第92話 星空の下で
亜梨栖と一緒にお風呂に入る事になり、理性が揺さぶられつつも何とか無事に入浴を終える。
夕方まで飲んだり食べたりしていたので晩飯は特に作らず、亜梨栖も風呂上がりからは悟を誘惑する事なく一日を終えた。
そしてゴールデンウィーク六日目。
今日の予定は最初から決まっており、亜梨栖に時間をもらっている。
とはいえ予定があるのは夜からなので、それまでは昨日の騒ぎっぷりとは反対に穏やかな時間を過ごした。
「準備は出来たか?」
「殆ど出来ましたよ。どうですか、似合ってますか?」
日が殆ど落ちた夕方ではあるが、外出の準備を終えたので亜梨栖に尋ねた。
彼女はゴールデンウィーク初日に買った紺色の半袖ワンピースを着ており、くるりと悟の前で一回転する。
スカートが綺麗に広がる姿が美しく、つい見惚れてしまった。
「ばっちりだ。凄く綺麗だぞ」
「ありがとうございます。こういう時にしか着れませんが、買って正解でしたね」
悟の褒め言葉を受け、くすぐったそうにルビーの双眸が細まる。
幸せが溢れるような笑みが、悟の心臓を容赦なく揺さぶった。
鼓動を抑えつつ、服を着るだけで悟を魅了する亜梨栖に微笑みを向ける。
「そうだな。使う機会があってよかったよ」
「折角買ったのにしまっておき続けるのは勿体ないですからね。さてと、それじゃあ最後の準備をしましょうか」
亜梨栖が小物を入れている棚に向かい、その上に置かれている物を取ってきた。
それは、下手をすると半袖のワンピースよりも着ける機会に恵まれないものだ。
期待を込めた淡い笑みを浮かべた亜梨栖が、片割れであるハートのネックレスを差し出してくる。
「着けてくれませんか?」
「もちろんだ。後ろを向いてくれ」
「はぁい」
ふにゃっと緩んだ笑みを見せた亜梨栖が、悟へ背を向けて銀髪をかき上げた。
昨日も風呂場で見ていたものの、あの状況で殆ど意識する事のなかった真っ白なうなじが目に入ってくる。
その美しさと白さに固まっていると、亜梨栖がもぞりと身じろぎして悟へと僅かに振り向いた。
「別に見られるのはいいんですが、そこまでジッと見られると流石に恥ずかしいです」
「あ、ああ、ごめんな」
頬をほんのりと朱に染め、歓喜と羞恥を混ぜ込んだ苦笑が悟を現実に引き戻す。
急ぎつつも焦らずに着ければ、亜梨栖が振り返ってもう一つのネックレスを手に取った。
「次は兄さんですよ。後ろを向いてください」
「頼んだ」
亜梨栖は悟のように停止することなく、シルバーのネックレスがすぐに首に巻き付く。
きちんと止めてくれた事を確認して振り返ると、お互いの首元には全く違う形のネックレスが輝いていた。
違う形ではあるが、お互いがなければ完成しないネックレスに、温かいものが込み上げてきて頬が緩む。
亜梨栖も同じ気持ちのようで、にへらと溶けるように眉尻を下げ、幸せそうに笑んでいる。
「ふふ。部屋に飾るのもいいですが、やっぱり着けるのが一番ですね」
「本来はそういう用途だからな。よし、それじゃあ行こうか」
「はい。行き先の分からない夜のデート、楽しみです」
「……期待に応えられるように頑張るよ」
亜梨栖ならば喜んでくれるだろうが、それでも一抹の不安はある。
しかしデートに連れ出す男が不安を表に出していては、どんな場所に行っても女性を喜ばせる事は出来ない。
ぐっと気を引き締めて、亜梨栖と共に家を出る。
一階に降りて、駐車場へ。
相変わらずあまり使っていない軽自動車の鍵を開ければ、亜梨栖がするりと助手席に座り込んだ。
「何だか一ヶ月前を思い出しますね」
「あれからもう一ヶ月以上経ったんだもんなぁ。早いもんだ」
夜の花見をし、亜梨栖に全てを伝えた約一ヶ月前。
今日は別の物を見るが、前に進むという決意は同じだ。
似すぎている状況に、くすりと笑みを落とす。
「こんな事ばっかりだけど、それでもいいか?」
分かりきっている答えが欲しくて尋ねれば、亜梨栖が迷う事なく頷いた。
「はい。兄さんとなら何を見ても、どこに行っても楽しいですよ」
「……ありがとう、アリス。それじゃあ行くぞ」
「りょーかいです」
アクセルを踏み、日の暮れた車道に車を出す。
いつかと同じデートが始まったのだった。
車を走らせる事、約一時間。
前回の花見よりも時間を掛けて、目的地に着いた。
街を離れた見晴らしの良い展望台。
それほど広くはないが、景色を楽しむには十分だ。教えてくれた信之には後日お礼をしなければ。
ゴールデンウィークと言えど、日が暮れて暫く経ったからか周囲には人がいない。
「わぁ……!」
亜梨栖が深紅の瞳を輝かせて空を見上げる。
家の周辺だと明るすぎてあまり見えないが、今は満天の星空がしっかりと見えていた。
「こんな綺麗な星空を見たの、いつぶりでしょうか……」
「俺も思い出せないなぁ……」
少なくとも、悟には亜梨栖と夜の景色を見た記憶がない。
星々から目を離し、車を降りてすぐ景色に夢中になった亜梨栖へと手を伸ばす。
「折角だし、歩こうか」
「そうですね。楽しまなければ損です」
力を込めれば折れてしまいそうな程に華奢な手が、しっかりと力を込めて悟の手を握った。
邪魔な光もなく誰も居ない、悟と亜梨栖だけの穏やかで少し甘い空間。
その空気に浸りつつ、ゆっくりと展望台を見て回る。
とはいえ、見る事が出来る場所はそう多くない。
手すりに凭れ掛かり、輝く街並みを見下ろす。
「夜景も綺麗ですねぇ……」
「ああ。特に有名な観光名所とかはないけど、それでも綺麗だな」
人が住んでいる証を示す、人工的な光の数々。
それはどれだけ夜が更けようとも、決して無くなりはしない。
特別変わったものなどないのに、見下ろすだけでじわりと感動を滲ませるのだから不思議なものだ。
ちらりと横を見れば、僅かに頬を緩めて目を細め、とても高校生とは思えない大人びた笑みを浮かべる少女がいた。
(綺麗だな……)
亜梨栖を見る度に、何度思ったか分からない。
おそらく、悟はこれからもこの横顔に見惚れ続けるのだろう。
ジッと見つめていると流石に視線に気付いたらしく、亜梨栖が無垢な顔で首を傾げる。
「……? どうかしましたか?」
「いや、何でもないよ」
「は、はぁ……」
今更褒め言葉を口にするのが気恥ずかしくて、つい誤魔化してしまった。
暗くて悟の表情が分からないのか、呆けた声を出しつつ悟についてくる。
夜景は見終わったが、もう一度星空を見る為に、展望台の芝生へと腰を下ろした。
亜梨栖も隣に座り、一緒に星を見上げる。
「「……」」
気まずくなった訳ではない。けれど空気は柔らかく、お互いに言葉を発しない。
このままずっと亜梨栖と星を眺めていたいが、今日の本題を済ませていないのだ。
随分回り道をしたし、惚れ直させる事が出来たかも怪しい。
それでも、次は悟からだと約束した。
緊張で弾む鼓動を自覚しつつ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「なあ、アリス。ゴールデンウィークはどうだった?」
「普段とは全然違いましたが、楽しかったと胸を張って言えますよ」
「なら良かった。威勢の良い事を言った割に、四月の間は殆ど何もしてあげられなかったからな。こういう時くらい頑張らないとって思ったんだ」
たった一ヶ月だけだが、本格的に一緒に過ごしただけで亜梨栖には沢山のものをもらった。
温かい空気に美味しい飯、何よりも想い人が傍に居るという嬉しさ。
そのくせ何も返せていないのが申し訳なかったが、少しは返せたらしい。
安堵が胸を満たし、細く息を吐き出せば、隣からくすりと小さな笑い声が聞こえた。
「私はいつも兄さんから沢山のものをもらってましたよ」
「俺が納得出来なかったんだよ。……だからこうしてゴールデンウィークは頑張って、今日はここに来たんだ」
もちろん、頑張った理由は亜梨栖へのお礼だけではない。
悟が予測した亜梨栖の言葉と全く変わらない励ましに、苦笑を零して夜空を見上げる。
輝く星々の光は町の光と比べても淡いが、背中を押してくれている気がした。
「本当はアリスが高校を卒業するまで待つつもりだったんだけどな……」
いくら誘惑されようとも、これだけは譲らないつもりだった。
しかし悟からも少しずつ距離を詰め、亜梨栖はどんどん甘えてくれるようになり、もどかしい関係に我慢が出来なくなってしまったのだ。
情けない大人だと苦笑を浮かべ、視線を隣の少女へと戻す。
悟が何を言おうとしているのか分かっているのだろう。
暗い闇の中でも、亜梨栖は淡く微笑んでいた。
「でも、駄目だった。前に進みたくなったんだ。だから、約束を果たすよ。アリス――」
「すみません、兄さん。その前に、話しておきたい事があるんです」
「お、おう、そうか」
唐突に話の腰を折られ、戸惑いに目を瞬かせる。
どうにも締まらないなと悔しさに小さく溜息をつけば、亜梨栖が柔らかく笑んで首を振った。
「兄さんのせいじゃありませんから、落ち込まないでください。恥ずかしいですけど、関係を進める前に私の事を話さなければと思っただけですから」
「いいのか?」
今の悟と亜梨栖の間には蟠りはないし、悟の醜い所は全て亜梨栖に知られている。
しかし、悟は再会するまでの亜梨栖を知らないのだ。
かなり嫌がっていたので聞くつもりはなかったのだが、どうやら話してくれるらしい。
念の為に確認を取れば、申し訳なさを秘めた笑みが向けられた。
「はい。私だけ秘密にしたまま、というのは対等ではないですから。……でも、一つだけ約束してください」
「分かった。何を約束すればいい?」
内容を聞かないうちに応えれば、亜梨栖が呆れと歓喜を滲ませた微笑を落とす。
「決して、自分のせいだと苦しまないでください。単に、私があれからどういう風に過ごしたか。それだけの話なんですから」
「…………約束するよ」
これから亜梨栖が話す内容は、間違いなく悟が元凶だ。
それでも苦しむなと言ってくれた彼女の優しさを踏み躙りたくなくて、ぐっと奥歯を噛んで頷いた。
「ありがとうございます。それじゃあまずは、兄さんが突然居なくなったあの時からですね――」
小さな唇から、噛み締めるように言葉が零れていく。




