第84話 穏やかな一日
亜梨栖のマッサージをしてから数時間後。
もうすぐ太陽が真上に来るという所で、彼女が自室から出て来た。
頬の赤みは引いているものの、目が合うと気まずそうに逸らされる。
「筋肉痛は大丈夫か?」
「え、ええ、まあ。かなり楽になりましたよ」
一向に視線を合わせず、亜梨栖がソファの反対側に座った。
最近の彼女なら悟との距離を無くすように座るのだが、今日は違うらしい。
ぎこちない空気に、ひっそりと溜息を零す。
(まあ、気まずくなるよなぁ……)
擽ったがりの亜梨栖であっても、先程のマッサージの反応はあまりに過敏だった。
女性との経験のない悟でも、亜梨栖がどんな状態だったのかある程度予想がつく。
いくら悟に手を出される覚悟をしている亜梨栖とて、ああなってしまったのは完全に予想外だったのだろう。
とはいえ蒸し返すのも可哀想だし、謝罪した際に「大丈夫」と言われている。
ならば悟に出来るのは、水に流す事だけだ。
「腹減ってるなら飯にしようかと思ったけど、冷蔵庫に何か残ってたかな……」
マッサージで和らいだとはいえ、亜梨栖の筋肉痛は酷い。
いくら悟の世話を焼きたがっても、今日は料理させないつもりだ。
ソファから立ち上がって冷蔵庫の中身を確認するが、中には殆ど食材が入っていなかった。
「す、すみません。今日は予定がないので、日中に買い物に行けばいいと思ってました」
気まずくても会話はきちんとしてくれるらしく、リビングから追ってきた亜梨栖がへにゃりと眉を下げる。
昨日は激しい運動をすると事前に伝えていたので、一昨日のデート終わりに纏めて買い物をしていたのだ。
その際に何を買うかは亜梨栖に一任しており、彼女としては昨日の夜で食材が切れる計算をしていたらしい。
しゅんと肩を落とす亜梨栖の頭に手を乗せ、軽く、優しく叩く。
無抵抗で受け入れた彼女の頬が、僅かに緩んだ。
「気にすんな。それなら俺が買ってくるよ」
「私も行きます」
「筋肉痛で動きづらいだろうから、無理しなくていいんだぞ?」
「兄さんのお陰で買い物に行けるくらいの元気は取り戻しました。それに、私が言える事じゃありませんが、マッサージしてくれたとはいえ兄さんも筋肉痛なんでしょう?」
「まあ、否定はしないけど……」
亜梨栖のマッサージを出来る程に悟の筋肉痛は軽かったし、そもそもマッサージは肉体的には全く辛くなかった。
なので買い物にも問題なく行けるのだが、彼女としては悟に任せっきりなのが嫌のようだ。
澄んだ瞳が真っ直ぐに悟を見つめる。
「でしたら、荷物を分け合った方がいいと思いませんか?」
「……確かに。じゃあ、一緒に行くか」
出来る事なら家でゆっくりして欲しいが、この状態の亜梨栖は意見を曲げない。
仕方ないなと苦笑しつつ納得すれば、美しい顔が嬉しそうに綻んだ。
「はい!」
亜梨栖の準備を手伝いつつ悟も準備を終え、近くのスーパーへと向かった。
店内をゆっくりと見て回るが、そんな悟のシャツを亜梨栖がずっと摘まんでいる。
「……それ、必要か?」
「駄目、ですか……?」
指摘するつもりはなかったが、どうにも普段と距離が違うのが違和感で尋ねてしまった。
瞳を潤ませ、おずおずと悟を見上げる姿は凄まじく可愛らしい。
このスーパーには何度か亜梨栖と一緒に買い物に来ており、今更彼女と距離を離す必要などない。
それに、手を繋ぐのとはまた違った感覚で、胸が弾むのも確かだ。
しかし、どうにもワザとらし過ぎる気がする。
「このスーパーで星爛の生徒は見た事がないし、駄目って訳じゃないけど――」
「ならいいですよね。やっぱり筋肉痛で辛かったんです」
先程の不安な態度はどこへやら。
一瞬でご機嫌な笑みへと表情を変えた亜梨栖が、くいくいと悟のシャツを引っ張った。
いつもの調子を取り戻した事は嬉しいが、小悪魔ぶりも戻った事に溜息をつく。
「そんな分かりやすい嘘をついてまで、俺のシャツを摘まみたいのか?」
「本当ですよぅ。兄さんが引っ張ってくれるので楽ちんです」
「こんなので引っ張れたら苦労はしないんだよなぁ……」
可愛らしさを詰め込んだ笑顔で、堂々としらばっくれた亜梨栖。
もう指摘する気も起きず、そして少しでも悟と触れ合っていたいという思いも分かる為、彼女の好きにさせた。
そのまま食材を籠に入れてレジへ向かうが、亜梨栖は絶対に悟のシャツを放さず、店員に生温かい目で見られる。
視線に耐えて会計を終え、食材を二つの袋に分ければ、亜梨栖がその内の一つを奪い取った。
「さあ、帰りましょうか」
「……おう」
筋肉痛だったのでは、という指摘が喉まで出かかる悟だった。
「はふー。お腹いっぱいです」
「お粗末様だ」
料理は最初の計画通り悟が行い、食べ終えた亜梨栖が満足そうな溜息を零した。
頬はゆるゆるであり、先程の料理にご満悦らしい。
「半熟卵のオムライス。あんなに綺麗に出来るとは流石兄さんですね」
「久しぶりにやったけど、上手く出来て良かったよ」
時間があったのでケチャップライスも元を買うのではなく一から作ったが、会心の出来だった。
ただ、それは然程苦労しておらず、一番の苦労は半熟のオムレツを作る所だ。
無事成功した安堵と亜梨栖が喜んでくれた嬉しさに、ホッと胸を撫で下ろす。
「それじゃあ、片付けは任せてくださいね」
「おう、頼んだ」
それくらいは出来ると意気込む亜梨栖に任せ、悟は一足先にソファで寛ぐ。
それほど時間を掛ける事なく、後片付けを終えた亜梨栖がすぐ隣へ座った。
今までと同じ太腿が触れ合う距離に心臓の鼓動が早まるものの、同時に落ち着きもする。
亜梨栖が傍に居る事に慣れてしまったのだと自覚し、小さな苦笑が零れた。
そんな悟の気持ちを知ってか知らずか、彼女が悟の肩に頭を乗せ、そのまま膝まで滑り落ちていく。
「……今日はそういう気分か?」
「はい。予定もないですし、ゆっくりしましょう?」
当然のように膝枕されに行った亜梨栖へ、呆れと歓喜を混ぜ込んだ笑みを向ければ、安心しきった笑みが返ってきた。
甘えたがりが出て来た少女の頭をゆっくりと撫でれば、深紅の瞳が気持ち良さそうに細まる。
「昨日、一昨日と外に出てばっかりだったもんな」
「あれも楽しくはありましたが、やっぱり私はこういう風に過ごしている時が一番好きですよ」
「そう言ってくれると助かるよ」
亜梨栖ならば絶対にしないが、休みの度にあちこち連れ回されては疲れてしまう。
それが普段お世話してくれる彼女への恩返しとして、有効なのは分かっている。もちろん、亜梨栖が喜んでくれた事も。
しかし、家で触れ合っている時間が幸せなのだと、これが一番良いのだと言葉と態度で示されて、胸に温かいものが沸き上がった。
少しでもこの温かさを分けたくて、亜梨栖の気持ちを分けて欲しくて、ゆっくりと銀糸を撫でる。
「ふふ。インドア、さいこうです」
「…………だな」
昔とは触れ合う意味が変わったが、それでも変わらないお互いの性格に、二人して笑みを零すのだった。




