第83話 マッサージ
「はふー」
ベッドの上で横になりつつ、亜梨栖が満足そうに息を吐き出した。
美しい顔は満足そうに緩んでおり、とても筋肉痛で倒れていた人とは思えない。
「ありがとうございました。痛みが和らいだ気がします」
「……それなら良かったよ」
蒸しタオルで太腿や二の腕、ふくらはぎを撫でただけなのだが、亜梨栖は艶めかしい声をずっと漏らしていた。
そして動きそうになる亜梨栖を抑える為に、悟は彼女の肌に触れなければならなかった。
もちろん最小限に留めたが、声や肌の感触が理性に悪すぎる。
よく耐えたと内心で自分を褒めつつ、肩を落として苦笑を浮かべた。
かなり疲れが前面に出ていたようで、亜梨栖が体を起こして顔を曇らせる。
「あの、我儘言ってすみません」
「別に怒ってないし、我儘だと思ってもないぞ」
「でも兄さんが疲れてますし、やっぱり自分ですべきでしたね」
悟が素直に言葉にしなかったせいで、亜梨栖が自分を追い込んでしまった。
今から伝えるのは凄まじく恥ずかしいが、かといって誤解されたままでは絶対に駄目だ。
がしがしと頭を掻きつつ、不安に揺れる深紅の瞳を見つめる。
「……疲れてるのはアリスが無防備過ぎて、必死に我慢してたからだ。世話をしたせいじゃない」
「警戒するものなんて無いでしょう? それに何の我慢ですか?」
不安は払拭されたらしく、亜梨栖がきょとんと無垢な顔で首を傾げる。
出来る事なら遠回しな発言で察して欲しかったが、そういう訳にもいかないらしい。
あるいは安堵に胸が満たされて、思考が回っていない可能性もある。
じわじわと羞恥が頬を炙る中、僅かに視線を逸らしつつ口を開く。
「だから、その……。襲わないように、だ」
「おそ、う?」
「おう。声は色っぽいし、肌はすべすべだし、滅茶苦茶リラックスしてるから理性に悪いんだよ。気を付けてくれ」
「へ、へぇ……。そうなんですかぁ……」
蒸しタオルを当てるだけで、醜い欲望を暴露する事になるとは思わなかった。
ようやくどれほど悟を誘惑していたか理解したようで、亜梨栖の頬が真っ赤に染まる。
恥ずかしがって悟を非難するのなら、悟も落ち着きを取り戻す事が出来ただろう。
しかし、悟に手を出される事すら覚悟していると言っていた亜梨栖は、傷付くどころかふにゃりと頬を蕩けさせた。
「我慢しなくて良かったんですよ? 私は、兄さんにならどんな事をされても構わないんですから」
全幅の信頼を乗せた甘い蜜のような声と表情が、悟の理性を容赦なく揺さぶる。
心臓はとっくの昔に早鐘のように鼓動しており、頬が凄まじく熱い。
このまま覆い被さっても亜梨栖は喜んで受け入れると確信しつつも、ぐっと奥歯を噛んで我慢する。
「筋肉痛の相手に状況を利用して手を出すって鬼畜過ぎるだろ。だから我慢してたんだ」
「兄さんならそう言うと思ってましたよ。というか、こんな状況じゃなくても絶対に手を出さないでしょうに」
「……まあ、そうだな」
微妙に呆れた視線を受けて、何も否定出来ずに肩を竦めた。
ある意味では据え膳だと分かっていても、まだ手を出すには早いのだ。
亜梨栖もそんな悟の面倒くさい性格を十分に分かっており、仕方ないなという風にくすりと笑みを零す。
「ホント、優しいんですから。でも、兄さんが私を嫌々お世話していなかったのが分かったので良しです」
「俺が亜梨栖のお世話を嫌がる訳がないだろ」
理性が大変になる事はあれど、嫌だと思った事は一度もない。それは、先程の筋肉痛の処置もだ。
さらさらの銀糸を一撫ですれば、深紅の瞳が意地悪気に細まった。
「では、もっと筋肉痛のケアをしてもらいましょうかね」
「いや、蒸しタオルはもう無いんだが?」
「別に蒸しタオルだけがケアだけじゃないでしょう?」
「……何が望みだ?」
にまにまとした笑みを端正な顔に浮かべている所から察するに、明らかに悟の理性が虐められるだろう。
背筋に嫌な汗を流しつつ尋ねると、艶やかな唇がゆっくりと動きだした。
「マッサージ、して欲しいです」
「どうせそんな事だろうと思ったよ……」
筋肉痛のケアとして一般的に思い浮かべるのは、蒸しタオル以外だとそれしかない。
そしてマッサージとなると、先程とは比べ物にならない程に亜梨栖の肌へ触れてしまう。
もちろん、亜梨栖もそれを分かっていて提案したはずだ。
肩を落としつつ、最後の抵抗を試みる。
「どうなっても知らないぞ?」
「今更そんな事聞きますか? 残念ですが、私には効きませんよ。むしろ、兄さんをもっと誘惑しちゃいます」
くすくすと軽やかに笑いつつ、亜梨栖が再び横になった。
悟を見上げる美しい瞳が、幸せそうに細まる。
「こうして私から体を委ねるのも、触らせるのも、兄さんだけですよ。他の誰にも出来ない事です。特に男性に関しては、兄さん以外は死んでもごめんですね」
友人である真奈に関しても、亜梨栖は自ら進んで体を触らせようとしない。
あくまで、真奈が接触してくるから許しているだけだ。
そして男性に関しては、亜梨栖は悟以外を絶対的に拒否する。
悟の独占欲を満たす彼女の発言に、勝手に頬が緩んでしまった。
「そうしてくれ。アリスの肌に触れていいのは、俺だけだ」
「ええ。ですから、たっぷり堪能してくださいね?」
はにかみにも似た色気ある笑みに理性を揺さぶられつつ、まずはふくらはぎに手を伸ばす。
筋肉痛の個所を思いきり揉んでは、ただ痛みを酷くするだけだ。
ゆっくりと、壊れ物を扱うように力を込めていく。
「ん……。ふ……。ぅ……」
擽ったいのか、気持ち良いのか、亜梨栖が小さく声を漏らした。
蒸しタオルで肌を撫でた時よりも数段艶めかしい声に、悟の理性が炙られていく。
柔らか過ぎるふくらはぎの感触が、これでもかと女性らしさを叩きつけてくるのも、それに拍車を掛けている。
固く、決して解けないように理性を縛り、次は太腿へ。
ショートパンツの部分はいくらなんでも触れないし、内太腿も同じだ。
なので外側に触れるものの、暴力的な程に柔らかい。
「ひあっ!?」
マッサージしてくれと懇願したが、擽ったがりの亜梨栖にはこれだけでも辛かったようだ。
短い悲鳴を上げ、体を跳ねさせた。
「止めるか?」
「い、いえ、大丈夫です。お願いします」
深紅の瞳は潤み、白かった頬は既に真っ赤になっている。
しかし亜梨栖の顔には嫌悪の感情など浮かんでおらす、むしろ期待に彩られていた。
そんな顔を見せられては、「理性の限界だから止めよう」とは言えなくなる。
どくどくと心臓の鼓動がうるさい中、悟の理性を殴る太腿に指を這わせた。
「ぁ……。んっ……」
大した力は込めていないが、亜梨栖は小さく声を上げ続ける。
悟に聞かせたくないのか枕に顔を埋めるが、くぐもった声になって余計に駄目な事をしている気になった。
「そ、れ、きも、ち……。ぁ……。だ、めぇ……」
マッサージなのだから、気持ち良くなって当たり前だ。そうでなければ意味が無い。
頭ではそう理解していても、艶のあり過ぎる声に思考が茹っていく。
「にい、さ、ん。うち、がわ、もぉ……」
「…………いいんだな?」
「は、いぃ……。ひうっ!?」
触れては駄目だと訴える理性は蒸発してしまった。
催促されるまま内太腿を揉めば、びくりと亜梨栖が体を跳ねさせる。
それが何だが面白くて、黒いものが胸に沸き上がり、唇の端が吊り上がった。
感情のままに、けれど痛くしないようにとなけなしの理性で気遣いつつ、亜梨栖の太腿を揉んでいく。
「あ、やぁ……。だめ……。それ、きもちよく、てぇ……」
「ならいいだろ。もっと気持ち良くなってくれ」
「でも、これ、きもち、よすぎ……。や、なんか、くる……」
「……」
「にい、さ……。にい、さん……。ふあっ!?」
亜梨栖が一段と高い悲鳴を上げ、激しく体を跳ねさせた。
その様子に思考が少しだけ冷え、恐る恐る亜梨栖の顔色を窺う。
「あ、アリス、大丈夫か? ごめんな、やりすぎたよな」
「………………ふぇ?」
余程気持ち良かったのか、亜梨栖の頬は薔薇色に染まっており、目の焦点が合っていない。
声を抑えるのに必死だったようで、唇の端からよだれが垂れていた。
普通ならばはしたないと思うはずだが、今の悟にとっては蠱惑的に映る。
「らいひょうぶ、れす。きもひ、よかった、のれ」
舌っ足らずで蕩け切った声と、ゆるゆるの頬。
荒い吐息が悟の耳朶を打ち、無理矢理体の熱を引き摺り出された。
勝手に動こうとする手を根性で抑え、立ち上がって亜梨栖に背を向ける。
「そ、そうか。じゃあマッサージは終わりだ。俺、リビング行ってるから!」
亜梨栖の反応を確認する事なく、彼女の部屋から退散した。
ソファに座り、がっくりと項垂れる。
瞼を閉じても、女性の色気を全力で叩きつけるような姿がハッキリと思い出せた。
「あっぶねぇ……。あんなの反則だろ」
あと少しでも亜梨栖の傍に居れば、悟は理性を失っていただろう。
これからはマッサージを控えようと思いつつ、手で顔で顔を仰いで熱を逃がすのだった。




