第55話 拗ねと勘違い
「むー」
悟の隣で不機嫌さを隠そうともしない亜梨栖。
澄んだ瞳が細められ、じとりとした視線を送ってきている事からも、彼女が相当ご立腹なのが伝わってきた。
しかし、悟にはなぜ亜梨栖がそんなにも機嫌が悪いのか分からない。
「どうした?」
「……えっち、しないんですか?」
「ぶっ! いや、何を言ってるんだよ!?」
瑞々しい唇から出た爆弾発言に、思わず吹き出してしまった。
まだ付き合ってすらいないし、そもそも悟は年齢的な話をまだ納得出来ていないのだ。
この状況で体を重ねる事だけは有り得ない。もちろん、亜梨栖が高校を卒業する前に付き合ったとしても。
それは、妊娠も同じだ。
苦言を呈すが、彼女の唇は尖ったままだ。
「私は、したいですよ?」
「…………それは嬉しいけど、一先ず落ち着こうか」
子供を作りたいと思う程に悟を好いてくれるのは嬉しい。
しかし、段階をすっ飛ばしては駄目だ。
にやけそうになる頬を理性で固く縛り、真っ直ぐに亜梨栖を見つめる。
「アリスは高校生だ。そんな状況で妊娠したら、後が大変な事になる。それは分かるか?」
「は、はい? ……まあ、何となくは。多分、兄さんにも迷惑を掛けてしまいます」
高校生での妊娠など、間違いなく世間の目が厳しくなるだろう。禁忌を犯していると言ってもいい。
それに、何だかんだで悟が危ない橋を渡っているのは確かなのだ。
亜梨栖とて頭では分かっているらしく、ぱちりと瞬きをしたのちに、顔を曇らせて頷いた。
「それもあるけど、俺個人としてはアリスに社会を経験して欲しいってのもある」
「経験、ですか?」
「ああ。世間の荒波に、一度は揉まれて欲しいんだよ」
高校生を卒業した瞬間に結婚し、専業主婦になる。
そんな未来も選択肢の一つだが、亜梨栖には社会がどういうものかを味わって欲しい。
「家を守る人を楽だとは言わない。それはそれで辛いだろうからな。でも、辛いのは社会人も同じだ。毎日楽しく仕事をしている人なんて、殆ど居ないだろうさ」
少なくとも、悟は毎日楽しく仕事などしていない。
もちろんやりがいもあるが、殆どは苦労ばかりだ。
評判の良い星爛高校に通っている亜梨栖であっても、社会に出ると傷付くだろう。
それでも、働く事で得られる経験は確かにあるのだ。
散々大人の苦労を間近で見ているからか、亜梨栖の顔が不安に彩られた。
「そう、ですね。お母さんも兄さんも、毎日大変そうですから」
「俺は程々だけど、それは置いておいて。アリスもきっと苦しい時が来るだろうな」
世間からすれば、亜梨栖は非常に難しい立場だ。
働くだけでも問題があるだろうし、美人なりの苦労もあるだろう。
しかし、それを一人で抱え込む必要はない。
「でも、アリスが苦しい時は俺が支える。曲がりなりにも社会の先輩だからな。任せてくれ」
「……はい」
胸を叩いて笑顔を浮かべれば、端正な顔が僅かに綻んだ。
「その上で、社会に出て辛い目に遭って欲しいんだ。きっと、それはアリスの財産になるだろうから」
悟の願いは、きっと独り善がりなものなのだろう。
強引に意見を押し付け、亜梨栖を苦しませるのだから。
けれど仮に卒業後すぐ子供を作ったとして、その後亜梨栖が働きたいと言った際に、彼女が世間を知っているかいないかでは大きな違いが出るはずだ。
励ますように小さな手を握れば、彼女が一瞬だけ目を見開き、それからゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
「ならよし。これで話は終わりだ」
「いえ、というか話が真剣過ぎて割り込めませんでしたが、流石に私も高校生で妊娠は考えてませんでしたよ?」
「え? じゃあ何で拗ねてたんだよ」
亜梨栖は悟の事をよく考えてくれているので、妊娠の件で拗ねるのはおかしいと思ってはいたのだ。
首を傾げて尋ねれば、亜梨栖が頬を僅かに赤く染めて再び唇を尖らせる。
「……だって、えっちしないってお母さん達に言いましたし」
「いや、もちろんそのつもりだけど…………。そっち?」
想い人の口から心臓に悪い発言が出たのは置いておく。
よくよく思い返せば、先程の亜梨栖は「したい」と言っただけで高校生のうちに子供を作りたいとは言っていなかった。
しかし彩や奏に注意されたせいで、意識がそちらに持っていかれてしまったのだ。
凄まじい勘違をしたと自覚し、頬にぶわりと熱が灯っていく。
亜梨栖はというと、良いネタを見つけたと言わんばかりに唇の端を吊り上げた。
「そりゃあそうですよ。高校生で妊娠だなんて、駄目な事くらい私にも分かります」
「そ、そうだよな」
「でも、兄さんが熱弁する程に私を大切にしてくれている事も分かりました」
「あぁぁぁぁ…………」
大人として窘めねばと、亜梨栖に真正面から、大真面目に考えを伝えてしまった。
彼女の口からその事実を蒸し返され、羞恥に限界が訪れる。
亜梨栖の顔を見ていられず、思いきり顔を俯けた。
「ありがとうございます、兄さん。私、すっごく嬉しかったですよ」
「頼む! 今だけはそっとしておいてくれ!」
「そんな事する訳ないじゃないですか。正直、惚れ直しました」
「やめてくれー!」
この場に居ては精神が持たないと、自室に逃げ込む。
しかし亜梨栖がついてきて、扉を閉められなくなった。
今だけは声も聞きたくなくて、ベッドに飛び込んで毛布を頭から被る。
すると、くすくすと軽やかな笑い声がすぐ傍から聞こえた。
「かわいいですねぇ。そんな兄さんをもっと辱めちゃいましょう」
もう散々悟を揶揄ったのに、まだ亜梨栖は続けるつもりらしい。
止めて欲しくて首を振るが、当然ながら彼女には見えておらず、息を吸い込む音が耳に届いた。
「彩さん『同棲』って言ってましたよ? 私達が付き合ったと思ってますねぇ」
あの時はドタバタしていて気にも留めなかったが、確かに彩はそう口にしていた。
しかも気付かず流してしまったので、勘違いしたままだ。
鋭い追い打ちに、悟の口から呆けたような声が出てしまう。
「おぅ……」
「その上でお母さんが『してもいい』と言ったんです。この意味、分かりますよね?」
「もう……。もう勘弁してください……」
母親である奏から許可をもらったのだから、遠慮する必要はないのだと、亜梨栖が華やいだ声で告げた。
未成年である亜梨栖に手を出すのは明らかに犯罪なのだが、奏は気にしないらしい。
むしろ、あの口ぶりからすると推奨しているようだった。
羞恥に思考が炙られ過ぎて、このままでは頭から湯気が出てしまう。
必死に懇願するが「ヤです」と実に楽しそうな声が返ってきた。
「いつでも手を出してもいいんですよ? 私はもちろん喜んで受け入れます」
「そういうのは付き合ってからだろうが!」
「体の関係から始まる恋というのもありますし、気にしたら負けですよ」
「順序がぐちゃぐちゃだ……」
既にお互いの想いを知っているのに、体から始まる関係というのもおかしな話だ。
しかも、悟の理性に限界が来ても亜梨栖は受け入れるという。
それどころか、状況によっては悟を煽る可能性もありそうだ。
今の悟を好きになって欲しいという、くだらない見栄を悟が張り、告白を先延ばしにした結果なのは分かっている。
それでも、亜梨栖の発言はあまりに精神に悪すぎる。
「お願いします、暫く放っておいてください……」
「ふむ。私に手を出さない事に関して十分仕返しもしましたし、このくらいで勘弁して差し上げましょう」
「ありがとうございます!」
必死に懇願すると、亜梨栖は取り敢えず許してくれた。
高校生に手を出していいのか、という問題はさておき、取り敢えず頭の熱を冷やす。
亜梨栖も悟の願い通り一人にしてくれるようで、リビングへ向かう足音が耳に届いた。
「ああそれと、揶揄いはしましたが、えっちしたいっていうのは本当ですからね。もちろん、子供も作りたいですよ」
最後にとびっきりの爆弾を投下して、ぱたりと扉が閉まった。
再び羞恥が頬に集まり、すぐに冷やす為に毛布を剥ぎ取る。
「ホント、勘弁してくれ……」
悟の自爆から始まった騒動なので、誰かを怒るつもりなどない。
それでも、あまりにも精神に悪い発言の数々に、重い溜息を吐き出すのだった。




