第82話 筋肉痛
ゴールデンウイーク四日目は静かな目覚めだった。
時刻を確認すれば十時を過ぎており、いつもならとっくに亜梨栖が起きている。
しかしリビングからは物音がせず、そもそも彼女が悟を起こしに来ていない。
「んー! 久しぶりの運動で体が痛いなぁ……」
思いきり背伸びをすれば、体のあちこちが引き攣るような痛みに襲われた。
普段はデスクワークで体を動かさないからか、久しぶりの運動で悲鳴を上げているらしい。
とはいえ動けない程ではなく、体の調子を確かめつつリビングへ向かう。
「リビングにも居ない、と。まさか、アリスも俺と同じなのか?」
昨日の帰ってきてからの様子を見る限り、疲れてはいるがダウンする程ではなかったはずだ。
けれど、昨日は悟へのご褒美を与える為に無理をしていた可能性がある。
あるいは、今日になって痛みが酷くなったのかもしれない。
「取り敢えず、確かめないとな」
もし悟の予想が合っているのなら、寝かせておいた方が良いだろう。
仮に寝ていたとしても、悟は怒るつもりなどないし、その資格もない。
何にせよ、亜梨栖の状況は正確に知っておくべきだ。
「アリス、起きてるか?」
彼女の部屋をノックし、まずは扉越しに様子を窺う。
反応が無いのならもう少し放っておこうかと思ったが、小さく「はい」という声が聞こえた。
「部屋に入ってもいいか? 駄目ならリビングに居るけど」
「大丈夫に決まってるじゃないですか。どうぞ」
普段の涼やかな声とは違い、今の亜梨栖の声には覇気がない。
予想を確信に変えつつ、彼女の部屋に入る。
シトラスの匂いが強く香り、悟の心臓が僅かに鼓動を早めた。
しかし動揺している場合ではないと気を引き締め、ベッドへ向かう。
すると、ブランケットを腹に掛けてだらりと寝そべっている亜梨栖がいた。
「おはよう、アリス」
「おはようございます、兄さん」
へにゃりと緩んだ笑顔を見せてくれたが、やはり亜梨栖の顔には元気がない。
彼女の性格上、悟が部屋に入ると体を起こしそうなものだが、そんな素振りもなかった。
ベッドの縁に腰を下ろせば、端正な顔が申し訳なさそうに曇る。
「ごめんなさい、起こしに行けませんでした」
「気にすんな。体はどうだ?」
「……滅茶苦茶痛いです」
悟も亜梨栖も普段運動をしないが、そもそもの筋肉量が違い過ぎる。
運動が出来るのと筋力があるのは別の話だ。
そのせいで、悟よりも筋肉痛が酷いらしい。
あるいは筋肉痛が久しぶり過ぎて慣れず、体を動かせないのかもしれない。
それでも悟へ触れようと真っ白な手を伸ばされたので、悟も手を伸ばして彼女の手を握る。
悟の温もりが伝わって安心したのか、亜梨栖の顔が和らいだ。
「そこまで痛いなら、昨日の時点でキツかったんじゃないか?」
「兆候はありましたよ。でも、ここまで酷くなるとは思わなかったんです」
「無理するな――って言っても今更だな。じゃあ今日はゆっくりしてくれ」
「はい。すみませんが、甘えさせてもらいますね」
まだゴールデンウイークの真ん中だ。それに、もう激しい運動は計画していない。
たっぷり休んで欲しいとさらさらの銀髪を撫でれば、深紅の瞳が嬉しそうに細まった。
「兄さんに撫でられると、筋肉痛も無くなりそうです」
「俺にそんな力はないから、気分だけになるけどな。それでもいいなら堪能してくれ」
「それで充分ですよ。ところで兄さんは平気なんですか?」
「俺はそれなりだな。アリスほど苦しくないから、こうして起こしに来たんだよ」
「……男女の差ってやつですか。ずるいです」
「諦めるんだな」
納得いかなさそうに、亜梨栖が繋いでいる手に力を籠める。
握力も酷使したのか「あう」と短い悲鳴を上げてすぐに止めたが。
ここまで筋肉痛が酷いと、頭を撫でたり手を繋いだりするだけでは、気を紛らわせる事も出来ないだろう。
何かしてあげられないかと繋いだ手を離し、スマホを弄り始める。
一瞬だけ亜梨栖の顔が悲しみに彩られたが、安心させるように頭を撫でれば、すぐに彼女の表情が和らいだ。
「お、いいのが見つかった」
「何か探してたんですか?」
「筋肉痛を和らげる方法がないかって調べてたんだよ。今、アリスは体が熱いとかはないか?」
「え、えっと、それはないですね。単に動かすと痛いだけです」
「ふむ。なら冷やすのは無しだな」
熱を持つ程に酷いなら問題だったが、そこまで酷くはないらしい。
戸惑いつつも状況を答えてくれた亜梨栖の頭に触れ、感謝を伝えるように撫でてから立ち上がる。
悟の温もりがなくなったからか、彼女が名残惜しそうに悟を見上げた。
「大丈夫だ。すぐ戻ってくるよ」
「……ごめんなさい」
「何謝ってるんだよ。アリスは俺に甘えればいいんだって」
「う……」
昨日亜梨栖に膝枕されたのは最高だったし、甘えるのも悪くはないと思えるようになっている。
しかし、彼女に甘えて欲しいという気持ちも本物だ。
しゅんと眉を下げる亜梨栖に笑みを零し、一度部屋を出る。
何枚かタオルを水に濡らし、固く絞って電子レンジへ。
数分待つと、蒸しタオルの完成だ。
「ただいま、アリス。いいもの持ってきたぞ」
「タオル、ですか?」
「ああ。筋肉痛が酷い所に当てるといいんだってさ。ほら」
「……」
蒸しタオルを差し出すが、亜梨栖はなぜか受け取らない。
それどころか、眉根を寄せて何かを考え始めた。
嫌な予感に背筋を震わせれば、亜梨栖が期待に目を輝かせて悟を見つめる。
「でしたら、兄さんが当ててくれませんか?」
「流石にそれは駄目だと――」
「筋肉痛が酷くて動けませんー。あー、自分でやるのも辛いなー」
これ見よがしに悟の声を遮り、ちらちらとこちらへ視線を向ける亜梨栖。
蒸しタオルを当てるだけとはいえ、筋肉痛の場所はふくらはぎや二の腕等だと思うので、悟が触れては駄目な気がする。
しかし、布団の上から動きたくない程に亜梨栖が辛いのは確かだし、甘えてくれと言ったのも確かだ。
駄々を捏ねて意見を聞かない亜梨栖に溜息を零し、肩を竦める。
「分かった分かった。肌に触れるけど怒るなよ」
「そんな事しませんよぉ。それじゃあお願いしますね」
ご機嫌な笑みを浮かべた亜梨栖が、ベッドの上でうつ伏せになった。
ショートパンツから見える柔らかそうな太腿や、眩しい白さの二の腕が悟の理性を揺さぶる。
暴走する訳にはいかないと気を引き締めつつ、まずは太腿に蒸しタオルを乗せた。
「んっ……」
突然温かなものが触れたからか、亜梨栖の体がぴくりと跳ねる。
「熱くないか?」
「いえ、ちょうどいい感じです」
「よし、拭いていくからな」
筋肉痛の場所は蒸しタオルを乗せただけで覆う事は出来ず、ゆっくりとタオルを動かしていく。
亜梨栖の足を固定する為にふくらはぎを抑えたが、恐ろしい程に柔らかかった。
あまりにも滑らか過ぎてずっと触っていたくなるものの、欲望を抑えてタオルで患部を拭く。
「はぁ……。気持ちいいです……」
亜梨栖の口から安堵の込められた声が漏れた。
体の力は完全に抜けており、無防備な姿を見せている。
「もっとぉ、もっとしてください」
亜梨栖は単に蒸しタオルの感触が心地良いから、催促しているだけのはずだ。
しかし彼女の声が妙に艶っぽく、体を揺らすせいで誘っているように見えてしまった。
もちろん亜梨栖にそんなつもりはないだろうが、だからこそ理性に悪すぎる。
「……おう」
元は悟が率先して調べた事から始まったはずなのに、なぜか追い詰められているのだった。




