第68話 たった数週間で変わった気持ち
「ただいま」
昼飯と晩飯の材料を買ってきて、誰も居ない家に声を響かせる。
つい癖で言ってしまう程に挨拶をするのが当たり前になっていたのだと、口にしてから気付いた。
胸がきゅっと締め付けられたものの、すぐに亜梨栖は帰ってくるのだ。
寂しがる必要などないと気持ちを切り替えてキッチンへと向かう。
冷蔵庫に食材を入れて部屋着に着替え、リビングのソファに腰を下ろした。
「……何か、家が広いな」
リビングには亜梨栖の私物も増えているが、それでも細々としたものばかりだ。
なのに今は妙に部屋が広く、寒く感じる。
亜梨栖が居ない事に違和感を覚えてしまっているのを改めて実感し、くすりと笑みを零した。
「約一ヶ月過ごしただけなのになぁ」
後一週間と少しで四月は終わる。
それは同時に、亜梨栖がこの家に引っ越してもう一ヶ月が経つという事だ。
あっという間に過ぎ去った日常が、思い返せば驚く程に心地良かった。
それこそ、一人で居る事が苦痛な程に。
「……でも、俺は何も出来てない」
お試し期間を終えてもある程度の接触はしたし、悟から触れる事も多くなった。
しかし、それだけで亜梨栖に今の悟を好きになってもらえるとは思えない。
平日は仕事があって家でしか触れ合えず、休日はお互いにインドア派なので出掛けていないというのは確かだが、言い訳にもならないだろう。
もちろん、そんな状況であっても亜梨栖は真正面から好意をぶつけてくれている。
今すぐに想いを伝えても、彼女は受け入れてくれるはずだ。
そう思っても伝えられないのは、悟の我儘でしかない。
申し訳なさで俯きそうになる顔を上げる為に、両頬を叩く。
「なら、いい加減何とかしなきゃな」
亜梨栖に想いを伝えるのは、卒業してからにするつもりだった。
一応、悟達の親に許されてはいるものの、今の時点で付き合うのは犯罪なのだから。
なのに、たった数週間であっさりと悟の考えは変わってしまった。
前に進むという思考が悪いとはもう思えず、それがなんだかおかしくて、ふっと小さな笑みを零した。
決意を固めようと、立ち上がって一つの部屋に向かう。
「……ごめんな」
何度も言われているし、今日も別れる前に許可が出ていた。
けれど罪悪感を胸に抱きつつ、謝罪をして亜梨栖の部屋の扉を開ける。
電気を点けて室内を見渡せば、簡素ではあるものの女性らしい部屋が視界に映った。
この部屋が一歩間違えば無くなっていたと思うだけで寒気がする。
「俺はアリスにもっと触れたい。堂々と、言い訳をせずに」
年上だから、親代わりだから、こんな状況だから、関係を進めずに現状を維持すべき。
そんな未だに残る僅かな建前を取り払い、心に残った感情を言葉にした。
あっさりと意思は固まり、再びリビングへと戻る。
「なら今までとは違って、具体的に何かしないとな」
このままズルズルと流されていくと、何も変わらない日常になってしまう。
それも悪くはないし、正直なところ平日は仕事があるので変えようがない。
変えられるとすれば、これまでよりも時間を作って亜梨栖との接触を増やす事くらいだろう。
それが上手くいっていないのが今の状況なので、難しい所なのだが。
どうしたものかと思考を回転させていると、ふとある事に気が付いた。
「……そうか。もうすぐ俺も時間が取れるようになるな」
四月が終わり、五月に入ればこれまでの生活に変化を起こせる。
偶に時期を外す会社もあるが、幸いにして悟の会社は世間と合わせているのだ。
ならばその時期は怠惰に過ごすのではなく、充実した時間にすべきだ。
「よし、善は急げだ」
例え外で亜梨栖と悟が一緒に過ごしても、傍に居る程度なら問題ない。
土壇場で計画するよりも、今から悩んだ方がいいだろう。
その最後にすべき事は、既に決まっている。
「でも、家の中で伝えるのもどうかと思うし、まずは場所を決めないとな。それと、別の日に何をやるかも決めないと。毎日出掛けるのは大変だし、アリスも疲れるから――」
ああでもないこうでもないと、一人で思考する悟だった。
「ただいまです」
夕暮れ時になると玄関の扉が開き、優しくて穏やかな心地いい声が耳に届いた。
普段は彼女が悟を迎えてくれるのだから、悟も同じ事をしたい。
玄関に向かい、ブレザーを着た女子高生に笑顔を向ける。
「おかえり、アリス」
「……何だか、これだけで疲れが吹き飛びますね」
ふわりと柔らかく笑み、溜息を吐き出す亜梨栖。
普段はあまり疲れた姿を見せないが、やはり学校は大変なのだろう。
「なら良かった。俺も仕事から帰ってきて、アリスに迎えられるのが嬉しかったからさ。いつもありがとな」
「急にどうしたんですか?」
悟が真正面から褒める事などあまり無いので、亜梨栖が目をぱちくりとさせた。
可愛らしく驚く姿に微笑を零しつつ、彼女の鞄へと手を伸ばす。
「そういう気分なんだ。ほら、預かるよ」
「へぇ……。女子高生の鞄を持ちたいだなんて、変態さんですねぇ」
「え!? い、いや、これも普段のお礼なんだが……」
深く考えずに鞄を持とうとしたが、よくよく考えるとデリカシーが無かったかもしれない。
やりたいと思った事が裏目に出てしまい、眉を顰めつつ肩を落とす。
亜梨栖へと伸ばした手を下げようとしたところで、くすくすと軽やかに笑われた。
「ごめんなさい。ちゃんと分かってますよ。それじゃあ、お願いしていいですか?」
「任せてくれ。にしても、ホントに心臓に悪いって……」
おそらく、悟が迎えに来た事でテンションが上がったのだろう。
それは嬉しいが、あまりにも精神に悪い弄り方に大きな溜息を落とした。
亜梨栖の鞄を受け取って身を翻し、歩き出す。
するとスリッパへと履き替えた亜梨栖の手が、悟の背中へと触れた。
「誰かに迎えられるのって、いいですね」
「……そうだな」
決して悟を傷付けるつもりはなかったのだと、ただ嬉しかっただけなのだと、強い思いが背中越しの声から伝わってくる。
揶揄われただけだと理解しているので、怒るつもりはない。
短く応えて、亜梨栖の自室へと向かう。
扉を開けて振り返るまで、彼女の手は悟の背中に触れ続けていた。
「入るからな」
「はい」
悟が先に部屋へと入り、鞄を床に置く。
すぐに着替えるだろうと思って部屋を出ようとすれば「兄さん」と弾んだ声が掛かった。
「どうした?」
「ここまで来たんですし、さっきのお詫びとして着替えを見ていきますか?」
亜梨栖がスカートに手を掛け、妖艶に微笑む。
男の理性を揺さぶる姿に、心臓が騒ぎ立てた。
動揺を抑え込み、再び彼女に背を向ける。
「そんな事するかっての。飯まで時間あるし、ゆっくりしてくれ」
「はぁい」
悟が断ると亜梨栖は分かっており、穏やかな微笑を浮かべて頷く。
けれど、その顔には僅かだが期待が込められている気がした。
悟が望めば本当に見せてくれたのだろうが、段階をすっ飛ばす事など出来ず、リビングへと退散する。
「油断も隙もないなぁ……」
先の予定を決めたのはいいものの、そんな事など知るかとばかりに小悪魔は誘惑してくる。
全力で好意をぶつける姿がどうしようもなく嬉しくて、唇の端を緩めながら溜息をつくのだった。




