第58話 強くなった少女
四月最初の出勤を終え、玄関の扉を開ける。
「ただいま」
家の中に声を響かせれば、ぱたぱたと軽いスリッパの音が近付いてきた。
靴を脱いで振り返ると、音の主が悟の目の前で嬉しそうにはにかむ。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
何かが違えば、こんな風に迎えてくれる事はなかったかもしれない。
そんな実感が急に湧いてきて、嬉しさに頬が緩む。
細い腕が差し出されたので遠慮なく鞄を委ね、亜梨栖と共に自室へ向かう。
部屋着に着替えてソファに腰を落とせば、膝が触れ合う距離に彼女が座った。
「今日は早かったですね」
「先週が年度末で忙しかっただけで、本来はこんなもんだな」
意外そうに小首を傾げる亜梨栖に、微笑を浮かべて言葉を返す。
亜梨栖からすると、帰りが遅いのが普通だと思っているのだろう。
しかし今日は日は暮れているものの、先週よりも帰りが一時間以上早い。
なので、亜梨栖はまだ晩飯を作っていなかった。
「世の中は残業を減らすって動きなんだよ。母さん達は例外だ」
全ての会社ではないだろうし、彩や奏のように残業しなければならない人はいる。
それでも、悟の置かれている状態はこのようなものだ。
手を抜くつもりはないが、かといって仕事人間とは言えない悟としては非常に助かっている。
胸を張れず嘆息しながら呟けば、亜梨栖がルビーの瞳をぱちくりとさせ、すぐに柔らかく微笑した。
「そうなんですか。良かったです」
「それに、入社二年目だって事で、いろいろと緩和してくれるらしい」
「緩和、ですか?」
「ああ。スーツじゃなくていいとか、在宅ワークするかもとか、いろいろだな。スーツは事前に言って欲しかったけど」
悟の会社には社服があり、スーツで出勤しなければならない理由はない。
しかし新人だからという訳の分からない暗黙の理由で、一年の間は続けていた。
それなりに良い会社とはいえ、変なしがらみというのはあるらしい。あるいは、だからこそなのかもしれないが。
何にせよ、ようやく悟は解放される。
安堵から大きく息を吐き出すと、亜梨栖が思いきり肩を落とした。
「……そう、なんですか」
「え、どうした?」
「兄さんのスーツ姿、カッコいいのに見れなくなるんですね……」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、結構息苦しいんだぞ?」
真正面から褒められて背中がむず痒くなるが、では着たいかと言われると首を振ってしまう。
流石に亜梨栖も駄々を捏ねる気はないようで「分かりました」と沈んだ声が返ってきた。
ただ、顔を俯けて思いきり沈んだ態度を取られると、なけなしの良心が痛む。
「……もし在宅ワークになったら、着ようか?」
「いいんですか!?」
「お、おう……。勢いが凄いな……」
悟に出来るギリギリのラインで妥協すれば、亜梨栖が深紅の瞳を輝かせた。
あまりにも露骨な喜びように、頬が引き攣る。
そんな引いた態度の悟も気にならないようで、亜梨栖がぐいっと顔を近付けてきた。
シトラスの匂いがふわりと香り、ショートパンツからのぞく太腿は悟の膝にしっかりと触れている。
「本当に、やってくれるんですか!?」
「近い、近いから」
高鳴る心臓の鼓動を抑えつつ、華奢な肩を掴んで距離を離した。
白磁の頬にさっと朱が混じり、申し訳なさそうに眉を下げつつも、期待に染まった瞳が悟を見上げる。
「それで、どうなんでしょうか」
亜梨栖としては、悟に負担を掛けないように精一杯気遣ってくれているのだろう。
それでも先程の落胆ぶりや期待ぶりから、相当楽しみにしてくれているのが伝わってきた。
純粋であるがゆえの勢いに苦笑しつつ口を開く。
「在宅ワークになったらな」
「やったぁ!」
余程嬉しかったようで、亜梨栖が輝かんばかりの笑顔でガッツポーズした。
そのまま彼女は頬をゆるゆるにさせて、悟の横で体を揺らす。
「んふふー♪ お兄ちゃんのスーツが見放題ー♪」
「俺が仕事の時はアリスが学校なんだけど……。まあいいか」
肝心な所で詰めが甘いなと溜息をつきつつ、愛らしい少女の姿を目に焼き付けるのだった。
その後は冷静になった亜梨栖が先程のはしゃぎっぷりを思い出して顔を真っ赤にしたり、部屋に逃げたり等ドタバタしたが、今は普段の調子に戻って晩飯を摂っている。
「俺の残業とかは説明したけど、アリスの方はどうなんだ?」
「どうなんだ、とは?」
「その……。学校で何か嫌な事とか起きてないか?」
昔の亜梨栖は悟や彩、奏にしか心を開かず、学校で孤立していた。
殆ど聞いた事はなかったが、高校生活も同じような状況になっているのかもしれない。
それどこか、亜梨栖の美貌なら周囲の嫉妬等で、以前よりも酷い状況になっている可能性もある。
心配になっておずおずと尋ねれば、亜梨栖が目を丸くして見せた。
そしてすぐに表情を和らげ、軽やかな笑い声を漏らす。
「大丈夫ですよ。あれから私も成長したんです」
「本当か?」
「はい。友達も居ますし、虐められてもいません。まあ、去年は色々とありましたけどね」
「…………本当に、大丈夫なんだな?」
やはりというか、高校に入学してからはいざこざがあったらしい。
悟の元に行くために頑張り、学校ではトラブルが起きる。
そんな生活など、息が詰まるのではないか。
念には念を入れてもう一度尋ねれば、自信に満ちた笑顔で亜梨栖が頷く。
「はい。ちゃーんとお仕――いえ、和解しましたから」
「…………まあ、アリスが強くなってくれて嬉しいよ」
傷付き、落ち込むばかりであった少女は、五年の間に仕返しをする程に強くなっていたようだ。
悟とて善人ではないし、何なら中学時代に大喧嘩をした人間なので、亜梨栖を責めるつもりはない。
むしろ、悟以外に自分の主張を言えるようになった事が誇らしいくらいだ。
それでも幼馴染として、好意を抱いている男として、心配は尽きないのだが。
「でも、何かあったら言うんだぞ。俺が学校生活を変える事は無理かもしれないけど、愚痴くらい聞くし、絶対にアリスの味方だからな」
「分かってますよ。もしもの時は、頼りにさせてもらいますね」
喜びに満ちた甘い笑顔を浮かべ、亜梨栖が悟へと右手を伸ばす。
「取り敢えずは、手を握ってくれませんか?」
まさに今、問題が起きているのか。それとも単に悟が傍に居るのを実感したかったのかは分からない。
食事中にすべきではない事は理解しているが、堅苦しい場ではないのだ。
亜梨栖のお願いを断るという選択肢などなく、すぐに悟も右手を差し出した。
悟の手は滑らかな二つの手に包まれ、宝物のように撫でられる。
人形のように整った顔は、とろりと幸せが滲み出て生まれたようにはにかんでいた。
「この手が、この温かさが傍にあるだけで、私はどんな辛い事も乗り越えられます」
「乗り越える前に、相談して欲しいんだが……」
「はい。単に、それだけ兄さんの存在が大きいって事ですよ」
「ならいいけど」
頼られるのは嬉しいが、亜梨栖の性格なら我慢しそうな気もする。
どうやら今のところは問題はなさそうだが、気を付けておこうと内心で誓ったのだった。




