
「……本当に、ごめん」
謝って済む問題ではない事など重々承知の上だ。
それでも、今の悟に出来るのはひたすらに謝罪だけだ。
初恋の人をこれほどまでに傷付けた人間の屑が、想いを伝えるのは間違っている。
そう結論付けて立ち上がろうとしたのだが、横から「えい」という軽い声と衝撃を受けた。
「…………は?」
亜梨栖から体当たりされ、突然の行動に何も抵抗出来ないまま芝生へ寝転がる。
幸い、亜梨栖の体当たりはそれほど勢いがなく、芝生も柔らかかったので、体に痛みが走る事はなかった。
訳が分からず呆けた声を上げる悟へ亜梨栖が圧し掛かり、顔の横に両手が置かれる。
星空が見えるはずの体勢だが、今の悟の視界は彼女の顔で殆どが占められていた。
はらりと垂れて悟の頬に掛かる銀糸と整い過ぎた顔に、こんな状態でも見惚れてしまう。
「逃げるのは駄目ですよ。許しません」
「俺は、逃げてなんて――」
「逃げてますよ。『自分には資格が無い』って勝手に思って、自分を責めないって約束を破って、私から逃げようとしてます」
亜梨栖の言葉が胸に刺さり、思わず顔を顰める。
「……そんなの、当然だろ。俺は良い子にならなきゃって思って苦しんだのに、アリスに同じ事をさせたんだから」
母である彩や、信用してくれている奏、亜梨栖に迷惑を掛けてはならないと頑張った悟。
そんな悟の隣に並べるように、もう一度会えるようにと大人に――ある意味では良い子に――なろうと努力した亜梨栖。
悟と亜梨栖の本性こそ違えど、同じことを強いてしまったのは皮肉でしかない。
溜息と共に内心を吐き出せば、星空に負けない程の美しい顔が、呆れた風な苦笑へと変わる。
「それは違いますよ。兄さんは他の選択肢がなかった。私は数ある選択肢の中から大人になる道を選んだ。それだけの話です」
何の後悔も無いような晴れやかな笑みは、花見の時に似ていた。
「だから、兄さんが――悟さんが後悔しないでください。これは、私が望んで歩んだ道なんですから」
夜空で淡く輝く星のような優しい笑みが、少しだけ悟の胸を軽くする。
亜梨栖が悟に会わないという選択肢を捨てて苦労する道を選んだのなら、それを「間違っている」と否定してはいけない。
ましてや悟のせいだと自分の責めるのは、亜梨栖の努力を踏み躙っているのと同じだ。
とはいえ、頭では整理がついても感情はどうしてもついていかない。
痛みを発する胸が促すままに口を開く。
「こんな俺でも、後悔しないのか?」
「そんなの今更ですよ。後悔なんて、絶対にしません」
「……分かったよ」
未だに自分を責めようとする心の声を抑えつけ、深呼吸する。
今の亜梨栖が満面の笑顔を浮かべているのだ。悟の苦しみも、亜梨栖の努力も、決して無駄ではなかったのだろう。
そう無理矢理感情を納得させて立ち上がろうとするが、亜梨栖が悟の上から退く気配がない。
むしろ僅かに顔を上げた事で、亜梨栖との距離が近付いてしまった。
瑞々しく柔らかい唇や、澄んだ紅玉の瞳に心臓が跳ねる。
「……………………退いてくれないか?」
「えー。ここで退くと兄さんがまたあれこれ理由をつけて言わないかもしれません。だから嫌です」
「ちゃんと言うから。こういう時くらい恰好付けさせてくれよ」
「約束ですからね?」
「ああ、約束だ」
きちんと覚悟を言葉にすれば、亜梨栖が名残惜し気に悟の上から退いた。
それでもすぐ目の前に座り、早く言えと瞳を輝かせて待機しているのだが。
どうにもしまらないなと苦笑しつつ、亜梨栖の顔をしっかりと見つめる。
(そう言えば、告白するのは初めてだな)
亜梨栖やそれ以外の人に告白された事はあったが、逆は当然無い。
彼女の返答は決まっているものの、それでも緊張に心臓の鼓動が早まり、手に汗が滲む。
しかし、亜梨栖はこの緊張の中で二回も告白してくれたのだ。
悟が怖気づく訳にはいかないと、胸に秘めた想いを言葉にしていく。
「ずっと、ずっと前からアリスの事を考えてた。それこそ、大学時代でもアリスの事を忘れた日はない」
一緒に過ごしていた小学生の時から今まで。思っている事は違えど、亜梨栖の事はずっと気にしていた。
「銀色の髪が幻想的で、紅の瞳は宝石みたいに綺麗で、昔は可愛かったけど、今は可愛さと綺麗さが混じっていて凄く魅力的だ」
「……そこは綺麗で纏めて欲しかったですね」
「アリスには残念だけど、事実だぞ」
亜梨栖からすれば、可愛いと言われるのは自爆した時や甘える時の事を思い出して嫌なのだろう。
頬を僅かに膨らませ、じっとりとした目を送ってくる姿も可愛らしい。
唇の端を緩めつつ、咳払いを一つして話を続ける。
「そんな、誰もが好きになる人の隣に俺が居ていいのかって、正直思ってる。そんな人を傷付けてしまった俺に、隣に立つ資格は無いんじゃないかとも」
「さっきも言ったでしょう? 兄さんが――」
「でも、アリスが受け入れてくれるなら、こんな俺でも良いと思えるんだ」
亜梨栖の言葉を遮って告げれば、深紅の瞳が驚きに見開かれた。
悟は亜梨栖に好意を向けられて良いような人ではない。
しかし彼女が傍に居てくれるなら、醜い自分も受け入れられる。前を向くことが出来る。
「これからも精一杯頑張るけど、みっともない姿も見せると思う。それでも――」
亜梨栖と出会って一目惚れし、好意を自覚してからは胸の内に秘めていた。
自らの最低最悪な性根を理解して、その気持ちをより心の奥に閉じ込めた。
限界が来て亜梨栖から離れ、五年間過ごしても胸の内は満たされなかった。
そんな悟の前で、想い人がはにかみながら待ってくれている。
迷って、間違って。おそらくこれからも迷惑を掛ける事は多いだろうが、ここから始めよう。
「三城亜梨栖さん、好きです。付き合ってくれませんか?」
ようやく告げられた想い。告げられてばかりだった感情。
初めて悟の口から発せられた言葉に、亜梨栖が甘さを帯びた美しい笑みを浮かべた。
「はい、喜んで。私を貴方の恋人にしてください。大好きな松原悟さん」
潤んだ紅玉の瞳から、雫が一筋零れる。
感極まったのか、亜梨栖が再び体をぶつけてきた。
芝生へ寝転び、亜梨栖が胸に体を預ける。
至近距離で見る彼女の顔は、今まで見た事がない程の満面の笑みだ。
「やっと、やっと付き合えたんですね……!」
「遅くなってごめんな」
「いいえ、全然、全然大丈夫です。でも、ただ付き合えただけじゃあ満足出来ません」
ゆっくりと悟へ顔を近付ける亜梨栖。
誰もが見惚れるであろう満面の笑みは、いつの間にか女を香らせる艶やかな笑みに変わっている。
「え、い、今か?」
「はい。ちゃんとした関係になったらって兄さんが言ってたじゃないですか」
「それはそうだけど、早すぎないか?」
確かに花見の際に言っていたし、亜梨栖の額に唇を落とす事で誤魔化した。
しかし、付き合った瞬間に唇を重ねるのは性急ではないか。
そんな疑問をぶつければ、亜梨栖が悪戯っぽく笑って首を振る。
「そんな事はありませんよ。むしろ、遅すぎるくらいです。それじゃあいきますね」
「ち、ちょっと! ムードとか、男がリードとか――」
「そんなのどうでもいいです」
ファーストキスくらいしっかり彼氏として恰好付けたかったのだが、亜梨栖は悟の言う事に耳を貸さない。
ぐいぐいと距離を詰める彼女に、悟は抵抗を諦めた。
なんだかおかしな気がするが、亜梨栖が悟へ迫るという普段とあまり変わらない状況なので、これが悟達らしいのかもしれない。
「にい――悟、さん」
「アリス」
視界が亜梨栖に満たされ、潤んだ紅の瞳が輝きを瞼に隠す。
満天の星空の下、お互いに名前を呼び合い、唇と唇が重なるのだった。




