第47話 その意思は誰のものか
「何、を……?」
突然の謝罪に頭が混乱してしまう。
呆けたように言葉を漏らした悟へと、頭を上げた亜梨栖の澄んだ瞳が向けられた。
形の良い眉は、へにゃりと下がっている。
「私が貴方を追い込んでしまった事。何も知ろうとせず、貴方に甘えていた事。本当に、すみません」
「離れたのは、俺のせいだ。アリスのせいなんかじゃ――」
「私のせいですよ。無邪気に甘えて、貴方の苦しみを理解しようとしなかった。貴方は悩みとは無縁の存在だと、勝手に思ってしまっていたんですから」
「そんな事はない。ないんだよ」
亜梨栖に相談出来なかった事は事実だが、それを彼女のせいにするつもりはない。
そもそも、狂人の考えに至った悟が悪いのだから。
亜梨栖が気に病む必要はないのだと、念を押して告げた。
しかし、彼女はゆっくりと首を振る。
「ありますよ。……とはいえ、こうして言い合っていても始まりませんね。なので私がそんな気持ちなのだと、それだけを分かってくれたら嬉しいです」
「……分かった」
どちらも自分のせいだと主張し、決して譲らない言い合い。
そんな事をしても話は進まないのは、悟も理解している。
なので、申し訳ないと思いつつも頷いた。
「では、その上で言わせてもらいますね」
亜梨栖が大きく息を吸い込み、真っ直ぐに悟を見つめる。
これまでほぼ無表情で悟の言葉を聞いていた彼女が、花が緩やかに咲くように口元を柔らかく撓ませた。
「それで良かったんですよ。私を言いなりにして、利用すれば良かったんです」
「…………やっぱり、か」
決意をしてから、全てを伝えた際に亜梨栖がどう反応するか、ずっと考えていた。
その中でも一番予想出来た返答に、呆れと悲しみを混ぜた溜息を吐き出す。
怒られたり引かれたりされるのなら、まだ救いがあった。
狂った人間性を一番大切な人に否定され、後悔ばかりだった悟が前を向けるのだから。
しかし、全てを肯定されるのが一番辛い。
肩を落とす悟とは対照的に、亜梨栖は歓喜を滲ませた微笑を浮かべる。
「当然でしょう? 兄さんがしてくれる事を、私が嫌がると思いますか?」
「そういう風にアリスを変えたのは俺なんだぞ?」
「それがどうかしましたか? 他人に変えられたのか、自分から変わったのか。そんなのはどうでも良いじゃないですか」
「どうでも良いって、そんなあっさり言うなよ」
亜梨栖ならば言いそうな事ではあるが、悟が同意する訳にはいかない。
苦言を呈した悟へと、自信に満ちた笑みが向けられた。
「本当に、どうでも良いんですよ。だって、結局は私が選択した事なんですから。誰にも、兄さんにも言われずに」
「……」
そんな風に思考するよう信用を勝ち取り、誘導したのも悟なのだ。
もう亜梨栖とて、それを分かっているだろう。
なのに怖いくらいに深紅の瞳は澄んでおり、その真っ直ぐさが悟の胸に刃として突き刺さる。
言葉を喉に詰まらせて黙り込んでいると、亜梨栖がくすりと小さく笑んだ。
「それは、五年経っても同じです。むしろ、兄さん的にはこちらの方が嬉しいんじゃないですか?」
「どういう事だ?」
「だって、私は五年の間に兄さんを忘れて、自由に生きるという道もあったんです。にも関わらずこうして会いに来たのは、他の誰でもない私の意思なんですから」
悟に依存していた亜梨栖であっても、五年も経てば変わる。
いくら悟でも、何も伝えずに去った幼馴染の心を縛り付けられる訳がない。
ならば、確かに亜梨栖の行動は紛れもない自らの意思のはずだ。
「あぁ……」
長年悟を苦しめていた、呪いのような自らの本性。
それを一番被害に遭った少女に受け入れられ、赦され、胸に澱んでいた黒い感情が流されていった。
安堵と元に息を吐き出し、ようやく真っ直ぐ前を向いて視線を合わせる。
淡く微笑んだ彼女は、夜桜に負けないくらいに輝いて見えた。
「もう私はあの頃の私じゃありません。貴方の悩みも、苦しみも、その本性も、全て知ってます」
噛み締めるように、亜梨栖が一歩だけ悟との距離を縮めた。
「そして、貴方を支えられるようになりました。料理も、家事も出来るようになりましたよ」
再び一歩。距離が縮まる。先程ある程度距離を縮めていたせいで、もう手を伸ばせば触れられる程に近い。
「色んな考えを知りました。貴方に会わない選択肢も、全て忘れて生きていく道もありました。それを分かった上で、私はここに居ます」
もう一歩。既に桜は見えず、悟の視界が銀色の少女に埋め尽くされた。
「私を貴方のものにしてください。それが、今の私の望みです」
淡く頬を紅潮させて、緩んだ口元をそのまま曝け出した笑みに、悟の心臓がどくりと跳ねる。
亜梨栖の考えを悟が誘導したとは、もう思えない。
(……本当に、成長したんだな)
再会してから何度も何度も思い知った事。それを改めて目の前で示され、目の奥が熱くなる。
同時に、その上で好意をぶつけられ、歓喜が沸き上がってきた。
その想いに応えるだけで、頷くだけで悟は幸せになるのだろう。
しかし、ちっぽけなプライドが邪魔をする。
「それには、まだ応えられない」
「…………まだ?」
一瞬だけ亜梨栖の顔が悲しみに彩られたが、すぐに困惑へと変わった。
言おうか迷ったものの、みっともない所を全部知られたのだ。
隠す理由はないと、頬を掻きつつ口を開く。
「年齢の問題は正直なところまだ引っ掛かるけど、俺はようやく何の憂いも無くなったんだ。まだアリスに今の俺を好きになってもらってない」
これまでの悟は、亜梨栖に負い目を感じながら接していた。
それが無くなった今。悟はようやく亜梨栖と真っ直ぐに向き合う事が出来る。
もちろん許されたからといって亜梨栖を利用はしないし、飽きたら捨てるような事など絶対にしない。
しかし、これからの悟を見て、改めて好きになって欲しいという想いも事実なのだ。
「……」
無茶苦茶な事を言ったからか、亜梨栖が呆けたように小さな口を開けて固まった。
それも永遠ではなく、少しずつ柔らかそうな唇の端が弧を描いていく。
「ふ、ふふふ……。あはははっ!」
笑い声は次第に大きくなり、亜梨栖が腹に手を当てて大笑いしだした。
しかし嘲笑などでは断じてなく、昔の天真爛漫な彼女がよく見せていた、ありのままの笑顔だ。
「何それ! 昔も今も、お兄ちゃんはお兄ちゃんなのに!?」
「まあ、そうだな。俺だって、過去の俺を全否定はしない。アリスが喜んでくれたのは事実なんだしな」
いくら取り繕っていたり自覚がない時があったとはいえ、昔の行動を全て切り捨てたりはしない。
あの時間があったからこそ、彼女と仲を深める事が出来たのだから。
子供のような我儘だなと改めて自覚し、頬を熱くしながらそっぽを向いて僅かに目を逸らす。
そして、亜梨栖も昔のような口調になったのが恥ずかしいようだ。
お互いにこほんと咳払いをして心を静めるが、彼女は大笑いしたせいで目の端に涙を浮かべている。
「なのにもう一度頑張るんですか? これまでも私に優しく接してくれたのに?」
「……いいだろ。気の持ちようだ」
悟に身を削ってまで優しくされる事を、亜梨栖は望まない。
なので、多少触れ合う事が増えるくらいだろう。
しかし、気持ちが変わるだけでも立派な変化だ。
唇を尖らせつつ告げれば、亜梨栖がくすくすと軽やかに笑う。
「分かりました。それじゃあ、今度は待ってていいですか?」
「ああ、待っててくれ。今度は俺から言うよ」
お互いに想いを向けながらも、決して付き合ってはいない。
そのくせ同居しているし、告白の約束を取り付けた今の状況がおかしくて、勝手に悟の頬も緩む。
ひとしきり笑い合った後、亜梨栖が頬を紅潮させて悟を見上げた。
血の色を移した瞳が、潤んでいるように見える。
「じゃあ待つ代わりに。その証明をください」
「証明って、何だよ」
「そんなの決まってるじゃないですか」
深紅の瞳が長い睫毛に覆われ、顎が僅かに上がった。
そんな体勢を至近距離でされれば、何をして欲しいかなど言われずとも分かる。
「……分かったよ。じっとしてろ」
日に焼けていない頬にそっと触れれば、亜梨栖の体がぴくりと跳ねた。
しかしそれ以上身動きはせず、頬を染めながらじっと何かの到来を待つ。
そんな少女の額へと、軽く唇を触れさせた。
「……………………はい?」
ぱちりと目を開けた亜梨栖が、何が起きたのか分からない、と言いたげに首を傾げる。
そんな姿も可愛いなと頬を緩ませ、彼女の脇を通り過ぎた。
首だけで振り返り、唇の端を吊り上げる。
「それは後でな。俺達、まだ付き合ってないんだし」
「そ、そんなぁ!?」
絶望に染まった悲鳴が背後から聞こえた。
本番は付き合った際にしたいのだが、流石に上げて落とし過ぎたかもしれない。
ちくりと胸が痛み、苦笑を浮かべつつ体も振り返った。
「帰ろうアリス、俺達の家に」
手を伸ばすと、打ちひしがれたような表情に見る見るうちに歓喜の色が宿る。
「はい! 帰りましょう!」
咲き誇る桜に負けないくらいの満面の笑みを浮かべ、亜梨栖が悟の手を握った。
滑らかな感触に心臓がどくりと跳ねるものの、決して手を放しはしない。
幼馴染でありながらも、微妙にすれ違っていた悟達。
ようやく全ての蟠りが解け、手を繋ぎながら車へと向かうのだった。




