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第56話 アリスの夢

 自室で自己嫌悪に苛まれ、リビングに出て来れたのは、電話を終えてから一時間後だった。

 流石に亜梨栖ありす揶揄からかうような事はせず、ゆったりとソファに背を預けている。


「…………もう春休みが終わってしまいます」

「だな。この一週間、凄かったなぁ……」


 亜梨栖が住みだして僅か一週間しか経っていないが、あまりにも激動の日々だった。

 そして亜梨栖も充実していたからこそ、彼女の表情には哀愁の色が出ているのだろう。


「はい。実家に返される訳にはいきませんでしたから、頑張っちゃいました」

「頑張るどころか宣戦布告されたけどな」


 引っ越し初日に告白され、お試し期間のうちに悟の本性を明かす事になったのだ。

 後悔はしていないが、体当たりするような想いのぶつけられ方に苦笑を零す。

 亜梨栖も告白の件は後悔していないようで、満足げな笑みを見せていた。


「そうしないと兄さんは私を幼馴染扱いして、思考停止したでしょうからね」

「ああ。昔と同じ、仲の良い兄妹のような関係になろうとしただろうな」

「それを変える為には、劇薬が必要だったんですよ」

「……否定出来ない所が悲しい」


 おそらく亜梨栖が初日に告白してくれなければ、悟達の関係は絶対に変化しなかっただろう。

 もしくは、もっと酷い形で変化したかもしれない。

 眉をしかめて同意すれば、亜梨栖が口角をくいっと上げ、悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「一応、第二案として夜這いする事も考えていたんですよ?」

「マジかよ」

「ええ、マジです。兄さんが公園で私との会話を拒否したら、間違いなくしてましたね」

「あの時ちゃんと会話して良かったぁ……」


 ある意味では最悪の形になりそうだったという事実に、肝を冷やした。

 亜梨栖の口ぶりからすると、既成事実を強制的に作らされた可能性がある。

 というよりは、間違いなく彼女は実行しただろう。それだけの覚悟を持っているのを、既に悟は知っている。

 溜息をつきつつ胸を撫で下ろすと、亜梨栖がくすくすと軽やかに笑った。


「私としても、凄く嬉しかったですよ。本音を隠してはいても、ちゃんと向き合ってくれたので」

「もう亜梨栖から逃げたくなかったからな」

「はい。本当に、ありがとうございます。頑張ったかいがありました」

「それは実感したよ。本当に頑張ったな、アリス」


 くたびれる程ではなかったが、仕事を終えて帰ってくると、飯が用意されているのは本当に有難かった。

 それだけではない。マッサージや酔った際に介抱してくれた事など、亜梨栖の宣言通り悟は癒された。

 それは、彼女が必死に努力した成果だろう。

 頬を緩めて褒めれば、照れたように恥じらいで満たされた顔がふわりと綻ぶ。


「……はい。本当に、頑張りました」


 とろりと蕩けるような笑顔に、悟の心臓が鼓動を早めた。

 愛らしい少女をもっと労いたくなったが、頑張ったという言葉でふと先程の母親二人との電話を思い出す。


「そういえば、俺の家に来る前も頑張ったんだって?」

「ぅ……」


 先程までの甘い笑顔は一瞬で引っ込み、亜梨栖が思いきり眉をしかめて渋い顔になった。

 奏達との会話で察してはいたが、何が何でも悟には知られたくないらしい。


「アリスさえ良ければ、教えてくれないか?」

「…………」


 亜梨栖は嫌だろうし、悟も一度は聞かないようにしたが、やはり彼女の努力を知りたい。

 料理が出来るようになったり等、断片的な事を知ってはいても、詳細は全く知らないのだから。

 真剣に頼み込めば、亜梨栖が顔をうつむけて考えだす。

 急かさずに待っていると、彼女がゆっくりと顔を上げる。

 普段の美しい顔は不満に彩られており、小さく頬を膨らませていた。

 

「…………今は、駄目です」

「分かったよ。なら、今の俺でも何か出来る事はないか?」


 今は、という事はいつか話してくれる時が来るかもしれない。

 ならば、悟がしなければならないのは気長に待つ事だろう。

 それはそれとして、亜梨栖の頑張りには報いたい。

 悟の傍に来る為だったのだから、ねぎらうくらいは出来るはずだ。

 柔らかく笑んで頼み込めば、今度は迷う事なく亜梨栖が瞳を輝かせて口を開く。


「それなら、頭を撫でてくれませんか?」

「もちろんだ」


 即答して亜梨栖の頭に手を伸ばすが、内心ではかなり慌てている。

 亜梨栖を撫でたのは五年前なのだ。成長した彼女の髪には毎日触れているものの、撫でるとなれば話が変わってくる。

 とはいえ断るという選択肢などなく、意を決して悟が手入れした銀の髪に触れた。


「ん……」


 亜梨栖がむずがるようにぴくりと体が震わせ、頬を淡く紅色に色付かせる。

 頬はへにゃりと緩み、瞳は気持ち良さそうに細まった。

 静かではあるが、幸福なのがこれでもかと分かる態度に、心臓がどくりと跳ねる。


「頑張ったな、アリス」

「…………はい」


 絹糸のような触り心地の髪をゆっくりと撫でれば、か細い返事が耳に届いた。

 奏が褒める程に亜梨栖は頑張ったのだ。おそらく、悟には想像も出来ない程の苦労があったのだろう。

 その元凶である悟が労うのもおかしな話だと思うが、彼女が望んだのだから許されるはずだ。


「会いに来てくれて、俺を好きでいてくれて、ありがとう」

「わた、し、がんばった……です。いっぱい、いっぱい、がんばり、ました……」


 俯いた亜梨栖の頬に、雫が流れた。

 それは次第に勢いを増し、彼女の太腿へと落ちていく。

 普段の鈴を転がすような声は、大きく震えている。


「ああ。料理や家事が出来るようになっただけじゃない。俺の醜い所を受け入れてくれた。成長したな、アリス」

「おにいちゃんに、ちかづく、ために。おとなに、なるために、がんばったん、だから」


 七歳上の悟に少しでも近付けるように。守られる子供ではなく、頼られる大人になれるように。

 訥々《とつとつ》とした声からは、五年分の感情が溢れている。


「本当に、本当に、頑張ったな」

「う、ん……。がん、ばった……。がんばった、んだから…………」


 傷付けてしまった心が少しでも癒されればいいと、撫でる手は止めない。

 感情が決壊したのか、亜梨栖の想いはもう言葉にならず、嗚咽おえつだけがリビングに響く。

 どれくらい経っただろうか。ずっと亜梨栖を撫で続けていたが、彼女が顔を上げた事で手が離れる。

 涙に濡れた瞳は、吸い込まれそうな程に澄んでいた。


「ありがとうございます。夢が叶いました」

「夢? 俺に撫でられるのが?」

「はい。ずっと、ずっと撫でて欲しかったんです」

「これくらいならいつでもだ」


 こんな些細な事で亜梨栖が喜んでくれるのなら、何度だって出来る。

 胸を張って応えれば、拗ねるような恥ずかしいような上目遣いをされた。


「子供っぽいって思いませんか?」

「思う訳ないだろ。むしろ、甘えて欲しいくらいだよ」


 亜梨栖の内面が昔とあまり変わっていないのは、既に分かっている。

 もちろん悟を支えたいという思いもあるだろうが、甘えたいという思いもあるはずだ。

 深紅の瞳がすいっと気まずそうに逸らされ、おずおずと小さな口が開かれる。


「…………では、偶にでも」

「ああ。遠慮するなよ」

「はい」


 しつこく念を押す事はせず、ソファから立ち上がった。

 時間を確認すれば、もうそろそろ寝ても良い頃だ。

 むずがゆい空気の中、亜梨栖と一緒に歯を磨いて寝る準備を終える。

 自室に戻ろうかと思った所で、シャツの裾をくいくいと引っ張られた。


「あの、今日も……」


 乳白色の肌を薔薇色に染め、うような表情で悟を見上げる亜梨栖は凄まじく可愛らしい。

 おねだりに首を縦に振りたくなるが、ぐっと奥歯を噛んで我慢する。


「昨日は特別だ。今日は自分の部屋で寝る事」


 昨日はわだかまりがなくなった日なので許したが、二日連続はやり過ぎだ。

 亜梨栖と寝たいという欲を押し込めて却下すれば、彼女の表情が凍り付く。


「そんな……」

「…………偶にならいいから今日は、な?」

「あ……」


 あっさりと折れる意思に呆れつつ、さらさらの銀糸を撫でて懇願した。

 端正な顔はすぐに蕩け、駄々を捏ねる事なく頷く。


「分かりました。おやすみなさい、兄さん」

「おやすみ、アリス」


 亜梨栖と別れ、横になって目を閉じる。

 激動の一週間が過ぎ、当初の予定とは大幅に悟の生活が変わってしまった。

 それでも、何の憂いも無くなった今の生活の方が良いと自信を持って言える。


「これから、少しずつ頑張りますかね」

 

 彼女も学校が始まるので、これまでのようにはいかないだろう。

 しかし充実した生活になるなと笑みつつ、睡魔に身を委ねるのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] これから始まる新婚生活楽しみですなぁ(違 [一言] さぁここから今までとは違う日常の開始! どんな砂糖生活が始まるのかっ
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