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第80話 運動後

「はー。遊んだ遊んだ」


 二回目のデートを終え、悟達は早めに帰ってきた。

 まだ日は登っているものの、十分に楽しめたと達成感で胸を満たし、息を吐き出す。

 亜梨栖ありすも満足してくれたらしく、からりと晴れ渡った空のような笑みを見せた。


「ですね。私からすると一年分くらいは遊んだんじゃないでしょうか」

「……まあ、喜んでくれたなら良かったよ」


 学校の授業では、どうしても屋外でやらなければならないものもある。

 昔よりも選択制の授業は増えただろうが、それでも亜梨栖は一年間で半分かそれ以下の回数しか授業に参加できないはずだ。

 元々あまり運動する性格ではないので少しだけ不安だったが、彼女の反応に胸を撫で下ろす。


「それで、まだ飯には時間があるし、汗を流したらどうだ?」

「確かに。着替えの時にケアはしましたが、兄さんの前で汗を掻いた肌を晒すのは遠慮したいです」

「そこまで真剣にならなくても……」


 好きな人の前では汗を掻いたままでいたくないという、乙女心の現れなのだろう。

 悟もきちんと拭きはしたが、肌のべたつきはどうしてもあるので、このまま普段のようにくっつくのは避けたい。

 ただ、亜梨栖は眉根を寄せて本気で悩んでいるので、余程このままでいるのは嫌のようだ。

 苦笑しつつ肩を竦めれば、亜梨栖が顎に手を当てて悩みだす。


「……」

「どうした? もしかして気を悪くしたか? それならごめんな」

「いえ、そういう訳ではありませんよ。兄さんはどっちの方がいいのかと思いまして」

「どっちって、どっち?」


 亜梨栖の中では何かを二択に絞ったらしいが、悟にはさっぱりだ。

 首を捻ると、彼女が気恥ずかしそうに頬を淡く染めておずおずと口を開く。


「ですから、私が汗を掻いたままの方が好みなのかなと。そうなると、頑張ってケアしたのも失敗だったかもしれません」

「……そんなの、汗を掻いていない方が良いに決まってるだろ」


 女性にとって、運動後のケアは大変なもののはずだ。

 悟が選んだ事で更に彼女は気合を入れて汗を掻かないようにし、例え掻いたとしても必死にケアするに違いない。

 亜梨栖の負担を強いる事には胸が痛むが、かといって「汗を掻いたままでも良い」というのは変態の発想だ。

 断言するのは迷ったがそれでも口にすれば、亜梨栖の瞳が楽しそうに細まる。


「今、ちょっと迷いましたね? 私は兄さんが特殊な性癖を持ってても大丈夫ですよ? 遠慮しないでくださいね」

「違う! アリスの行動を制限するみたいで嫌だっただけだ!」

「そ、そうですか。それは嬉しいですけど、本当に汗を掻いてない方が良いんですね? それ以外の他意は無いと?」


 悟の言葉が嬉しかったのか、亜梨栖が唇の端を緩めつつ提案してきた。

 正直なところ、彼女が汗を掻いていようと構わない。

 それに、今日の運動中はどうしても亜梨栖との距離が近くなる事があり、その際に汗の匂いが香った。

 亜梨栖本来のシトラスの匂いに汗が混じったものは、男の欲望を掻き立てるようなものだったのだ。

 悪くないどころかむしろ良かったが認める事は出来ず、返答に詰まってしまう。


「………………もちろん」

「へぇ……」


 亜梨栖が悟へと近付き、手を伸ばせばすぐに触れられる距離で悟を見上げる。

 透き通った紅の瞳は、悟の本心すら見透かしてしまいそうで、背筋が寒くなった。

 けれどここで目を逸らしてしまえば、先程の発言が噓だと認める事になる。

 動きそうになる視線を必死に固定していると、亜梨栖がはにかみにも似た色気ある笑みを見せた。


「では、そんな兄さんをちょっと誘惑してみましょうか」


 弾んだ声を出しつつ、亜梨栖が距離を更に縮める。

 あっさりと悟達の距離はゼロとなり、悟の胸に亜梨栖が顔を埋めた。


「いや、何してるんだよ!」

「こうすれば、私の匂いを嗅ぎやすいかなと。まあ、今日は既にケアした後ですが、完全に無くなった訳ではないですからね」

「嗅ぐなんて一言も言ってないが!?」 

「そうですか、つまり不戦勝ですね。兄さんは試す度胸もない臆病者でしたか」


 すぐ真下の亜梨栖が、やれやれと言わんばかりに呆れた表情を見せる。

 これは悟を乗せる為の煽りだと、頭では分かっているのだ。

 しかしここまでされたのなら、いっそ誘いに乗る方が良いのではないか。

 匂いを嗅がれる恥ずかしさを思い知らせて、こんな事を止めさせた方が良いだろう。

 ふわりと香るシトラスの匂いに心臓が跳ね、覚悟を決めて華奢な肩を掴む。


「よし分かった。それなら、俺の気の済むまで嗅がせてくれるんだろうな?」

「ええ、良いですよ。代わりに、包み隠さずに感想を言う事。約束出来ますか?」

「約束する。それじゃあ、やるからな」

「はい。たっぷり堪能してくださいね」


 日に焼けていない頬が真っ赤に染まっているので、羞恥を感じている事は確かだ。

 それでも、最後の確認に亜梨栖は大きく頷いた。

 もう遠慮する必要はなく、亜梨栖の背に腕を回し、銀色に輝く髪に顔を埋める。

 普段髪の手入れをしている際に嗅いでいる甘い匂いの中に、ほんのりと汗の匂いがした。

 それは悟の体に熱を灯し、心臓の鼓動を早めてしまう。


(ここで反応したら、負けを認めてしまう。絶対に抑えるんだ)


 必死に体の熱を静めつつ、今度はうなじへ。

 汗を掻いたせいでしっとりとした肌に鼻を当てれば、小さな体がぴくりと跳ねた。


「んっ……」

「我慢しろよ? 好きにしていいって言ったのはアリスなんだからな?」

「分かっ、て、ます。ちょっと、くすぐったい、だけです」


 吐息が当たるだけでもくすぐったいようで、妙に艶めかしい声が耳朶を打つ。

 その声が悟の思考をゆだらせ、欲望のままに息を吸い込んだ。

 先程よりも強く汗が香り、そして亜梨栖本来の匂いも濃ゆい。

 理性を溶かす匂いに、溺れてしまいそうだ。


「あ、そっか。この体勢だと……」


 亜梨栖が何かを呟き、もぞもぞと体を揺らす。

 うなじが離れてしまうのが勿体なくて、しっかりと彼女の体を抱き寄せた。


(……これ、ヤバいな)


 悟は別に特殊な性癖など持っていない。そのはずだった。

 けれど、亜梨栖の匂いに目覚めてしまいそうになる。

 もう十分に堪能したので、離さなければならない。

 そう思っても、思考とは反対に腕は彼女を抱き締めたままだ。


「すぅ……。はぁ……。兄さんの、匂い……」

「…………え?」


 体の熱を抑えきれなくなりそうだったが、耳元で発せられた熱を帯びた声に頭が冷えた。

 よくよく考えると、悟が亜梨栖のうなじに顔を寄せているのだから、逆も出来る。

 そして先程の呟きからすると、亜梨栖も悟の匂いを堪能しているらしい。

 自分は散々嗅いでいるのに、嗅がれると急に恥ずかしくなって、勢いよく体を離した。


「にい、さん?」


 何が起きたか分からない、と言いたげに亜梨栖がこてんと首を傾げる。

 深紅の瞳にはどろりとした感情が渦巻いており、頬は色っぽく上気していた。

 女性の色気をこれでもかと香らせる姿に、どうしようもなく胸が高鳴る。


「終わりだ。……ぶっちゃけ悪くなかったし、むしろ汗を掻いても良いと思ったぞ」

「じゃあ、もっと嗅いでいいですよ? ほら」


 あまりにも恥ずかしいが、約束は守らなければならない。

 頬を掻きつつ告げれば、熱に浮かされたような微笑で亜梨栖が大きく腕を広げた。

 瞳の奥には明らかに欲望が見えている。


「……流石に変態っぽいからやめとく」

「変態でも、いいじゃありませんか。どうせ私達しかいませんし、ね?」

「駄目なものは駄目! ほら、シャワー浴びてこい!」


 亜梨栖の肩を掴み、強引に脱衣所へと向かわせた。

 あのまま彼女の望みを叶えていれば、間違いなく悟は理性を失っただろう。

 ソファ座って体の熱を逃がしていると、扉の向こうから声なき悲鳴が上がった。


「~~~! ―――!」


 バタバタと暴れるような音がしているので、亜梨栖も冷静になったようだ。

 誘惑を忘れて悟の匂いを堪能した事を思い出し、羞恥に悶えているに違いない。

 あの様子を見る限り、悟の汗の匂いを嗅ぐのにも抵抗はないようだが、それを喜んでいいのか分からない。


「ああいうのはやめよう。理性に悪すぎる……」


 何も起きなくて良かったと胸を撫で下ろしつつも、自らの特殊な性癖に大きく肩を落とすのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] なんだ、ただの似た者夫婦か( [一言] そりゃ小さい頃から一緒に育ってたことを考えると趣味嗜好は似ますよねぇ(違 確か異性の匂いが嫌ではないというのは相性がいい証拠とか言われてますしね。結…
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