第64話 提案
四月も第二週に入り、すっかり温かくなったある日。
いつもの自動販売機前で休憩を取っていると、一緒に居る信之が爽やかな笑みを浮かべた。
「何だか最近機嫌良さそうだね。良い事でもあった?」
「そんな事はないんだけどな。でも、いい方向に話が動いたから、気が楽になったってのはあるかもな」
相変わらず亜梨栖から誘惑されたり、最近では甘えられる事も多くなった。
もちろん彼女から接触してくれるのは嬉しいが、そのせいであまり悟が頑張れていない。
そんな悩みがあっても機嫌良さそうに見えたのは、後ろ向きな考えがなくなったからだろう。
肩を竦めながら答えれば、信之の顔が輝く。
「おぉ! それは良いね!」
「おめでとうございます。松原さん」
今日は珍しく佳奈も一緒に休憩しており、彼女が少しぎこちない笑顔で祝ってくれた。
気にはなったものの、あれこれ詮索しては駄目だろう。
ただ、二人は悟の背中を押してくれたのだから、もっと早く報告しておけば良かったかもしれない。
「言うのが遅くなってごめん。二人共、相談に乗ってくれてありがとな」
「改めて言われる事でもないよ。それに、柊さんにも相談してたんだね」
「そうですね。でも大した事は言ってないですし、そんなに気にしないでください」
「本当にありがとな」
昔の悟を知っている彩の言葉だけでは、悟の心は動かなかったはずだ。
浅く、けれども確かに友人である二人から励まされたがゆえに、悟は一歩踏み出す事が出来た。
ならば、ある程度の事情は伝えるべきだろう。
幸い、周囲には他に休憩している人も居ない。
「それで、だ。改めて言うと、俺には好きな人が居る」
「うんうん、それで?」
「そう言ってましたからね。その後は?」
信之は早く続きを言えと言わんばかりに頷き、そして佳奈が意外にも食い気味に尋ねてきた。
いくら仕事に精を出している彼女であっても、恋愛話には興味をそそられるらしい。
期待をこれでもかと顔に出す二人に苦笑を零し、ゆっくりと口を開く。
「今は、その子と一緒に住んでるよ」
「おー! 同棲だぁー!」
「……凄いなぁ」
信之は弾んだ笑顔で、佳奈は羨望を込めたように目を細めつつ、それぞれ口にした。
完全にスイッチが入ったようで、信之が興味津々とばかりに悟へ詰め寄る。
「ねえねえ、どんな子なのさ!?」
「それは、ちょっと秘密にさせてくれ。色々と事情があってな」
「む、それならしょうがないね」
いくら興奮していても、引くべき時は弁えてくれている。
悟としても、この場で女子高生と暮らしているという事まで言うつもりはない。
同期の頼もしさに胸を撫で下ろすと、佳奈が「でしたら」と小さく声を発した。
「松原さんさえ良ければ、遊びに行ってもいいですか?」
「……どうしてそんな事になるんだ?」
あまりにも脈絡のない提案に首を傾げれば、佳奈が柔らかく笑んで人差し指を立てて唇に寄せる。
「多分、松原さんの事情は公共の場では言えない事だと思います。だから私達にこの場では話せない。違いますか?」
「まあ、そうだな」
佳奈はいわゆるブラック企業に以前勤めており、今回の職場でも割と忙しい立場だ。
良い言葉に言い換えれば、それは実力があるという証拠になる。普段余裕がないのは、大量の仕事を抱えているからだ。
なので、小動物のような見た目に反して頭が非常に良い。
あまり悟の状況を話していないにも関わらず、あっさりと当てられた事に苦笑を零す。
「となると、家でなら話せると思います。ここまで首を突っ込んでおいて同棲してるとしか分からない、というのはもやもやしますしね」
「柊の立場からすれば、そう言いたくなるよな」
相談を受けた側でありながら、一緒に住んでいるとしか結果が分からないのは納得出来ないのだろう。
妙に必死な態度に疑問を覚えつつも、理由が分からないので触れはしない。
「それに、その人も居るのなら私が行くのも問題はないかと」
「確かに。でも……。うーん」
いくら社会人とはいえ、女性が独身男性の家に上がるのは不用心過ぎる。
しかし、今の悟は亜梨栖との二人暮らしだ。佳奈を上げる事には何も問題ない。
ただ、悟の状況は犯罪スレスレで、万人が納得するとはとても思えないのも確かだ。
それは相談した佳奈や信之であっても例外ではない。
眉を寄せて悩んでいれば、信之がからりと晴れ渡る空のような笑みを浮かべる。
「それなら、僕も行っていいよね?」
「信之にも聞く権利はあるしな」
「なら、何があっても悟の事情は他の人に言い触らさない。約束する」
「もちろん、私もです」
澄んだ二人の瞳からは、嘘を言っていない事が分かる。
飲みに行く仲間というだけでなく、悟が頼った人達だ。
ならば、信用するべきだろう。
「……分かった。でも、アリスに確認を取ってからだぞ。駄目って言われたらそれまでだからな」
「当然だよ。ありがとう、悟」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだっての」
まだ何も決まった訳ではない。亜梨栖が嫌だと言う可能性は十分にある。
それでも顔を綻ばせる二人に小さく頭を下げると、信之の顔に輝きが戻った。
「それで、その子はアリスって言うんだね」
「おぉ……。思わぬ所でカミングアウトしてくれましたね」
「……しまった」
失敗を悟り、顔を顰める。
ただ、流石にこれ以上は踏み込めないと思ったのか、二人が柔らかく笑んだ。
「まあ、それじゃあどこかでタイミングを合わせようか。楽しみだなぁ!」
「ですねぇ。どんな人なんでしょうか」
「期待されると怖いなぁ……。まあいいか」
亜梨栖の容姿は太鼓判を押せる程に整っている。
それに、信之と佳奈を信じると決めたのだ。今更言い触らす事に怯えてはいない。
しかし、女子高生に恋をしている悟を忌避するかもしれないという恐怖は残っている。
それでも万が一の時は二人から距離を取ればいいと、覚悟を決めるのだった。
「それで、いつになるか分からないけど、連れて来てもいいか?」
もう定位置になりつつある、悟のすぐ横で肩に頭を乗せて来る亜梨栖に問い掛けた。
悟の言葉に、亜梨栖は何の迷いもなく頷く。
「もちろんです。それじゃあ、おもてなしをした方がいいですね」
「それは別にいいんだけど、ごめんな」
「はい? 突然どうしたんですか?」
「いや、あれだけ言っておいて、他の人に教えるから……」
亜梨栖が最初に想いを伝えてくれた際、悟は世間の怖さをこれでもかと伝えたのだ。
そんな悟があっさりと掌を返し、友人を連れて来る。
彼女からすれば、激怒してもおかしくはない。
しかし亜梨栖はくすりと微笑を零し、穏やかな微笑を浮かべた。
「教えるのは兄さんが信用している人でしょう? なら大丈夫ですよ」
「……ありがとう」
「それに、その女性には会いたかったのでちょうど良かったです」
「そうなのか?」
悟が飲みに行った際、佳奈に嫉妬したのは分かっている。
それでも、会いたいというとは思わなかった。
首を捻れば、寒気のする笑みを向けられる。
「はい。女性には色々あるんですよ。色々と、ね」
「……まあ、程々にな」
この様子だと、亜梨栖が佳奈と話をするかもしれない。
亜梨栖が危害を加える事はないだろうが、佳奈は間違いなく苦労するだろう。
後輩に降りかかる苦難に頬を引き攣らせつつ、心の中で佳奈へ謝罪するのだった。




