第88話 うっかりからの暴走
昼過ぎから始まった飲みは大盛り上がりし、高校生組を除く全員が酔っている。
もう日が傾いているが、お酒を飲みながらパーティーゲーム中だ。
「美琴! 僕のカード奪わないでよ!」
「ふふー。勝負は非情なの。ごめんなさいね」
「どうして……。どうして私のサイコロは出が悪いの……」
「その、何だ。頑張れ柊」
「お姉ちゃんの運がないのはいつもの事とはいえ、そういう松原さんは毎回ゴール付近に居ますよね」
「兄さんはパーティーゲーム系で謎に運が良いですからね。あ、ゴールです」
「そう言いながらもアリスは俺より運が良いんだよなぁ……」
今日初めて会った美琴と遊んだり、高校生と一緒にはしゃぐ事などそうそう無い。
それだけでなく、会社の同僚や後輩も居るのだ。昔の悟からすれば、絶対に想像出来ない光景だろう。
しかし、昔からの付き合いだと勘違いしてしまう程に楽しい。
「アリスちゃんは強いわねぇ。これで二回連続一位だわ」
「あ、ありがとうございます」
柔らかく笑んで褒めた美琴に、亜梨栖は恥ずかしそうに頬を染めて笑んだ。
ゲーム前も二人でかなり会話を弾ませていたので、亜梨栖からすれば先輩か、あるいは姉のように見ているかもしれない。
何にせよ、亜梨栖が勝った事でゲームが一段落した。
「こういうのも悪くないなぁ」
「ですね。楽しいです」
ソファやリビングの床に座って休憩している信之達を眺めながら、亜梨栖と共に笑い合う。
彼女はこういう事を殆ど経験した事がないはずだが、屈託のない笑顔を浮かべていた。
「……ん。飲みきったな。後は何があったっけなぁ」
「ちょっと待ってくださいね」
自分で取りに行けるのだが、亜梨栖が悟を手で制して冷蔵庫に向かう。
こういう時でも悟を優先する姿に、嬉しさと申し訳なさを混ぜ込んだ笑みを落とした。
「ビールとチューハイ、それにウイスキーもありますけど、どれにしますか?」
「そういえばウイスキーもスーパーで信之が買ったんだっけ。ならウイスキーを頼む」
「了解です。ロックですか? それとも割りますか?」
「こっちにウーロン茶があるし、それで割るよ」
「はーい」
間延びした声を出して、亜梨栖がリビングに帰ってくる。
ウイスキーの瓶を受け取ろうとしたが、悟の手から逃げていった。
疑問に思って首を傾げれば、亜梨栖が茶目っ気たっぷりに笑む。
「私が注ぎますよ」
「……じゃあ頼むよ。ありがとな」
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる亜梨栖に感謝を伝え、配分を伝えた。
ソファ側から生温かい視線が届いたものの、完全に無視する。
そうして出来たウーロンハイを喉に流し込み、幸福感で胸を満たした。
「美味い。ありがとな、アリス」
「いえいえ。気にしないで下さい。私のコップは……っと」
どうやら亜梨栖はウーロン茶を飲んでいたらしく、椅子に座って悟の持っているお酒によく似た色の液体を喉に流し込んだ。
すると亜梨栖が顔を顰め、一度コップから口を離す。
「……ウーロン茶ってこんな味でしたっけ?」
「うん? 何か、微妙に色が薄いような……」
よく見ればウーロン茶にしては色味が薄く、嫌な予感が背筋を這い上がってきた。
テーブルの上をよく見れば、亜梨栖の持っているコップと同じ物が置かれている。
その中身は、悟達が持っている液体より濃ゆい琥珀色だった。
どんどん嫌な予感は強まっていき、リビングで休憩している信之達へ顔を向ける。
「……なあ。この中でウーロンハイを作った人は居るか?」
「私ですよぉ。何か問題がありましたか?」
「美琴さんか。で、グラスはどこに置いてる?」
「えっと、テーブルの上に――。あ」
ようやく事態を把握したのだろう。ふわふわとした柔らかい笑顔が凍り付いた。
折角お酒を割るならと、紙コップではなく普段使わないグラスを渡したのだが、それが裏目に出てしまったらしい。
偶々亜梨栖のコップに類似した物を使った結果、亜梨栖が美琴の作った物を飲んでしまった。
慌てて亜梨栖の様子を確認する。
「あ、アリス、大丈夫か?」
「んく……。んく……。ぷはぁ。このウーロン茶、最初は変な味だと思いましたが美味しいですねぇ」
「あぁ……」
時すでに遅く、亜梨栖はウーロンハイを飲み干した。
大きく肩を落とす悟へ、亜梨栖がへにゃりと緩みきった笑みを向ける。
あまりに無垢で可愛らしく、悟の心臓を容赦なく虐めてくるが、既に悟の心臓は別の理由で早鐘のように鼓動していた。
「……ヤバいな」
今回は亜梨栖が勘違いしただけであり、決して飲むのを促してはいない。
しかし、勘違いだとしても犯罪行為だ。
冷や汗を浮かべつつソファへ視線を戻すと、信之達が一斉に顔を逸らす。
とはいえ一人だけ対応が違っており、原因を作ったからか、美琴が顔に焦りを浮かべて亜梨栖に近付いた。
「アリスちゃん、それは私のなの。本当にごめんなさい」
「そうなんですかぁ? ごめんなさい」
明らかに状況を分かっていないような、のんびりとした口調で亜梨栖が謝罪した。
白磁の頬は僅かに赤みが掛かっており、深紅の瞳はとろみを帯びている気がする。
このままではまずいのだが、かといってどうする事も出来ない。
頭を悩ませていると、美琴が今にも泣きそうな顔で悟へ頭を下げた。
「あ、あの、ごめんなさい松原さん。まさかこんな事になるなんて……」
「いや、美琴さんのせいじゃないから、気にしないでくれ」
「でも……」
「……取り敢えず、お開きにする?」
美琴の頭を信之が撫で、気まずそうな顔で提案した。
もうすぐ日が落ちるので、解散するにはいいタイミングかもしれない。
それに、酔った亜梨栖を介抱しなければ。
「そうするか。じゃあ悪いけど、これで終わりって事で」
「いやいや、油断した僕らも悪いからね。それじゃあ片付けするよ」
「放っておいてもいいぞ。俺がやるから――」
流れで解散になってしまったが、客人達に片付けてもらっては家主失格だ。
テーブルを綺麗にしようとするが、悟のシャツが僅かな、けれど確かな力で引っ張られた。
「お兄ちゃん。私を放っておくの……?」
普段とは違い、昔のような敬語が抜けた口調。
頬は既に真っ赤に染まっており、瞳は不安に揺れて今にも雫が零れ落ちそうだ。
可愛さの暴力のような仕草に、亜梨栖以外の全員が固まる。
「もしかして、これがアリスの素なのかな? 可愛いなぁ……」
「私が悪いんですけど、これはちょっと反則です」
「こんな態度を取られたら、男は一発で駄目になるだろうねぇ」
「……先輩達、こんな関係だったんだなぁ」
呆れるような、微笑ましいものを見るような目が今は痛い。
どうやら悟は動けないようなので、恥を偲んで信之達に頭を下げる。
「……すまん。軽く片付けてくれると助かる」
「任せてください。せめてこれくらいしないと、申し訳がなさ過ぎます」
美琴が率先して動き、テーブルの上は綺麗に片付いた。
食器はシンクに入れてもらい、洗うのは悟になったが、これは仕方ないだろう。
その間、悟は亜梨栖にべったりとくっつかれ、ぐりぐりと肩に頭を押し付けられていた。
「じゃあ帰るよ。楽しかったけど、本当にごめんね」
「すみません……」
「いや、気にしないでいいから」
美琴は未成年を酔わせた罪悪感に、まだ囚われているらしい。
フォローを信之に任せ、ひらひらと手を振る。
「じゃあね、アリス。今日の事は私達の秘密だよ?」
「…………そうして。お兄ちゃんの事をバラしたら、絶交だから」
「うわぁ。可愛いけど怖いなぁ……」
別れの挨拶をした真奈が、子供っぽく頬を膨らませた亜梨栖に引き攣った笑みを浮かべた。
最後に残った佳奈が、悟へと深々と頭を下げる。
「今日はありがとうございました。凄く楽しかったです」
「いや、俺の方こそありがとうだ。こういう風に亜梨栖と過ごせたのは、柊のお陰だよ」
悟が一人悩み続けていては、亜梨栖との蟠りは解けなかっただろう。
けれど、佳奈は信之と共に前に進む勇気をくれた。
一度お礼の言葉は送っているが、改めて感謝の言葉を伝えれば、佳奈の瞳が嬉しそうに細まる。
しかしその中に僅かな羨望と悲しみを混ぜ込んでおり、なぜか胸が締め付けられた。
「先輩の力になれたなら良かったです。それと、お願いがあるんですが……」
「何だ?」
「名前で呼んで欲しいんです。真奈や美琴さんは名前で呼んでるのに、私だけ苗字ですから」
「そういう事か。分かったよ」
美琴は信之と苗字が被り、それは柊姉妹も同じだ。
そして美琴と真奈からは名前で呼んでくれと言われたので、遠慮なく呼ばせてもらっている。
ならば、佳奈も名前で呼ぶべきだろう。
「ありがとう、佳奈」
「……いえ。それじゃあまたです。先輩」
何かを堪えるように眉を顰めた後、佳奈は笑顔で去っていった。
本当ならば皆を玄関まで送るべきなのだが、未だに悟の裾は亜梨栖に捕まれている。
皆、悟が動けないと分かっていたからこそ、リビングで挨拶してくれたのだろう。
せめて鍵を掛けねばと、四人が去った後に玄関へ向かおうとすれば――
「うぅ……」
いつかと同じように、頬をぷくりと膨らませた亜梨栖が、悟の服をしっかりと持っていた。
「お姉ちゃん、本当に良かったの?」
信之達と別れ、妹である真奈と帰っている最中。真奈が気遣わし気に尋ねてきた。
明るくしっかり者の妹に心配させてしまった事が心苦しい。
しかし、佳奈の胸に去来している負の感情はそれだけだ。
「うん、いいの。先輩の隣には、アリスちゃんしか居られないから」
「……その根拠は?」
「私は半年前から先輩にお世話になってた。その時から、先輩はどこか遠くを見ている時があったの」
まるで、決して届かないものを求めるように。心がこの場に無いような雰囲気で。
時折見せる悟の表情から、佳奈ですらある程度事情を把握出来た。
それでも頑張ろうと思ったものの、結果として背中を押す事しか出来なかった。
「多分、アリスちゃんと再会するまで、ずっとそうだったんじゃないかな。だから恋人が出来なかったんだと思う」
悟に自覚はあまりないようだが、彼は非常に容姿が良い。
それでも大学時代に恋人が出来なかったのは、悟に近寄ろうとした人が彼の心に住んでいる亜梨栖の姿を察したからだろう。
ずっと前から、既に悟の心は決まっていたのだ。
「それに、今日二人を見て確信した。あの二人は、ああでなくちゃいけないって」
悟が想い続けた女性がどんな人なのか気になり、今日の件は始まった。
勿論今からその人に勝てるとは思っておらず、半ば自棄ではあったのだ。
そして実際に駅で視線を合わせた際、佳奈は絶対に勝てないと悟った。
誰であっても、何があっても傍から離れる気はない。もし奪うというのなら、どんな手を使ってでも引き留める。
そんな強い意志を込めた瞳に、佳奈は負けを認めてしまった。
それだけでなく、家での二人の姿は理想の関係で、後輩である佳奈との格の違いを見せつけられた。
当然のように傍に居て、当たり前のように助け合う。
初めからそうなる事が決まっていたかのように、お似合いの二人だった。
年齢など些細な問題だと思わせる程の。
「だからいいの。先輩が友人として私と付き合ってくれるなら、それでいい」
辛く、苦しい仕事に耐えるだけだった佳奈を救いだしてくれた、太陽のような人。
そんな人が友人になってくれるのだ。嫌な感情などあるはずがない。
じくじくと痛む胸を無理矢理張って笑顔を浮かべれば、真奈の顔がくしゃりと歪んだ。
「お姉ちゃんは凄いねぇ……」
「凄くなんかないよ。最後にちょっとだけ八つ当たりしたから」
「八つ当たり?」
「うん。わざとお酒を飲んだあの子に見せつけちゃった」
亜梨栖は非常に頭が良く、周囲をよく見ている。
そんな人が、色が似ているというだけで飲み物を間違えるはずがない。
おそらく悟と同じ立場になりたくて酒を飲んだのだろうが、その結果遠慮なく甘えていた。
その姿が羨ましくて、亜梨栖の前で名前を呼ばれるという、みっともない八つ当たりをしてしまった。
亜梨栖に塩を送ったので悟が大変な目に遭うだろうが、後悔などしていない。
すっきりとした気持ちで笑顔を浮かべれば、真奈が呆れた風な顔になる。
「恋は人を変えるんだねぇ……。お姉ちゃんも、アリスも」
「うん、変わったよ。でも、それも悪くない、かな」
踏ん切りをつけ、新たに始まる悟との友人関係。
きっと楽しいだろうなと、ようやく思えたのだった。




