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第59話 定時日

 同居の継続が決まったからか、火曜日はすぐ傍に亜梨栖が座りつつも、誘惑される事はなかった。

 そして定時日となった水曜日。まだ明るいうちに家に帰り着き、玄関に声を響かせる。


「ただいま」


 いつもであればすぐに亜梨栖が迎えに来るのだが、今日は来なかった。

 ローファーはあるので家に居るらしいが、手が離せない用事があるのだろう。

 少しだけ寂しい気持ちになりつつも、ぐっとこらえて家に入る。

 ちょうどリビングに顔を出した所で、亜梨栖の部屋の扉が勢い良く空いた。


「すみません! お帰りなさい!」

「ん、ただいま」


 慌てたような表情からすると、やはり何かやるべき事があったらしい。

 特に触れる事はせず、笑みを浮かべて挨拶を返した。

 すると、亜梨栖がしゅんと肩を落とす。


「本当にすみません。ちょうど着替えていて迎えに行けませんでした……」

「そういう事か。強制してる訳でもないし、気にしなくていいからな」


 制服から着替えている最中に悟が帰ってくれば、慌てもするだろう。

 そもそも、亜梨栖が悟を迎えてくれるのは善意なのだ。

 強制してはいけないし、当たり前と思ってもいけない。そして、怒るつもりもない。

 胸に沸き上がる寂しさに蓋をし、ひらひらと手を振って応えた。

 しかし、亜梨栖の顔は曇ったままだ。


「そういう訳にもいきません。兄さんが帰ってくるなら迎えないと」

「気持ちは嬉しいけど、義務に思う必要はないんだぞ?」

「義務なんかじゃありません。私がそうしたいからしてるんです」

「それは嬉しいけど……。うーん」


 痛い程に澄んだ瞳からは、決して譲らないという思いが伝わってくる。

 このままだと、悟の残業が無い日は亜梨栖がもっと早く帰ろうとするはずだ。

 世話を焼いてくれる事が嬉しいのは本当だが、慌てさせたくはない。

 眉をしかめて悩めば、一つの案が思い浮かんだ。


「なら、残業がない日は俺が買い物に行くよ。これなら俺はもう少し遅く帰れるし、アリスも早く帰れるだろ?」


 仕事が終わる時間より、学校が終わる時間の方が早い。

 なのに亜梨栖が先程着替えていたのは、晩飯の買い物に行って帰りが遅くなったからだ。

 亜梨栖が譲らなかったからでもあるが、こういう日くらいは悟が行くべきだろう。

 良い案だと思うのだが、亜梨栖は形の良い眉を歪めて首を振る。


「いいえ、買い物くらい大丈夫です。私がやります」

「どうせ急げば何とかなるとでも思ってるんだろうが。何でもかんでも一人でやろうとするなって」

「あう」


 意思が強いのは良い事だが、少しは悟に甘えて欲しい。

 聞き分けのない子供に接するように、ぐしゃぐしゃと滑らかな銀糸をかき乱す。

 短く悲鳴を上げたものの、亜梨栖はされるがままだった。


「でも……」

「でもじゃない。買い物を任せて余裕を持って俺を迎えるか、それともアリスが買い物に行ってほぼ同時に帰るか、どっちがいい?」

「………………買い物、お願いします」


 長い間からすると、亜梨栖にとっては相当難しい選択だったのだろう。

 しかしあまり外に出たくないのと、悟が食材の選び方のノウハウを知っているという理由から、悟を迎える方に軍配が上がったようだ。

 素直に甘えてくれた事に胸が温かくなり、乱れた髪を手櫛てぐしで整えていく。


「了解だ。そうやってちゃんと甘える事。いいな?」 

「……もう、十分甘えてるんですが」


 誘惑する際は甘える事もあるので、嘘をついてはいないのだろう。

 けれど、こういう事こそちゃんと甘えるべきだ。

 気恥ずかしさと負い目からか、悟にされるがままになりつつも、じとりとした目をする亜梨栖に肩をすくめる。


「昔からすると、まだ控えめなくらいだっての。あの優しくて我儘なアリスはどうした?」

「あれは子供だったからです。昔のように甘えっぱなしでは駄目ですから」

「気持ちは分かるけど、これからも一緒に暮らすんだから、持ちつ持たれつで行きたいんだよ」


 昔の事を持ち出されて、不服そうに頬を膨らませる亜梨栖の頭をぽんぽんと軽く叩いた。

 家事に料理、そしてお迎えと悟は亜梨栖に救われている。

 彼女からすれば、悟が傍に居るだけでいいのだろう。しかし、それでは悟が納得出来ないのだ。

 これからは亜梨栖と長い時間を過ごすので、出来る限り負担を減らしたい。それは平日であっても、何も変わらないのだから。

 あやすような悟の行動に、亜梨栖が呆れた風に溜息をつきつつも頷く。


「分かりましたよ。物好きですねぇ」

「俺はただ、普段のお返しをしてるだけだっての。いつもありがとな」

「……なら、私もそのお返しをします」


 やられっぱなしは嫌のようで、亜梨栖が悟の鞄を奪い取った。

 頭からするりと悟の手が滑り落ちるのを一瞬だけ名残惜しそうに見たが、すぐに視線を外して悟の自室へ向かっていく。


「ほら、兄さんも着替えるんでしょう?」

「ああ、そうだな」


 くるりと振り返り、物言いたげな瞳を向ける亜梨栖に苦笑を零す。

 甘えて、甘えられて。そうやって、お互いに寄り掛かる事が出来るようになった。

 亜梨栖の甘えぶりが昔とは違うものの、それでも一方的ではない関係に、頬を緩めつつ彼女の後を追うのだった。





「「はぁ……」」


 着替えを終えて、ソファに沈み込む。

 まだ普段の晩飯の時間には早すぎるので、料理はしていない。

 そして亜梨栖も疲れているらしく、悟の隣で溜息を吐き出していた。


「学校お疲れ様。二年生は大変か?」

「それなりに、ですね。これでも学校では有名人ですし、疲れないとは言えません」

「アリスならそうなるよなぁ」


 有名人と口にした割に亜梨栖は呆れたような表情で、少しも喜んでいない。

 日本人の顔立ちにも関わらず、普通では有り得ない銀の髪と緋色の瞳。

 そして誰もが見惚れる程の美貌びぼうとなれば、有名人にならないはずがないのだ。

 それを嫌がっているのは、昔から容姿で苦労してきたからだろう。

 一年前はトラブルがあったそうなので、それが関係しているかもしれない。

 何にせよ、亜梨栖は学校の立場を重要視していないのが分かる。

 素直に喜べず苦笑と共に呟けば、彼女が再び大きく息を吐き出した。


「私は兄さんの傍に居られたらそれでいいんですよ。いっそ教室の端で目立たないように過ごしたいくらいです」

「……唐突に言われると反応に困るな」


 真っ直ぐに好意をぶつけられて、頬が熱を持つ。

 何を言えばいいか分からずうめく事しか出来ずにいると、くすくすと軽やかな笑い声が聞こえた。


「なら、そのままジッとしていてください」

「お、おう」

「先程の兄さんの言葉、実行させてもらいますね」


 そう言うやいなや、亜梨栖が悟の肩に頭を乗せた。

 これまでも彼女が身を寄せて来た事はある。

 しかし今日は前とは違い、悟を誘惑するのではなく、疲れを癒す為のような気がした。

 それを断る理由など悟にはない。


「好きなだけゆっくりしてくれ」

「……はい」


 ぐりぐりと頭を擦り付けられる感覚がむず痒く、頬が勝手に緩む。

 定時で帰ったがゆえに、時間のある水曜日。

 こんな平日も悪くないと思いつつ、ゆったりとした時間を過ごすのだった。 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 無邪気な子供の頃の甘え方から大人に成長しつつある状態での甘え方の破壊力ときたら…かはっ [一言] ちゃんと成長していることをアピールしたいという思いと素直に甘えたいという思いで葛藤してるの…
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