第77話 おしおきとごほうび
真奈が亜梨栖を弄ったり、再び悟と真奈が会話に花を咲かせていると、気が付けば夕方になっていた。
帰り支度を終えた真奈が、玄関で亜梨栖へと手を振る。
「それじゃあまたねー!」
「はい。それでは」
「松原さんも、また!」
「ああ、いつでも来ていいからな」
「ありがとうございます! 失礼しますね!」
真奈は悟達の事情を知っているし、亜梨栖のかけがえのない友人なのだ。今更来るのを拒否する理由はない。
歓迎の言葉を送ると、真奈は溌剌とした笑みを浮かべて去っていった。
リビングに戻るが、先程まで騒々しかったからか妙に静かに感じる。
「台風のような子だったなぁ」
「……そーですね」
拗ねがこれでもかと込められた声の方を向けば、亜梨栖が唇に小さく山を築いていた。
やはりというか、真奈と共に亜梨栖の話題をした事が不服だったらしい。
慰めの為に頭を撫でようとしたのだが、するりと躱されてしまった。
そして、深紅の瞳が不満たっぷりに悟を見上げる。
「むー」
「悪かったよ。でも、俺の知らないアリスを知りたかったんだ。」
「学校での私なんて、知らなくていいじゃないですか」
「そうもいかない。真面目な話だと、俺はアリスの保護者代わりだからな。状況は知っておくべきだろ」
「……では、真面目じゃない話だと?」
「俺以外の男子にも、俺と同じように接してるのかなって。だったら嫌だなって思ったんだ」
建前上の理由はあったが、何よりも悟の内に潜む醜い本心の方が大きい。
亜梨栖は昔から悟以外に心を開いていなかったものの、今は周囲の男とどう接しているのか分からなかった。
一応、悟以外お断りとは態度や言葉から分かるし、亜梨栖が他の人に靡くとも思わない。
それに、建前や表面上で柔らかく接するのが、世間を渡るのに大切だという事も分かっている。
しかし、それでも気になるのが人間というものだ。
亜梨栖を虐めるつもりはなかったが、結果として虐めてしまったお詫びにと正直に告げた。
悟の欲望を受け、亜梨栖の機嫌があっさりと直る。
「大丈夫ですよ。こうして傍にいるのも、笑っているのも、兄さんの前だけですから」
淡く頬を紅潮させ、緩んだ口元をそのまま曝け出した笑みはあまりにも魅力的だ。
心臓の鼓動が早まり、真奈から聞いたものの、改めて口にされた事で安堵が胸を満たす。
「分かってる。柊も『アリスは男子に愛想良くない』って言ってたもんな」
「当たり前じゃないですか。まあ、完全に突き離すとややこしい事になるので、程々にしてますがね。……そのせいで寄ってきたり、告白されたりしますが」
「美人ゆえの悩みってやつだな」
「ですね。でも、そんなにさらっと褒められると困ります」
「事実だろうが」
何度か亜梨栖の容姿は褒めているし、彼女とて自分の容姿がどれほど優れているかは自覚している。
頬を僅かに染めて眉根を寄せる亜梨栖に肩を竦めつつ告げれば、頬の赤みが濃くなった。
「あ、ありがとうございます。やっぱり、兄さんに褒めてもらうのが一番嬉しいですね。むしろ唯一と言っていいかもしれません」
「……そうしてくれると、俺も助かる」
とろりと蕩けたようなはにかみが、容赦なく悟の理性を揺さぶる。
今まで殆ど口にしなかった独占欲が満たされ、唇が弧を描いた。
このまま見つめ合っていると悟の頬にも熱が灯りそうで、亜梨栖から顔を逸らしてソファに座る。
いつもなら彼女がすぐ隣に来るのだが、軽い足音が悟の後ろで止まった。
「アリスは座らないのか? 何だかんだで疲れた――」
「えいっ」
まだ晩飯には少し早く、ゆっくりする時間はある。
なので亜梨栖と一緒に寛ごうと思ったのだが、軽い掛け声が耳に届き、首に細い腕が巻き付いてきた。
唐突な悪戯に、思わず体が固まってしまう。
「あ、アリス? 何してるんだ?」
「何って、おしおきですよ。私の事を勝手に知ろうとした、おしおき」
亜梨栖が首を絞める力を強め、悟の耳元で囁くように告げた。
機嫌が直ったと思っていたが、全てを許してはくれなかったらしい。
吐息が耳に掛かり、ぞくりと背筋が震えた。
「いや、アリスに聞いても詳しく答えてくれなかったじゃないか」
「私にとっては兄さんとの生活の方が大切なんです。だから詳しく答えなくてもいいでしょう?」
「そうかもしれないけどさぁ……」
声色が柔らかいので、許してくれてはいないが、かといって激怒もしていないのも分かる。
とはいえ、このまま放っておくのも駄目だ。
どうやって許してもらおうかと溜息をつけば、亜梨栖が悟と頬をくっつけてすりすりと擦らせた。
「まあ正直なところ、そんなに怒ってはいないんですよ」
「じゃあ、どうしてこんな事したんだよ」
「……柊さんとすぐ仲良くなってましたので、楽しそうだなぁ、と」
耳のすぐ傍から発せられた声には、強い拗ねの感情が込められていた。
おそらくだが、亜梨栖についての話であっても、悟が真奈と盛り上がった事が面白くないのだろう。
もしくは、亜梨栖を放っておいたので寂しかったのかもしれない。
可愛らし過ぎる感情のぶつけ方に、悟の頬が弧を描いた。
「何だそれ。柊はあくまで友人だろ?」
「そうですけど、そうですけどぉ……」
「分かった分かった。ごめんな、アリス」
亜梨栖とて悟が真奈に友人としての情しか抱いていない事は分かっている。
しかし、感情というものは簡単に納得が出来ないものなのだ。
ぐりぐりと頬を押し付ける亜梨栖の頭を、彼女側とは反対の手で撫でる。
「うぅ……。子供扱いしないでください……」
「そういう訳じゃない。アリスは可愛いなって思っただけだ」
「兄さん、いじわるです」
「そんな事ないって」
羞恥に染まった声から察するに、今の亜梨栖の頬は真っ赤だろう。
それでも逃げず、悟へと顔を押し付ける亜梨栖が愛おしくて、何度も何度も彼女の頭を撫でた。
何だかんだで気持ちいいのか、亜梨栖も撫でられるがままになっている。
「……ん。満足しました」
暫くすると、落ち着いたのか亜梨栖の頬が離れた。
とはいえ、再び彼女の腕が悟の首に絡みついてきたのだが。
いい加減離してくれないかと聞こうとしたのだが、顎を頭に乗せられた。
「次は何だよ」
「これですか? 兄さんへのお礼です」
「お礼を言われる事なんて何もしてないんだが。というか、これの何がお礼なんだ?」
「兄さんが独占欲を見せてくれた事への、ですよ。それと、惚けなくても分かってるんじゃないですか?」
「…………分からないな。離してくれ」
普段は悟が殆ど独占欲を見せないからか、それが嬉しいようだ。
受け入れてくれた事は嬉しいものの、今すぐに体を離して欲しい。
惚けつつ懇願するが、腕の力が強まった。それと同時に、後頭部に当たっている物も悟との密着を強める。
「これでも分かりませんか? さっきよりも当ててるんですが」
「口にしたら、離してくれるのか?」
「いえ、しませんよ? 単に感想を聞きたいだけです」
「畜生! やっぱりそうかよ!」
必死に意識から外そうとしていたのだが、このまま知らんぷりは出来ないらしい。
早く言って欲しいのか、亜梨栖が楽し気に体を揺らした。
そんな事をすれば、むにむにと後頭部に当たるものが歪んでしまう。
「ほらほら、どうですか? 所謂当ててるんですよ、というやつです」
「アリスなら自信満々に言えるけど! そういうのは駄目だって!」
「これが駄目で、兄さんが感想を言わないなら、もっと直接的な言葉を使うしかないですねぇ……。女子高生のお――」
「すみません、滅茶苦茶良い感触です」
女子高生に背後から抱き締められ、大きめの母性の塊を押し付けられる。そんな機会など普通の社会人には訪れない。
状況をはっきりと言葉にされると羞恥に限界が来そうで、覚悟を決めて感想を口にした。
頬が火傷しそうな程に熱く、顔を俯けると、くすくすと軽やかな笑い声が耳に届く。
「それでいいんですよ。たっぷり味わってくださいね」
「……どうせ逃げられないし、そうさせてもらおうかな」
どれだけ抵抗しても、亜梨栖は離れようとしないはずだ。
それに恥ずかしくはあるものの、この感触を堪能したいという思いも確かにある。
そんな悟の内心を亜梨栖は正確に見抜き、免罪符を作ってくれたのだろう。
彼女に内心で感謝しつつ、男を狂わせる感触に溺れるのだった。




