第90話 ひと眠りした後に
「う、ん……」
腕の中の少女が寝てから約一時間。起こさないように軽く撫で続けていると、吐息混じりの小さな声が聞こえた。
手を止めて覗き込めば、亜梨栖が重たそうな瞼をゆっくりと開ける。
「あれ……。わたし……」
「おはよう。気持ち良く寝れたか?」
「はい。ちょっとふわふわしますけど、ぐっすり寝れ、て……」
お酒に弱いといっても記憶が無くなる程ではなかったらしい。
悟に絡んだ時の事を思い出したようで、白磁の頬が一瞬で朱に染まった。
「~~~っ!」
「おっと」
思考が真っ白になって体が勝手に動いたのか、あるいは何をしてでも悟から見られたくなかったのか。
亜梨栖が再び悟の胸に顔を埋め、羞恥を逃がすようにぐりぐりと額を当ててくる。
悟の前で寝た時と似たような自爆ではあるが、今回は悟達大人組が注意不足だった事で起きたトラブルだ。
この状況で自分を棚に上げて亜梨栖を揶揄う程、悟は良い性格をしていない。
むしろ、社会人としての甘さを恥じたいくらいだ。
「ごめんな、アリス。俺がもっと注意しておけばよかったな」
「い、いえ、勘違いして飲んだ私が悪いですから」
「それは違う。高校生に勘違いさせるような状況を作った大人が悪いんだよ」
亜梨栖は子供扱いされる事を嫌うが、今回ばかりは許して欲しい。
どこまでいっても、今の亜梨栖は子供――未成年なのだ。
怒られる覚悟をして告げるが、意外にも亜梨栖は「う」と短く声を漏らしただけだった。
「……ごめんなさい」
「だから、アリスは悪くないんだって。謝らないでくれ」
「でも、その……」
「うん?」
何か言いたそうに服を握られたので、一度亜梨栖の背に回していた腕を離す。
真下にある頬を赤く染めた顔には、罪悪感がありありと浮かんでいた。
「…………本当に、ごめんなさい」
「もういいから。ああいう事になるから、酒を飲まないように気を付けような? 俺も気を付けるからさ」
「はい……」
どうやら羞恥は無くなったようだが、何度励ましても亜梨栖が落ち込んでしまう。
これまで自爆した時とは明らかに様子が違っており、どうすればいいか分からない。
少なくとも、こうして励まし続けても亜梨栖の気は紛れないはずだ。
「取り敢えず、風呂を沸かすから入ってくれ」
「あ……」
出来る事ならもう少しくっついていたかったが、風呂の用意などしていない。
華奢な肩に手を当てて距離を取れば、端正な顔が寂しそうに曇った。
ちくりと罪悪感が胸を刺したが、ぐっと堪えて風呂場に向かう。
その途中で重大な事に気付き、足を止めて亜梨栖へと振り向いた。
「よくよく考えるとアリスが酒を飲んじゃったし、浴槽にお湯を張るのは駄目だな」
酔い慣れている悟ですら、家で酒を飲んだ時はシャワーだけで済ませている。
一度だけ亜梨栖が突入してきた時があったが、あれは例外中の例外だ。
ましてや、今の亜梨栖は初めて酒を飲んで勝手が分からないのだ。
そんな彼女が一人で浴槽に浸かるなど、あまりに危険過ぎる。
たった一杯だけであっても、一時間寝た後だとしても、万が一の危険は無くさなければ。
「今日はシャワーだけにしようか」
「もう酔いは覚めてますし、大丈夫です」
「その油断が危険に繋がるんだ。今日は認めない」
「うぅ……。それは、そうですが……」
ソファへと戻って腰に手を当てながら告げれば、痛い所を突かれたという風に亜梨栖が口ごもる。
少なくとも反論する気はなさそうなので、苦笑を落としてキッチンに向かった。
「あの、兄さんは何をするんですか?」
「俺は皿洗いだよ。信之達がある程度片付けてくれたけど、食器は集めるだけだったからな」
「あぁ…………」
酔った状態で何かをするのは慣れているので、皿洗い程度何の問題もない。
悟が家事をしているうちに気分転換がてら風呂に入って欲しかったのだが、亜梨栖の罪悪感を更に刺激したようだ。
途方に暮れたような溜息がリビングから聞こえた。
その後、軽い足音がキッチンへと近付いてくる。
「私も片付けを――」
「今日は俺にさせてくれ。アリスを酔わせた罪滅ぼしだよ」
「そうなりますよねぇ……」
がっくりと肩を落とされたが、家事を変わった程度でここまで落ち込まれるとは思わなかった。
目が覚めてからの亜梨栖の態度があまりにもおかしくて、首を捻って原因を探る。
しかし悟が原因を思いつくよりも早く、亜梨栖が意を決したような表情で口を開いた。
「あの、前と同じように一緒に入りませんか? それならお湯を張ってもいいですよね?」
「そんなに湯船に浸かりたかったのか。……うーん」
前と同じならば亜梨栖はスクール水着を着るはずなので、一応問題はない。
悟の理性が削られるのは、この際諦めるべきだろう。どちらかというと、亜梨栖の気分を変える方が重要だ。
ただ、前とは違って悟達の間には蟠りがない。
暴走する危険もあるので簡単に許可は出来ず、頭を悩ませれば、妙に焦ったような態度で亜梨栖がまくしたててくる。
「一緒に入ってくれれば、今日の事は何も無かった事にします。私も、もう落ち込んだりしませんから」
「……分かった。約束だぞ?」
亜梨栖がきちんと言葉にしてくれた事で、ようやく覚悟が決まった。
念を押せば彼女の顔がホッとした風に綻び、淡い笑顔を見せる。
「はい。ただ、お風呂の準備が出来るまで、部屋にこもっていいですか?」
「もちろん。もし寝てたら起こそうか?」
「多分大丈夫だと思いますけど、その時はお願いします」
ようやく普段の柔らかな空気に戻り、亜梨栖が自室に向かった。
悟も洗い物に集中し、手際よく片付けていく。
「私がワザと飲んだのに、こんな事になるなんて……。穴があったら入りたいよぅ……」
「ん? 何か言ったか?」
「いいえ、何も言ってませんよ」
水音に紛れて小さな呟きが聞こえてきたが、どうやら気のせいだったらしい。
パタリと扉が閉まり、一人となったキッチンで片付けに精を出す悟だった。




