第48話 恋をした瞬間
夜の車道を少し古びた軽自動車が走る。
その車を運転する男性を、周囲の景色に目もくれず亜梨栖は眺めていた。
(かっこいいなぁ……)
花見に来る際にも思ったが、悟が運転する姿に改めて見惚れる。
先程悟の口から告げられた、人として問題のある性根。
普通ならば犯罪者だと、狂っていると引くのだろう。
しかし、亜梨栖の胸に去来したのは歓喜だけだった。
(それだけ私を想ってくれてたって事だもん。嫌がるはずがないよ)
そもそも、好きな人に見栄を張ったり、独占欲を持つのは当たり前だ。
だからこそ昔の亜梨栖は本当に悟を困らせる事などしなかったし、今も努力している。そして、悟に亜梨栖以外の女性が近づくと醜い感情が湧き上がってしまう。
亜梨栖はそれも自分だと受け入れているが、悟の場合は違う。悟の父親の存在が、そして亜梨栖や奏、彩の存在がその考えを良しとしなかった。
(誰にも頼れる訳がないよね。……本当に、昔の私は馬鹿だったなぁ)
悟は母である彩に迷惑を掛けては駄目だと頑張っていたのだ。なのに「自分を捨てた男と同じ性根だ」と彩に言うのは無理がある。
そして、奏は悟を信用して亜梨栖と一緒に過ごさせていた。彩と同じように、打ち明けられるはずがない。
また、亜梨栖も論外だ。もし子供の頃に全部話されたのなら、亜梨栖は喜んで悟の言う事に従っただろう。
悟の理想の女性になるように、性格から外見まで全てを変えるはずだと自信を持って言える。
そして、それはそれで悪くないな、と今ですら思っている時点で、亜梨栖も悟に負けないくらいにおかしい。
結果として、限界が訪れる日まで、悟はずっと胸に負い目を抱え込んでいた。
そんな事を考えもせず、甘えてばかりだった昔の自分に呆れて溜息を零す。
(でも、それも終わり。お兄ちゃんの全部を知って、それでも傍に居たいんだから)
まだまだ悟の隣に並ぶには努力が足りないかもしれない。
それでも、何も知らないまま盲目的に悟に従う昔の亜梨栖ではないのだ。
年齢的な面は未だに納得していないようだし、付き合えてもいないのだが、そんなのは些細な事だろう。
悟はきちんと約束してくれたのだから。
胸に沸き上がる温かいものを噛み締め、悟の姿を眺め続けていると、信号待ちで停止したタイミングで悟が眉根を寄せて亜梨栖を見た。
「……いい加減、こっちを見ないでくれるか?」
「我慢してください。かっこいい兄さんの運転姿を目に焼き付けてるんですから」
「……ブレないなぁ」
「ブレる訳がないでしょう? むしろ、一生見ていられます」
悟としては亜梨栖に嫌われるのも覚悟の上での暴露だったようだが、むしろもっと悟が好きになったのだ。
絶対に止めないと視線を送れば、来る時と違って悟の顔に羞恥が混じった。
「ホント、頼むよ……」
「おや、まさか照れるとは。これが心境の変化ってやつですか?」
「そんな分かりきった事を言葉に出すんじゃない!」
おそらくだが、花見に行く際は亜梨栖の行動に反応する余裕がなかったのだろう。
胸のつっかえが取れた結果、素直に照れてくれたらしい。
気恥ずかしさを誤魔化すように声を張り上げられたものの、少しも怖くない。
むしろもっと揶揄いたくなったが、これ以上やると本当に怒られそうだ。
「ふふ。慌てる姿を見せてくれましたし、取り敢えず満足です」
「はぁ……。心臓に悪い……」
ちょうど車が走り出したタイミングで前を向き、車の揺れに身を任せる。
外の景色に興味がなくてぼうっとしていると、先程までの楽しさとの落差でだんだん瞼が重くなってきた。
(起き、なきゃ……。お兄ちゃんに、悪い、から……)
運転してくれているのに、助手席に座った亜梨栖が寝るのは失礼だ。
なのに、睡魔が凄まじい勢いで亜梨栖の意識を刈り取っていく。
頑張って目を開けるつもりだったが、いつの間にか眠りに落ちていた。
「あいつ、へんないろのかみだよなー」
「なー。おかしいよな」
幼稚園に入ったばかりの亜梨栖を迎えたのは、そんな言葉だった。
そして外国人でもなければ、日本人としてもおかしい亜梨栖は異物として扱われ、誰も相手にしなくなる。
奏に何度も心配されてその度に強がったものの、やはり寂しくて苦しかった。
「すべりだいであそぼうぜー!」
「おー!」
「きょうはおりがみでなにつくる?」
「つるさんにしよ!」
男の子も女の子も、亜梨栖を居ないものとして扱う。
先生も最初は助けようとしてくれたが、どうしても仲間外れにされる亜梨栖に手を焼いていた。
そんな生活を続けて一ヶ月も経てば亜梨栖も諦めがつき、日の当たらない壁際でひっそりと時間を潰すようになる。
このままずっと変わらない毎日を過ごすと思っていたが、唐突な変化が訪れた。
「松原悟。よろしくね」
亜梨栖の目と髪を怖がらず、むしろ綺麗だと言ってくれた男の子。
幼稚園児の亜梨栖にとってはあまりにも大人びていて、頼りになるお兄ちゃん。
日の光に嫌われ、同年代からも疎まれた亜梨栖を照らしてくれる、太陽のような人。
そんな人に出会えたのが嬉しくて、今まで一人だったから沢山遊びたくて、ひたすらに甘えていった。
「はい! おにいちゃんのにがおえだよ!」
幼稚園児の遊びなど、少しも面白くないはずだ。
しかし、悟は柔らかく笑んで亜梨栖の頭を撫でてくれる。
「ありがとう。アリスちゃん」
「えへへー」
もっと撫でて欲しい、もっと傍に居たい。
幼稚園で一人になるのが何だというのだ。悟という光を得た亜梨栖には、そんなもの少しも苦しくなかった。
ただ、いくら悟が亜梨栖の世話をしてくれるとはいえ、ずっと一緒には居られない。
亜梨栖が我儘を言った事で泊まってくれる時もあったが、大半は亜梨栖を寝かしつけた後に家へと帰っていく。
その寂しさに寝付けず、嘘寝をして布団の中で起きていた事も多い。
「ずっとおにいちゃんといっしょがいいなぁ……」
ずっと傍に居て欲しい。悟が居れば何も要らない。
おそらく悟に初めて会った時に、亜梨栖は恋をしてしまったのだろう。
けれど全く自覚する事なく、これからも悟がずっと側に居てくれると勝手に信じていた。
「……ろ。……リス」
ゆっくりと、気遣うように体が揺さぶられる。
重い瞼を開けて声の方を見れば、そこには愛しい男性が居た。
「おに……ちゃん……?」
「到着だぞ。ほら、降りてくれ」
どこに着いたのか、ここがどこなのか。
頭が回っておらずよく分からないが、少なくとも悟は亜梨栖に移動して欲しいようだ。
ただ、全身を未だに眠気が包んでおり、動きたくない。
本能が求めるままに、悟へと手を伸ばす。
「おにーちゃん。つれてって」
「……まあ、そうなるよな」
「どうしたの? ねぇ、おにいちゃん。つれてって」
呆れきったような呟きに首を傾げつつ、もう一度手を伸ばして催促した。
なぜか悟は溜息をつき、亜梨栖へと身を寄せる。
今度こそ連れていってくれるという嬉しさから頬が緩んだ。
しかし彼は抱き締めてくれず、亜梨栖の額を中指で弾いた。
「あうっ。……どうしてぇ?」
力が全く込められていなかったので痛くはない。
それよりも、悟に拒絶されたという事実で亜梨栖の胸が痛む。
途方に暮れたような声を漏らすと、悟が渋面を作りつつぐりぐりと額を押してくる。
「寝ぼけてないで、ちゃんと起きてくれ」
「おきる……。起き、る?」
ようやく頭が回り始め、周囲へと視線を向けた。
いつの間にか駐車場に着いており、亜梨栖はドアの外の悟に手を伸ばしている。
状況を理解すると、先程までの我儘ぶりを思い返し、頬が火傷しそうな程に熱を持ち始めた。
「あ、あの、その……」
「ストップ。暴走するなら、家に帰ってからにしてくれ。流石に車内で暴れられると怖い」
パニックになった頭で悟から逃げ出そうとするが、肩を掴まれて出鼻を挫かれた。
至近距離に、大好きな大人びた男性の顔がある。
さらさらの黒髪に、澄んだ茶色の瞳。
整った顔立ちは心配の色を宿しても、亜梨栖の心臓を容赦なく揺さぶる。
先程の恥と今の状況。それらは、亜梨栖の思考をショートさせるのに十分だった。
「…………きゅう」
「あ、アリス!?」
急激に意識が遠くなり、体から力が抜けていく。
意識が途切れる寸前、「どうすんだよ……」と困りきった声が聞こえた気がしたのだった。




