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第57話 新しい始まり

「起きてください、兄さん」


 体を揺さぶられる感覚と、優しくて穏やかな心地いい声が悟の意識を覚醒させる。

 重いまぶたを開ければ、美しい微笑が悟を見下ろしていた。


「……ん。おはよう、アリス」

「おはようございます、兄さん」


 深紅の瞳が優しく細められ、微笑に甘さが混じる。

 どうやら、今日は腹に乗られなかったらしい。

 あれも心臓に悪いが、今日のような笑顔で起こされるというのも、それはそれで心臓に悪い気がする。

 それでも幸福の方が大きいのだから、悟は亜梨栖に起こされなければ駄目になっているのかもしれない。


「んー!」


 ベッドから身を起こし、思いきり背伸びをする。

 すると、彼女の服装がこれまでと違う事に気が付いた。


「そっか、今日から学校だもんな」

「はい。高校二年生になりますね」


 これといって特徴のない、濃紺色のブレザー。

 にも関わらず、亜梨栖が着ているだけで不思議と上品に見えた。

 気付いた事が嬉しいのか、彼女が悟の前でくるりと一回転する。

 ふわりとスカートが広がる光景が美しく、思わず見惚れてしまった。


「どうですか? 似合ってますか?」

「ああ。凄く可愛いな」


 小学生だった幼馴染が、高校の制服を着こなしているのだ。

 その成長ぶりになぜだか泣きたくなってしまい、目頭が熱くなる。

 必死に堪えて短くはあれど褒め言葉を口にすれば、端正な顔がとろりと蕩けた。


「なら良かったです。女子高生の制服をこんなに近くで見れるなんて、役得ですねぇ」

「……含みのある言い方をするんじゃない」


 普通の社会人であれば、こんな姿を近くで見る事など有り得ない。

 からかうような亜梨栖の言葉に背徳感が沸き上がり、渋面を作って誤魔化す。

 しかし、彼女はくすくすと軽やかに笑うだけだ。


「事実じゃないですか。たっぷり見てくださいね」

「もう十分堪能したよ。ほら、着替えるから出て行った」

「はぁい。ではご飯を作って待ってますね」


 これからも制服姿は悟に見せられるので、焦る必要はないと思ったらしい。

 あっさりと彼女はリビングへ向かった。

 機嫌良さそうに揺れる銀髪が見えなくなり、大きく息を吐き出す。


「…………あれで興奮したら、変態じゃねえか」


 家には悟達しか居ないので、誰も咎める人など存在しない。

 だからこそ、悟が理性を縛らなければならないのだ。

 相変わらず悟を誘惑する小悪魔に呆れつつも頬を緩め、着替えを始めるのだった。





「よし。忘れ物はないか?」

「大丈夫です」


 朝食を終え、亜梨栖と共に家を出る。

 これまで、彼女はずっと悟を玄関まで送ってくれていた。

 しかし今は制服姿で扉の外に居る。その距離感の違いに、くすりと笑みを零した。


「一緒に出るって、何か変だな」

「今までずっと兄さんを見送ってましたからね。あれはあれで良いですが、今日からはこれが当たり前になりますよ」

「確かにな。それじゃあ駅までだけど、行くか」

「はい」


 亜梨栖の通う星爛せいらん高校もここから電車を使う必要がある。

 なので、悟も亜梨栖も行く方向が同じだ。

 社会人と高校生が並んで歩くのもどうかと思うが「そんな事を気にする人なんていませんよ」と言う事で、彼女は全く気にしていない。

 一応、今日の様子を見て明日からどうするか判断しようと決めている。


「はぁ……」


 エントランスへと降り、日差しの下に出る直前で、亜梨栖が盛大に溜息をついた。

 渋々といわんばかりの態度で、黒の日傘を広げて歩き出す。

 その隣に並ぶと、傾いた日傘からムスッと唇を尖らせた顔が見えた。


「やっぱり、登下校の時間は一日でも一、二を争う程に嫌いです」

「だろうなぁ。それでも一時間半かけて星爛に通ってたんだろ?」

「はい。満員電車に乗り続け、日差しに気を付け続ける一時間半なんて、地獄そのものでしたよ。それがたったの二十分で済むんです。最高ですよ」

「それが俺の家に来た建前だったもんな。でも、真実でもあったと」


 真の目的は悟を誘惑し、ずっと一緒に住む為だったが、登校の時間を減らすというのが建前上の目的だった。

 しかし、それも決して嘘ではなかったのだ。

 悟の言葉に、亜梨栖が真顔で頷く。


「ぶっちゃけると、割と大真面目に時間短縮が目的でもありました」

「……というか、それなら家の近くの高校にすれば良かったじゃないか。何で星爛にしたんだ?」


 大学や就職の事を考えて星爛を選ぶのもおかしくはないが、それにしても遠すぎる。

 亜梨栖の体質を考えると、危険が多すぎるのだ。

 疑問を口にすれば、真顔だった横顔が僅かに曇る。


「それが、兄さんの元へ行く条件だったので」

「条件? 奏さんが出したのか?」

「はい。私が成長したという証拠を見せて欲しいと言われたんですよ」

「…………なるほどな」


 奏としては娘の自由を許す代わりに、勉強が出来るようになって欲しかったのだろう。

 元々、亜梨栖の成績は悪くなかったが、相当頑張ったはずだ。

 苦しんででも悟の元に来てくれたという嬉しさと、頑張らせてしまったという苦しさ。

 同時に沸き上がる感情に胸が苦しくなるが、それでも隣の少女へ笑顔を向けた。


「頑張ってくれてありがとう、アリス」

「別に、兄さんにお礼を言って欲しくて頑張った訳じゃありませんから」


 つん、と素っ気ない声を発した亜梨栖だが、日に焼けていない頬が朱に染まっている。

 珍しく冷たい態度を取った事から察するに、本当は勉強を頑張った事など言いたくなかったのだろう。

 頑張り屋の少女の頭を撫でたくなったが、こんな所でする訳にもいかない。

 代わりに、ありったけの感謝の気持ちを言葉に込める。


「俺のせいでこんな遠くに来る事になったんだから、それでもありがとうだよ」

「強情な人ですねぇ。それなら遠慮なく受け取っておきましょう」


 呆れ気味ではあるものの、確かな歓喜を秘めた笑みを亜梨栖が浮かべた。

 その表情はすぐに引っ込み、華奢な肩が僅かに下がる。


「一年間の通学中に兄さんに会えるかと期待してましたが、そんな美味い話はなかったですね。お母さんが星爛を指定した時点で、兄さんはその周辺に住んでると当たりはつけてたんですが」

「方向と時間帯が違うしな。仕方ないだろ」


 悟の会社と亜梨栖の高校は真反対だ。

 ならば朝に会う事はないし、帰りも時間が殆ど違うので会う事はない。

 結果として、この一年間亜梨栖と顔を合わせなかった。 


「それでも、近くに居るとは思ってましたよ。そうでなければお母さんも星爛に行けだなんて言いません」

「つまり、奏さんはアリスを星爛に入学させる時点で、登校に時間が掛かるっていう名目で俺の家に住まわせようとしてたんだな」

「詳しく聞いた事はありませんが、そんな所でしょうね。全く、いつから考えてたのか……」

「あの人は俺なんかよりずっと頭が良いからなぁ」


 奏がいつから悟の家に亜梨栖を住まわせようとしていたのかは分からない。

 しかし、少なくとも一年以上前から計画していたはずだ。

 全ての事柄を無理なく繋げる奏の手腕に、呆れと尊敬を混ぜた息を吐き出す。


「何にせよ、お母さんには許可をもらいましたし、もう気にする事なんて何もないです。私は、今の生活を続けるだけですよ」


 何でもない風な声には、確かな達成感が込められていた。

 今は一緒に歩いているだけだが、これが亜梨栖の努力の成果なのだ。

 そう思うと、今がかけがえのない時間だという実感が沸いてくる。


「だな。改めて、これからもよろしく」

「はい。よろしくお願いしますね」


 今更な挨拶をしたくなって頭を下げれば、亜梨栖も微笑を浮かべて返してくれた。

 その後は特に話す事もなく、けれども穏やかな空気のまま駅に着く。

 やはりというか、社会人と高校生が一緒に歩く姿は目立つらしい。道行く人達が、悟達を怪訝な目で見ている。

 一緒に歩くのは、ここまでにした方が良いだろう。


「それじゃあ、帰る時には連絡するよ」

「はい。行ってらっしゃい、兄さん」

「行ってきます。亜梨栖も、行ってらっしゃい」


 歩みを止めれば、周囲の状況を確認した亜梨栖が駄々を捏ねる事なく悟から離れた。

 おそらく、年齢の問題を未だに気にしている悟を気遣ったのだろう。

 申し訳ないと思いつつ、今までとは違って悟も亜梨栖を送り出す。

 すると、彼女が明るくて真っ直ぐな太陽のような笑顔を見せた。


「はい! 行ってきます!」

 

 日傘を畳み、弾んだ足取りで駅のホームに向かう亜梨栖。

 送るのは初めてだったが、これから毎日あんな笑顔を見られると思うだけで、胸が温かくなるのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 悟がそばにいればどこでもテンション高くなるアリスかわゆす [気になる点] うーん、学生と社会人が一緒に歩いてるのってそんなに見られるものなんですかね? [一言] どちらにせよ反対方向という…
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