第49話 誘惑は続く
車の中で気を失った亜梨栖を運ぶ訳にもいかず、運転席で待っているとそう時間を掛ける事なく彼女が起きた。
それから家に帰るまで亜梨栖は一言も話すことなく、すぐに自室へと逃げて行く。
昔のように思いきり甘えられるのも二度目なのだが、恥ずかしいものは恥ずかしいようだ。
車内で見たとろりと蕩けた瞳や、蜜を含んだように甘い笑顔に虐められた心臓を、ソファに座って落ち着かせる。
「もう拒絶する必要はないけど、心臓に悪いな……」
全てを知られた上で甘えられたのだから、寝ぼけた亜梨栖の願いを叶えるものやぶさかではない。
しかし体ごと甘えるような全力のおねだりは、胸のつっかえが取れたばかりの悟には破壊力があり過ぎた。
ぐっと堪えて強引に起こしたが、これで正解だったはずだ。
そうでなければ、今以上に亜梨栖は羞恥に炙られていただろう。
「ま、何はともあれ飯だな」
もう後ろ向きに悩む必要はないので、気持ちを切り替えてキッチンに向かう。
花見に行ったのは日が暮れだしてからだが、長話をしたせいで普段の晩飯の時間を過ぎている。
念の為に買い物を済ませ、白米の炊ける時間を予約しておいて正解だった。
しかも下ごしらえを亜梨栖が済ませてくれていたので、後は焼くだけの簡単なお仕事だ。
「家でハンバーグを作るなんて、いつぶりだろうな」
冷蔵庫からタネを取り出し、フライパンを熱する。
十分温まる間にソースを作ろうかと再び冷蔵庫を開けば、コンロに火を付ける音が聞こえたらしい。
亜梨栖が未だに頬を真っ赤に染めながら、自室の扉から顔だけを出した。
「……私が作りますよ」
「焼くだけだから手間でもないし、任せてくれよ」
「でも……」
「これも変わった俺を見て欲しいって行動の一つなんだ。今日くらいはさせてくれないか?」
亜梨栖の代わりに料理した事はあるので、何が変わったかと言われても見た目には分からないだろう。
それでも、お世話されっぱなしでは駄目だ。
頬を緩めて亜梨栖を見つめれば、潤んだ瞳が下を向いた。
「……すみません。今日はお願いします」
「おう。任せてくれ」
「うぅ……。どうして寝ちゃったんだろう……」
頬の色から察してはいたが、未だに先程の件を引き摺っているらしい。
後悔を口にしながら、亜梨栖がゆっくりと扉を閉めて自室に引き籠った。
感情を素直に出す姿が微笑ましくて、含み笑いをしつつソースを作っていく。
「いつか、あんな風に甘えてこられるのかねぇ」
想い人が甘えてくるというのは、嬉しい事のはずだ。
しかし、あまりにも全力だと悟の理性の枷が外れてしまう。
胸のつっかえがなくなったとはいえ、社会人が高校生に手を出すなど許される事ではない。
「まあ、その時は俺が我慢すれば良いだけだな」
今のところ最後の一線は超えないつもりだが、接触は増えるだろう。
ほんの数時間前まで、亜梨栖との関係が無くなってしまうかもしれないと怯えていたにも関わらずだ。
随分気楽に考えられるようになったな、と笑みを零して作り終えたソースを脇に置いた。
既にフライパンは熱々であり、獲物を今か今かと待ちわびている。
「さてと、アリスの為に頑張りますか」
美味い飯を食べてもらう為に、気合を入れてハンバーグを焼いていくのだった。
「「いただきます」」
会心の出来のハンバーグを前に、二人で食材に感謝の意を示す。
亜梨栖は立ち直っており、平静な表情だ。
とはいえ僅かに頬が赤らんでいるが、藪を突く気はない。
そして、その美しい無表情もハンバーグを口に含めば柔らかく綻ぶ。
「美味しいですねぇ」
「焼き加減は完璧だって自信があるぞ。まあ、それだけしか手を加えられなかったけど」
「それだけで十分ですよ」
「いやいや。折角作るんだから、もっとあれこれやりたいんだ。次は煮込みでもいいかもなぁ」
たかがハンバーグと侮る事なかれ。料理方法次第でいくらでも味を変える事が出来るのだ。
久しぶりに燃え上がる料理熱にあれこれと思考していると、向かいの少女が呆れた風に苦笑した。
「私が料理するはずなんですがね……」
「まあ、偶にやらせてくれると助かる。もちろん、アリスの料理は最高だぞ」
いくら再燃したとはいえ、仕事終わりに料理するのは疲れる。
もちろん亜梨栖に食べてもらえると考えれば、出来なくはない。
しかし、料理をしたいと言ってくれた亜梨栖の厚意を否定しては駄目だ。
甘える形にはなるが妥協すれば、彼女が安堵と喜びに少しのからかいを混ぜた笑みを見せた。
「なら良かったです。というか、その口ぶりからすると期間は延長ですか?」
「期間の延長? ……ああ、そういう話だったなぁ」
花見の件でつい忘れてしまっていたものの、今は亜梨栖とのお試し期間だ。
それは明日で終わり、本来ならば亜梨栖を三城家に帰すつもりだった。
しかし、そんな事をしなければならない理由など、とっくに無くなっている。
亜梨栖とてそれを分かっているからこそ、悪戯っぽく目を細めていた。
「もちろん延長だよ」
「では、いつまでですか?」
「そうだな……。アリスが『実家に帰らせていただきます!』って言うまでかな」
「そんな事を言う日は訪れないので、無期限ですね」
冗談を言えば冗談で返す、この気楽な関係が心地良い。
ただ、飯を食べながらだったり、冗談で流していい話でもない。
一度箸を置き、笑顔を引っ込める。
「でも、本当に良いのか? 俺がどんな人間なのかはもう知ってるはずだ。明日まで考える時間は――」
「愚問ですね、そんなの必要ないです。私が兄さんから離れる事は、絶対にありませんから」
亜梨栖が表情を真剣なものへと変え、悟の言葉を遮った。
深紅の瞳には、悟にすら曲げられない強い意志が秘められている。
強くなった幼馴染に、呆れと感心を混ぜた笑みを落とした。
「後悔するなよ」
「私が後悔するとすれば、兄さんを追い詰めてしまった事ですよ」
「それは違う。……俺がそう思っている事は、覚えておいてくれ」
「はい」
どちらが悪いのかという話になると、悟達はどちらも自分のせいだと主張する。
なので意見の押し付けはせず、亜梨栖も否定する事なく頷く。
話が一度終わった事で箸を取ろうとすれば「忘れてました」と妙に明るい声が耳に届いた。
「兄さんが言ってくれるのを待つと言いましたが、何もしない訳じゃないですからね?」
茶目っ気たっぷりの片目を閉じる仕草に、心臓が拍動のペースを早める。
これからは悟の頑張る番だと思ったが、どうやら違うらしい。
嬉しくはあるものの、背中を這い上がる寒気に頬が引き攣ってしまう。
「……何で?」
「どうせ兄さんの事でしょうから、言うのは私が高校卒業まで待つつもりでしょう?」
「………………まあ、そうだけど」
年齢の問題を一番簡単に解決する方法は、亜梨栖の高校卒業を待つ事だ。
なのでそれまでは関係を明確にするつもりなどなかったのだが、完全に見破られてしまっている。
気恥ずかしさに頬を掻きつつ視線を逸らせば、呆れた風に溜息をつかれた。
「私を大事にしてくれるのは嬉しいですが、生憎とそこまで待てません」
「いや、でも社会人と高校生って問題だろうが。何度も言ってるけど、俺はまだ年齢的な所を認めてないんだぞ」
「そうは言いますが、禁断の恋って燃えません? 女子高生と付き合える社会人なんてほぼいませんよ。そんな美味しい状況を見逃していいんですか?」
「そういうのは漫画とかの世界だから人気があるのであって、下手すると俺がお縄につくからな!?」
女子高生と社会人が付き合うのは、夢のような出来事だ。もしかすると、遠慮なく付き合う人もいるのだろう。
しかし悟は亜梨栖と二人で住んでおり、警察のお世話になる可能性が非常に高い。
理性を擽るような甘い声で思いきり煽られ、先程の真剣な空気とのあまりの温度差に声を張り上げてしまった。
亜梨栖はというと、どこ吹く風というように頬を紅潮させて艶っぽく笑む。
「バレなきゃ正義なんですよ。という訳で、これからも貴方を誘惑します。覚悟してくださいね?」
この瞬間、悟はこれからも亜梨栖に心を乱され続けるのだと確信したのだった。




