第93話 失われた太陽
「ただいまー!」
声を響かせて勝手知ったる我が家に入る。
悟は数日前に学校を卒業し、昨日は珍しく亜梨栖を迎えに来てくれた。
今日は何かの用事があるらしいが、遅くならないうちに帰ってくるだろう。
そう思いつつリビングに入ると、テーブルの上にラップされた料理が置いてあった。
「…………何、これ?」
この家で料理をするのは悟だけだ。したがって、この料理を作ったのも悟になる。
けれど、彼は一度も作り置きなどした事はなかったはずだ。
事前に連絡もなく、手紙すらない。ただ料理が置かれているだけ。
それが亜梨栖の胸をざわつかせた。
「おかしい、何かおかしい……!」
何が、とは言葉に出来ない。用事次第では、作り置きくらいあるのかもしれない。
そう思っても、亜梨栖の頭のどこかが警鐘を鳴らし続けていた。
「取り敢えず、お兄ちゃんの家に行こう!」
待つ事も出来るはずなのに、亜梨栖の頭にはなぜかその選択肢が浮かんだ。
慌てて靴を履き、徒歩五分の松原家へと急かされるように走る。
松原家の鍵は悟からもらっているし、勝手に何度も上がった事がある。
慣れた手つきで鍵を開けて中に入るが、やはり悟の靴はなかった。
どくどくと心臓が跳ねる中、二階にある悟の自室へと向かう。
その鼓動が走ってきたからなのか、それとも別の理由からなのか、もう亜梨栖には分からない。
震える手でドアノブを捻り、勢い良く開けた。
「……………………そん、な」
そこには本棚にベッド、ゲーム機等、簡素ではあるが生活感のある部屋が広がっているはずだった。
しかし、今の亜梨栖の目にはフローリングの床だけが映っている。
まるで初めからそこには人が住んでいなかったかのように、悟の痕跡がすっぽりと無くなっていた。
「何、が……? 何が起きてるの!?」
悟との生活が全て幻だったとは思えないし、思いたくない。
けれど、目の前の惨状は確かに現実だ。
目の前がぐるぐると回って落ち着かない。もう走ってもいないのに息が出来ない。
何かとてつもなく恐ろしいものから逃げるように、必死で三城家へと向かう。
家に着くと、玄関にはこの時間に帰って来る事などありえない母が居た。
「お母さん!! お兄ちゃんが、お兄ちゃんが居ないの!!」
なぜ奏がここに居るのかすら思考せず、無我夢中で悟の事を伝える。
奏も慌ててくれるかと思ったが、その顔が歪み、亜梨栖の前でしゃがみ込んだ。
「アリス、落ち着いて聞いてね?」
「お、かあ、さん……?」
母の様子が変だという事にようやく気付き、続く言葉を聞いてはいけないと本能が訴える。
しかし亜梨栖が耳を塞ぐよりも早く、奏の唇が残酷な現実を紡ぎ始めた。
「悟くんは引っ越したの。もう、ここには来ないわ」
「……………………え?」
「これからはアリスが頑張るのよ。本当は早く帰りたいけれど出来ないの。ごめんなさい」
「……うそ」
脳が奏の言葉を拒絶する。そんな現実、受け入れられる訳がない。
「そんなの嘘! お兄ちゃんが私を置いて居なくなる訳ない!」
「アリス、あのね――」
「お兄ちゃんはどこ!? どこに居るの!?」
いいから悟に会わせて欲しいと、奏の服を掴んで揺さぶる。
なぜか視界がぼやけ、ズキズキと胸が痛い。
このおかしな心の乱れも、悟に会えば無くなるはずだ。
しかしどれだけ声を張り上げても、奏は何かを堪えるように唇を引き結んでいるだけだ。
「会わせてよ! お兄ちゃんに会いたいよ! 何で会えないの!?」
「……アリス」
ひたすらに感情をぶつける亜梨栖の両肩に、奏の手が優しく触れた。
今にも泣きそうに顔を歪める奏が、ゆっくりと口を開く。
「恨むなら私を恨みなさい。憎んでくれてもいいわ。でも、アリスを悟くんには会わせられないの」
その言葉は、この騒動の原因が奏にあるという証明だ。
そして、悟の居場所を知っているにも関わらず、決して教えないという断言でもある。
亜梨栖の頭を困惑が占め、奏の言葉を飲み込むうちに、憤怒が沸き上がってきた。
「……どうして?」
悟と奏は仲が良かった。それこそ、奏は悟を息子のように可愛がっていたはずだ。
なのに、どうして今更になって亜梨栖から悟を奪うのか。
「何で会えないの!? どうして会わせてくれないの!?」
「……それは、言えないわ」
「…………っ」
詳しい理由も話さず、ただ悟と亜梨栖を引き離した母。
あまり一緒に居る時間こそなかったが、奏の事は好きだった。
けれど、今の亜梨栖にとっては憎い人でしかない。
「お母さんなんて、だいっきらい!!!!」
奏の腕を振り払い、自室へと逃げ込む。
もう何も聞きたくない、何も考えたくない。
悟が居なければ、亜梨栖は何を支えに生きて行けばいいのだろうか。
這い上がってくる寒気を少しでも無くしたくて、布団にくるまった。
「おにぃ、ちゃん……。お兄ちゃん……!」
口に出せば出す程、空っぽになった悟の部屋と奏の言葉を思い出し、悟が居なくなったという現実が押し寄せてくる。
胸にぽっかりと大きな穴が空いたようで、そこに悲しみと苦しみが入り込んできた。
溢れた負の感情は言葉にならず、ただひたすらに亜梨栖の瞳から流れていく。
「あ、あ、あぁぁぁぁ……」
亜梨栖はほんの数十分前まで幸せだった。満ち足りていたと言ってもいい。
悟と一緒に家で過ごし、奏が帰ってくるのを待つ生活。
多くのものは要らない。ただ、それだけがあれば良かったのだ。
何がいけなかったのだろうか。何を、どこで間違えたのだろうか。
ぐちゃぐちゃの心は何の答えも出せず、悲しみが嗚咽として出て行く。
「う、あ……。あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁ!!!!!」
会いたい。声が聞きたい。姿を見たい。
叶わない欲望が更に亜梨栖の心を抉り、枕を濡らし続けたのだった。
どれ程泣いていたのか。気付けばとっくに日が落ちていた。
日の差し込まない暗闇の中、涙が枯れた瞳で虚空を見上げる。
「……私、お兄ちゃんの事が好きだったんだ」
いつの間にか、あるいは出会った時に抱いた感情をようやく自覚し、言葉にした。
幼稚園の頃に知り合った頼れる兄のような存在。
当たり前のように、ずっと傍に居ると勝手に思っていた人。
日の光を浴びられない亜梨栖にとっての太陽。
それが傍から無くなって、初めて大切さに気付くなど愚か過ぎる。
「会いたいよ。会いたいんだよ、お兄ちゃん!」
散々泣いても、現状を自覚しても、この想いは変わらなかった。
そして、このまま泣いていても悟には会えない。
ならば、亜梨栖がどこから間違っていたか、それを見極めなければ。
「どうしてお兄ちゃんは私を置いていったんだろう……」
今までの悟の態度が全て噓だったとは思わない。
悟が何も告げずに居なくなった原因がどこかにあるはずだ。
「私が子供、だからかなぁ」
我儘を言い過ぎたから、頼り過ぎたから、甘え過ぎたから。
亜梨栖に嫌気が差して、悟に見限られたのだろうか。
そんな思考に至り、背筋に寒気が走った。
「嫌われたのかなぁ……」
悟に嫌われてしまったのなら、亜梨栖には本当に何も残らなくなる。
亜梨栖を照らす太陽が無くなれば、その先は真っ暗闇だ。
なので別の原因があると決める事で、狂いそうになる精神を持ち直す。
「もし嫌われてないなら、頑張らないと」
悟の後ろをついていくだけでは、今回のように置いていかれてしまう。
また、奏には亜梨栖と悟を会わせたくない理由があるような口ぶりだった。
奏から理由を聞き、悟の隣に並ぶ為にはどうするべきか。
その答えに似たものはずっと亜梨栖の中にあったからか、驚く程簡単に思い浮かんだ。
「大人に、なるんだ……!」
何も出来ない子供ではなく、奏や悟に頼られるような。胸を張って隣に立てるような、そんな人になればいい。
言葉にするのは簡単で、実現するには難し過ぎる事だ。
しかし、達成しなければ悟には会えない。
布団から出てしっかりと地を踏みしめる。ジッとしているくらいなら、悟に会えるように努力した方が何倍も良い。
「家事はきちんと覚えなおして、料理はお兄ちゃん任せだったから、全部出来るようにする。髪は伸ばせば大人っぽく見えるかな。そうだ、言葉遣いも変えよう」
亜梨栖という存在を変えてみせる。
問題は山積みだが、目標が出来るだけで体に力が漲ってきた。
「……絶対に、会いに行きます。待っていてください、兄さん」
扉を開けて一階へ。
リビングに向かえば、机に肘をつき顔を手で覆っている奏がいた。
足音で気付いたのか、憔悴しきった顔を向けられる。
「ごめんね、アリス。でも――」
「あんな事を言ってしまい、すみませんでした」
深く頭を下げて、先程の暴言を謝罪した。
顔を上げれば、奏が目を白黒させて困惑を顔に出している。
「もう大丈夫です。これからは、ちゃんとします。お母さんは何も心配せず仕事に行ってください」
「あ、アリス? どういう事?」
「頑張ります、家事も料理もきちんと覚えます、迷惑を掛けるような事はしません。ですから――」
もう一度、腰を折って頭を下げる。土下座しろというなら、喜んで何時間でもしよう。
悟の居場所を知っている奏には、こうしてお願いするしかないのだから。
「どうすれば兄さんの所に行けるのか、教えていただけませんか?」
「――」
亜梨栖の急変をどう受け取ったのか、驚きに見開かれていた瞳が、痛々しいものを見るような色を帯びる。
敬語を使う程度、痛くもなんともない。本当に痛いのは、悟が居なくなって空いた胸の穴だ。
「お願いします。教えてください」
「……………………ごめんね、ごめんね、アリス」
三度頭を下げれば、奏の瞳から雫が落ちた。
やはりというか、理由は話してくれないらしい。
亜梨栖にはなぜ奏が泣いているのか分からず、首を捻るのだった。




