第61話 男の生理現象
「おはようございます、兄さん」
土曜日の起きた瞬間の光景は、腹に乗って来た美少女の悪戯っぽい笑顔だった。
春になって薄手の毛布に切り替え、しかも寝ている間にズレたせいで、柔らかそうな太腿の感触が直接伝わってきている。
重さを気にしているのか、時折下半身が動くのが艶めかしい。
悟の理性を削る行為にじとりとした視線を送りつつ、下半身の熱を静めようとする。
「……おはよう、アリス。それで、退いてくれないか?」
「えぇー? 別に良いじゃありませんか。何か予定があるんですか?」
「いや、無いけど」
「なら別に良いですよね」
「はぁ……」
悟の下半身に気付いているのかいないのか。
女性の前で言葉にするのは恥ずかしいが、一度くらい思い知らせてもいいかもしれない。
亜梨栖は体を重ねても構わないと言っていたものの、朝からは彼女も嫌だろう。
「男の寝起きに発生する生理現象は何か分かるか?」
「男性の、ですか? ……そう言われると思いつかないですね」
「なら、ちょっと後ろを向いてくれ」
羞恥を必死に抑え、後で怒られる覚悟もしつつ亜梨栖に提案した。
これから見せるものは、どう考えても女性に見せてはいけないものなのだから。
朝っぱらから何をしているのかと、思考の冷静な部分が囁くが無視だ。
彼女はまだ察せないようで、きょとんと無垢な表情で首を傾げる。
「後ろを向く、ですか? えっと、こう――っ!?」
ようやく察したのだろう。亜梨栖の口から声にならない声が出た。
別に起きる度にではないし、ならない時もある。
亜梨栖が悟の腹に乗って来たのはこれで三回目だが、今までは毛布で隠れていたり、反応していなかったりした。
しかし、今日は違う。
石像のように固まった背中へと、頬に熱を集めつつ声を掛ける。
「そうなってるから、不用意な事をするんじゃないぞ」
「あ、あの、これって朝だ――」
「止めろ、言うんじゃない」
成人男性が行く店を知っていたので、こういう事も知識としては得ているらしい。
それに、普段は散々悟を誘惑しているものの、いきなり実物を見せられると気が動転してしまうようだ。こちらへと振り向いた亜梨栖の頬は、真っ赤に染まっている。
悟が見せたせいではあるが、女子高生としてあるまじき発言をしようとしたのを静止した。
「これで分かっただろ? 乗って起こすなとは言わないけど、すぐに退こうな?」
「………………別に、退かなくてもいいじゃないですか」
「は?」
小さく呟かれた言葉の意味が分からず、呆けたような声が出てしまった。
未だに悟の腹に乗っている少女は、火傷しそうな程に顔を赤くして微笑を浮かべる。
その表情には嫌悪感などなく、潤んだ瞳には確かな期待が渦巻いている気がした。
「こうなったのは私のせいですし、私がお世話すればいいんですよね?」
「いや、いやいやいや。それはおかしいから」
「おかしくなんてありません。処理をするのは私の役目です」
「これはただの生理現象だから!」
「でも、辛いんでしょう?」
「こんなの放っておけば治るって!」
いくら亜梨栖でも怖気づくと考えていたのだが、考えが甘かったらしい。
まさか奉仕される方向に行くとは思わなかった。
このままでは本当に亜梨栖が奉仕しそうで、無理矢理体を捻って彼女の下から脱出する。
亜梨栖が悟を気遣い、あまり体重を乗せなかったのが幸いした。
「あう」
滑るように移動し、亜梨栖をベッドの上に置き去りにする。
立ち上がると思いきりテントを張っているのが見えるので、リビングへの扉で隠した。
様子を窺えば、亜梨栖はほんのりと不満を表情に出している。
「そういう事を軽々しく言うのは禁止だ」
「別に軽々しくなんて言ってませんが。兄さん以外の人のなんて、絶対に触りたくないですし」
「それでも、今は駄目なんだ!」
妙に生々しい発言に呻きそうになりつつ、必死に考えを伝えた。
すると、亜梨栖は茶目っ気たっぷりに深紅の瞳を細める。
「なら、いつかはしていいんですね。楽しみです」
「う……。畜生! 普通はもっと恥ずかしがるだろうがー!」
明らかにセクハラ発言をしたにも関わらず、なぜ悟が辱しめられなければならないのだろうか。普通は「気持ち悪い」等の発言で怒られる所だろう。
完全に言い負かされたという自覚をしつつも、これ以上の会話が恥ずかし過ぎて扉を閉めようとする。
「ふふ。可愛い兄さんですね。私を部屋に置いていくなんて、どうなるか分かってるでしょうに」
最後に見えたのは、乳白色の肌を薔薇色に染め、ベッドに横になる亜梨栖だった。
悟が起こされたのは朝と昼の間で、飯を食べるには中途半端な時間だった。
なので、亜梨栖から逃げ出してリビングで寛いでいたが、一時間が経っても彼女が悟の自室から出て来ない。
部屋を出る直前の言葉からして、悟のベッドで寛いでいるのだろう。
「アリス、腹は減ってるか?」
既に羞恥は引き、いつも通り話せるようになった。
いくら亜梨栖が居るとはいえ、自分の部屋に入るのに許可は要らない。
扉を開けて中を覗き込みつつ声を掛ければ、そこにはだらけきった姿があった。
「はいー?」
ベッドに寝そべり、当然のように悟の枕に頭を乗せ、間延びした声を発した亜梨栖。
スマホに集中していたのか、それとも眠たかったのか分からないが、悟の言葉が聞こえていなかったらしい。
ただ、仰向けになったまま悟の方を見たせいで、母性の塊の形がハッキリと分かった。
それどころか黒い紐が肩口から見えており、慌てて目を逸らす。
(別にいいんだけど、俺のベッドで寛ぎすぎだろ)
悟の居ない日はこうして寛いでいるとの事だったので、今更怒りはしない。
それに、亜梨栖は学校だけでなく悟の世話を焼いてくれているのだ。
場所に問題はあれど、完全にオフになる事くらい許容すべきだろう
しかし、あまりにも堂々としただらけっぷりに、呆れたような苦笑を浮かべた。
「なんですかー?」
「もうすぐ昼だけど、腹は減ってるのか?」
「そーですねー」
普段の凛とした雰囲気など見る影もなく、亜梨栖がのんびりとした声を漏らしている。
少しだけ考え込んだ後、彼女は悟の枕に頬ずりした。
とろりと幸せが滲み出るような微笑は、悟の心臓に悪い。
「減ってはいますけどー、お昼と一緒に食べましょー」
「あいよ。じゃあもう少し時間があるし、のんびりするか」
「ならぁ。兄さんも来ませんかー?」
亜梨栖が体をずらし、ぽんぽんとベッドを軽く叩く。
おそらく「一緒に寝よう」と言いたいのだろうが、流石にそんな事は出来ない。
「いや、俺はリビングに居るよ」
「むー。残念ですー」
「そういう事で、また後でな」
露骨に唇を尖らせる姿は、悟の理性を揺さぶる程に愛らしい。
だからこそ、あの場に行けば歯止めが効かなくなってしまう気がした。
パタリと扉を閉め、リビングのソファで一息つく。
「……無防備なのも困りものだな」
悟を誘惑する為ではなく、何も考えず気を抜いた姿。
普通ならだらしがないと思うのだが、悟はそんな感情など少しも抱なかった。
むしろあまりにも魅力的過ぎて、甘やかしたくなってしまう。
今は理性が飛びそうだったので逃げたが、いつかしてみたいと思う程に。
「まあでも、休日はのんびりするに限るな」
誰がどこで寛ぐか、という事は置いておき、やはりだらけられる休日は良いなと悟も気を抜くのだった。




