第51話 昔のように
髪の話は一先ず終わり、その後は何をするでもなく無言の時間を過ごす。
とはいえ亜梨栖とはお互いの足が触れる程に近く、空気もどこか柔らかい。
時折鼻を掠めるシトラスの香りや、太腿が触れる際には悟の心臓が跳ねるものの、それはこれまでと変わらないので取り乱す事はない。
むしろ、悟の本性を受け入れてくれたと改めて実感出来て安らぐのだ。
そんな風にまったりと過ごしていると、いつもより早い時間に睡魔が襲ってきた。
「ふわぁ……」
「今日はいろいろありましたからね。もう寝ますか?」
「ん……。アリスには悪いけど、そうさせてもらおうかな」
これから頑張ると宣言したにも関わらず、すぐに寝るのは申し訳ない。
しかし無理に起きて傍に居ても、亜梨栖は喜ばないはずだ。
悟の予想通り、端正な顔はふわりと柔らかく綻ぶ。
「全然悪くなんてないですよ。むしろ、私の為に無理してたら怒ってました」
「……優し過ぎるっての」
分かってはいたものの、悟の事を第一に考える亜梨栖に苦笑を零す。
ただ、亜梨栖としてはそんなつもりはないらしい。
悟の呟きに、唇の端を吊り上げた。
「でしたら、そんな優しい私のお願いを聞いてくれますか?」
「そういう態度を取る時って、大体ロクな事にならないよな」
「まさか。双方にメリットのある提案ですよ」
「信用出来ねぇ……」
低い声を零してしまったが、亜梨栖は悟に害のある行動をしないと確信している。
とはいえ、何かが起きて悟の心臓が虐められるのは間違いない。
その点に関しての疑いの視線を向ければ、亜梨栖が澄ました顔で立ち上がった。
「取り敢えず、寝る準備をしましょうか」
「……分かったよ」
悟が早く寝るのであって、亜梨栖はそのままリビングに居ていいはずだ。
にも関わらず寝る準備をし始めた事で、一つの予想が立つ。
しかしギリギリまで知らないフリをしておこうと、あえて何も言わず準備を終えた。
そして、いよいよ自室に退散する所で、亜梨栖がうっすらと頬を赤らめて悟を上目遣いで見つめる。
「あの、一緒に寝ませんか?」
「まあ、そうなるよな。……うーん」
まだ寝なくても良いはずなのに準備をしたという事は、亜梨栖のお願いはそれしかない。
おそらく、蟠りが完全になくなったので、お願いしても良いと思ったのだろう。
正直なところ物凄く魅力的なお願いなのだが、素直に頷けはしない。
想いを伝えてすらいない男が悪いと自覚していてもだ。
眉間に皺を寄せて考え込むと、亜梨栖が納得のいかなさそうにほんのりと唇を尖らせた。
「何か問題があるんですか?」
「問題大ありだ。付き合ってもいないのに、一緒に寝るのは駄目だろ」
「でもすぐに断らないって事は、一緒に寝たいんですよね?」
「…………否定はしない」
欲望まみれの内心をあっさりと見透かされ、羞恥が頬を炙っていく。
すっと視線を逸らして小さな声で応えれば、亜梨栖が妙ににこやかな笑みを浮かべた。
「でしたら、再会した幼馴染が仲を深める為に、昔のように一緒に寝る。でどうでしょうか」
「うわぁ……。俺に負けないくらいの凄い言い訳だな」
「私は兄さんと一緒に寝たいんです。その為なら言い訳だろうと何だろうとしますよ」
深紅の瞳は恐ろしい程に澄んでおり、おそらく何を言っても亜梨栖の考えは変えられないだろう。
言い訳で逃れようとした社会人と、言い訳で絶対に逃すまいとする女子高生。
そして、先程悟が亜梨栖の髪を触らなかった時とは違い、明確な建前が用意されている。
結局、意思が折れたのは社会人だった。
「……分かった。でも、俺はアリスの方を向かないからな」
「むぅ……。そうきましたか」
髪をがしがしと掻きつつ、条件を出す。
流石にこれ以上は駄目だと悟ったようで、納得いかなさそうに眉を下げつつも頷いてくれた。
「兄さんにしては譲歩してくれましたし、良しとしましょうか」
「よし、なら寝るか」
今までのやりとりで眠気はある程度飛んでいるが、体と心が疲れているのは確かだ。
亜梨栖を連れて自室に入り、ベッドの奥側に陣取る。
万が一でも手を出す事はないが、これならば何があっても亜梨栖は逃げられるだろう。
「ほら、おいで」
「はぁい」
悟と顔を合わせて寝られずとも、一緒に寝られるだけで嬉しいようだ。
亜梨栖がとろりと幸せが滲み出て生まれたようなはにかみを見せ、ベッドに入ってくる。
ソファでも傍に居たし、彼女とは子供の頃に何度も一緒に寝た事はある。
それでも、今の亜梨栖と一緒に寝るというだけで心臓の鼓動が騒ぎ立てた。
「ふふ、こうして一緒に寝るのは本当に久しぶりです」
悟の内心を知ってか知らずか、亜梨栖がベッドに体を預け、シーツに顔を寄せる。
横になったせいでシャツが僅かにめくれ、真っ白なお腹が少しだけ見えてしまった。
それだけでなく、悟の方へと体を向けているせいで、母性の塊が潰れているのが分かってしまう。
(もしかして、一緒に寝るのは失敗したか……?)
亜梨栖がベッドに入っただけでこれだ。
安易に許可した事を後悔しつつ、理性を固く縛る。
そんな悟をよそに亜梨栖がすんすんと鼻を鳴らして、へにゃりと顔を蕩けさせた。
「兄さんの匂い、安心します……」
「……堂々と匂いを嗅がれると恥ずかしいんだが」
手を伸ばせば触れられるだけでなく、簡単に押し倒せてしまう。
それがあっさり出来る程に油断した姿は、悟の理性にあまりにも悪い。
頬に熱を集めつつ苦言を呈すが、亜梨栖が頬を緩めたままシーツに頬ずりした。
「やーですよ。……本当に、良い匂いです」
「ああもう、勝手にしろ。俺は寝るからな」
これ以上亜梨栖の姿を見ていては感情が暴発しそうで、彼女に背を向けて寝転ぶ。
出来る限り壁に体を近付けると、「もう」という不満そうな声が掛かった。
「ベッドは広いですし、そんなに端に寄らなくても大丈夫ですよ」
「念の為だよ。別に窮屈じゃないし、平気だ」
悟はベッドを広く使いたくて、シングルではなくセミダブルにしている。
なので悟と亜梨栖が一緒に寝たところで、端に寄れば体が触れる事はない。
そして狭くなる事に関しても、こうなる時点で覚悟していた。
また、悟は他人が傍に居ても寝られる質だし、それで狭くなっても文句などない。
さらりと答えて寝ようとすれば、とんとんと背中が軽く叩かれた。
「だーめーでーす。我儘を言ったのは私ですが、ちゃんと兄さんに寝て欲しいのも事実なんですよ?」
「これでもちゃんと寝られるって」
「……これ以上そのままでいるなら、後ろから抱き着きます」
「半分だな。よし分かった」
底冷えのするような声に背筋が震え、すぐに体をベッドの中央へ寄せる。
薄着の亜梨栖に抱き着かれたら、母性の塊の感触を背中で味わう事になるのだ。
男としては是非とも味わってみたいが、間違いなく眠れなくなるだろう。
あっさりと掌を返したからか、後ろから唸り声が聞こえてくる。
「むー。そんなにあっさり動かれると、それはそれで納得がいきませんね。そんなに嫌だったんですか?」
「……そんなの、言わなくても分かるだろうが」
「はい。でも、抱き着けなかった仕返しです」
「はぁ……」
結局、どちらに転んでも亜梨栖の得にしかならないように、悟は泳がされていた。
小悪魔だなと呆れつつ息を吐き出し、目を閉じる。
亜梨栖もこれ以上悟を揶揄うつもりはないようで、静かになった。
「「……」」
月の光が差し込まない暗闇の中、悟と亜梨栖の吐息だけが響く。
先程までドタバタしていて眠くなかったが、やはり疲れていたらしい。
すぐに眠気が襲ってきて、瞼を閉じさせる。
しかし眠りに落ちる手前で、とんと固いものが背中に触れた。
細く、緊張しているような吐息が背中に当たる。
「アリス……?」
「…………今だけ、これだけ、許してくれませんか?」
「分かったよ。おやすみ、アリス」
悟が亜梨栖に触れていないので、これくらいは許可してもいいだろう。
それに、これは肝心な言葉を口にしないどころか、頑張ると言ったにも関わらず向き合って寝るのを拒否した悟の罪滅ぼしでもある。
小さく笑みつつ言葉を掛ければ、安堵の溜息が背中に掛かった。
「おやすみなさい、兄さん。……もう、一人で苦しみを抱えないでくださいね」
七歳下の子供に恋をした罪悪感。女性からの信頼を利用しようとした負い目。
それらを一人で抱えるなという亜梨栖の優しさが胸に沁みる。
出来る事なら、今すぐに振り返って彼女を抱き締めて寝たい。
しかし今更言葉を引っ込める事など出来ないし、悟にその資格はないのだ。
せめてものお礼を返す為、短い言葉にありったけの感謝を込める。
「……ありがとう」
その言葉をどう受け取ったのか、くすりと笑うような吐息が背中に届いた。
もどかしく、申し訳なく、けれど間違いなく幸せな時間。
そんな時間を出来るだけ堪能したかったのに、眠気が悟の意識を沈めるのだった。




