第46話 悪意の自覚
「私、全然知りませんでした。そんな事があったんですね……」
悟の生きて来た中で一番の苦い思い出を語れば、亜梨栖が驚いたように瞳を大きく見せていた。
あの頃は毎日一緒だったので、本来ならば知られてもおかしくはない。
「知らなくても無理はないさ。ちょっと学校で喧嘩したって言っただけなんだからな」
「まあ、嘘ではないですが覚えていないので、あの頃の私はそれを信用したんですよね?」
「ああ。本当にあっさり信じてくれたよ」
当時の亜梨栖は純粋で、悟の言葉を疑いなく信じてくれた。だからこそ誤魔化しに成功したのだから。
過去の話が一段落した事で、亜梨栖が首を傾げる。
「兄さんが大変な思いをしたのは分かりました。でも、それが何で私から離れる事に繋がるんですか?」
「正直な事を言うと、あのクラスメイトと喧嘩した事はどうでもいいんだ。もう名前も覚えてないくらいだし」
クラスで浮こうが、同級生と喧嘩しようが一向に構わない。
それよりも大切な事があったし、今でもあの選択は間違っていないと自信を持って言える。
悟は聖人君子でもなければ、関わってくる人全員と仲良くなれるとも思っていないのだから。
とはいえ、そもそも喧嘩しないように普段から振る舞ったり、喧嘩ではなく別の方向で復讐すべきだったりとは思うが。
「では、何で?」
「問題は、あいつが言った『その子をお前好みにでもするつもりか?』っていう言葉だ」
「兄さんは私にあれこれ言いませんでしたよ?」
きょとんと首を傾げた亜梨栖の言葉は正しい。
悟は亜梨栖を縛る事なく、好きにさせていたのだから。
いよいよ本題に入る時だと震える指先を握り込んで隠し、大きく息を吸い込む。
「……ああ。そうしないように、努力したんだよ」
「…………え?」
深紅の瞳が大きく見開かれ、瑞々しい唇から呆けたような声が上がった。
亜梨栖の表情が驚きに固まっている今のうちに、最後まで言っておきたい。
「あいつに言われて自覚したんだ。俺は亜梨栖を独り占めして、自分の都合の良いように変えたかったんだって」
喧嘩したクラスメイトに憤ったのは、悟と亜梨栖の関係を侮辱されたからだと最初は思っていた。
しかし家に帰り着く頃には頭も冷え、醜い本性に気付いてしまったのだ。
「図星だったんだよ。何一つ、否定出来なかったんだ」
幼稚園児の頃から親密な関係の年上の男性。
そんな悟に亜梨栖が絶対的な信頼をしていたのは分かっていたし、おそらく本当に良いように変えても、彼女は喜んで受け入れただろう。
それをしたいと、いつの間にか悟自身が自覚しないうちに望んでしまっていた。
「小学生を自分好みに変えようとする中学校男子なんて、気持ち悪過ぎる。犯罪者どころじゃない。精神異常者だ。化物なんだよ」
「そんな、事――」
「あるんだ。俺はそんな事に悦びを見出す、破綻した人間なんだ」
胸が痛過ぎて、もう亜梨栖の顔を見ていられない。
乾いた笑みを零し、顔を俯ける。
「しかも女性を良いように扱い、利用する人間を俺は既に知っていた」
「兄さんの、お父さん、ですよね?」
「ああ。母さんを利用するだけ利用して、飽きたら捨てた最低最悪の父親。……程度や状況は違えど、俺はあいつと性根が同じだったんだよ」
自分好みに亜梨栖を変えるのは、利用しているのと同じだ。
もしかすると、亜梨栖が自分好みにならなければ悟も彼女を捨てるかもしれない。
あの時の悟はそんな未来の可能性を考えたくなくて、恐怖で胸を満たしたまま帰って来たばかりの玄関で喚いた。
『違う違う違う! 俺はあいつと同じなんかじゃない! 母さんに迷惑を掛けないようにしてきた! アリスを利用なんてしてない! だから違うんだ!』
髪を掻き毟り、必死に否定をしてももう遅い。
学校で喧嘩沙汰を起こしたのは誰なのか。
亜梨栖に対して何をしようとしていたのか。
現実と自分の心を誤魔化す事など出来ず、かと言って素直に認める事は絶対に許されない。
行き場の無い感情をぶつけるように、玄関の扉に頭を打ちつけた。
鈍い痛みが頭を突き抜けるが、それでも止めず何度も行う。
そうしていると痛みが酷くなり、床にへたり込んだ。
『………………は、はは、はははは!』
ここまで来れば悟も性根を飲み込める。
あまりの狂った性根に、怒りどころか笑い声が出てしまった。
『そうか! クソッタレな父親の息子はクズだったって事か!』
頬に流れる何かを強引に拭い、思考を巡らせる。
そんなものを流す資格や時間など、悟にはない。
悟がクズ人間なのだと分かったのなら、対策は出来るはずだ。
『アリスから離れないと……。でも、いきなり家に行かなくなったら絶対こっちに来るよな。それに、奏さんにアリスの世話を頼まれてる。だからやらなきゃ。なのに、俺は……!』
何とかなると思ったのに、どれだけ考えても答えは出ない。
急に離れれば、亜梨栖が心配してしまう。
それに、悟は良い子でなければならなかったのだ。
学校で喧嘩沙汰になっただけでも駄目なのに、これ以上彩や奏を困らせてはいなけない。
そういう風に建前を作り、決して本心がバレないように心を固めて三城家に向かった。
『お兄ちゃん!? その顔どうしたの!?」
『……ちょっと、喧嘩してね。大丈夫だよ』
『ううん、大丈夫じゃない! 手当するね!』
『…………ありがとう。ありがとう、アリス』
きちんと誤魔化せているだろうか。これから本性を隠し通せるだろうか。
湧き上がる不安を必死に抑え込み、悟は亜梨栖の手当てを受けるのだった。
「顔とか頭よりも、あの時は心の方が痛かった。母さんや奏さん、アリスを騙してたんだからな」
側から見れば、怪我をした兄と手当する妹のように見えたのかもしれない。
兄のような人物が、どれだけ狂っているのか分からないのだから。
どれほど異常な状況だったのか改めて理解出来て、引き攣った笑みが溢れた。
「…………あぁ。この前の顔は、その時の」
「アリス?」
「いえ、何でもありません」
殆ど聞こえなかった呟きに僅かに顔を上げれば、亜梨栖はゆっくりと首を振る。
その顔には何の色も浮かんでおらず、視線を合わせたくなくて再び顔を俯けた。
「それからはアリスに悟られないよう、幼馴染としての立場に抑えていた。アリスが成長しても、何も言わないようにして」
「なら、それで良かったんじゃないですか?」
透明な声からは、亜梨栖の感情が窺えない。
完全に引いて話を打ち切られると思ったが、どうやらまだ聞いてくれるらしい。
「……無理だった。学校に関しては完全に一人になったけどどうでも良かったし、すぐ卒業したから気にしてもいない。でも俺が高校生になって、亜梨栖もどんどん成長していった」
小学生中学年くらいから人は思春期に入り、凄まじい成長をしていく。
もちろんそれは子供ながらにだが、醜い人間である悟には、あまりにも魅力的過ぎた。
しかも思春期特有の男を毛嫌いするような事もなく、亜梨栖がずっと悟を慕ってくれていた事も、精神に悪かった。
「独り占めして、自分の好みに変えたい。そんな思いが膨らんで、どうしようもなくなった。だから、母さんと奏さんに進路も含めて相談したんだ」
あの時の事は、今でもよく覚えている。
耐えに耐えた高校三年の進路希望時。亜梨栖が寝た後に彩と奏に相談した日の事を。
『もう、俺には無理です。これ以上アリスの傍に居たら、あの男と同じくアリスの人生を狂わせてしまう。お願いです、家を出させてください』
机に頭を擦り付け、申し訳なさに涙を堪えながら、悟の内心も含めて全てを二人には話した。
幸い怒られたり軽蔑されたり等はなかったものの、このままでは駄目だと分かってくれたらしい。
当然だ。小学生を利用する高校生など、傍には置いておけないのだから。
そして三人で話し合った結果、亜梨栖には何も話さず、伝えず、家を出る事になった。
「これが、俺の全てだ。幼馴染に何も言わず突然居なくなった、おぞましい人間の本性だよ」
ゆっくりと顔を上げて、亜梨栖を見つめる。
全てを話して胸は軽くなったが、それだけで話は終わらない。
どんな言葉が飛んで来てもいいように覚悟すると、亜梨栖がルビーの瞳を瞼の奥へと一度隠した。
再び見えた瞳には様々な感情が渦巻いており、悟には彼女が何を考えているか読み取れない。
「……話は、分かりました。私を省いて事を進めたのも、私が反対すると思ったんですよね?」
「ああ。あの時のアリスは……。まあ、言っちゃ悪いけど、俺が依存させてたからな」
頼れる兄だと信頼させ、ほぼ悟が居ないと生活出来なくなっていたのだ。
家事だけでなく料理も悟がしていたから、ではない。
成長したとしても悟達三人以外に亜梨栖は決して心を許さず、友達一人すら出来ていなかったのだから。
そんな子が悟が出て行くと言った際に、反対しないはずがない。下手をすると、何が何でも着いて来ようとする。
残される亜梨栖の事を考えると凄まじく胸が痛んだが、かといってあの時は他に方法もなかった。
どれだけ酷い人間だと自虐しつつ呟けば、亜梨栖は呆れ気味に小さく笑んだ。
「違いありませんね。私の世界は、兄さんを中心に回ってますから」
「……それは、今もか? あの話を聞いてもか?」
もう悟の全てを伝えたのだ。自分を他人が良いように操るなど、普通は気持ちが悪くなって当たり前だろう。
しかし人形のように整った顔には、負の感情などほんの少しも入っていなかった。
「当然ですよ。とはいえ、まずはここから始めるべきですね」
ゆっくりと、銀色の少女が悟へ近付いてくる。
はらりと桜の花びらが舞い、その中を歩く少女は別の世界の住人かと思う程に綺麗だ。
そんな少女が、悟の目の前で止まった。
「すみません。松原悟さん」
深く腰を折ったせいで、銀色の髪がはらりと流れるのだった。




