第42話 午前中の過ごし方
「起きてください、兄さん」
「ん……」
この一週間で再び聞き慣れた声が、微睡んでいた悟の意識を覚醒させる。
ただ、起きる理由はそれだけでなく、腹に乗っている何かに違和感を覚えたからだ。
ゆっくりと目を開ければ、銀色の少女が悟に跨っているのが見えた。
「おはようございます」
「……おはよう」
穏やかな笑みを湛えている亜梨栖に、頬を引き攣らせる。
顔が近かったのなら悲鳴を上げたかもしれないが、背を起こしてくれていて良かった。
「それで、どうして俺の上に乗ってるんだ? 月曜日以来だろ?」
月曜日に注意した際、亜梨栖に「じゃあ重くならないように乗りますね」と言われた。
その後警戒していたものの、火曜日からは悟に乗って来ず、肩を揺らして起こしてくれたのだ。
なので安心していたのだが、まさか再び乗って来るとは思わなかった。
疑問をぶつければ、悪戯が成功した子供のような笑顔を亜梨栖が浮かべる。
「偶にやるからこそ効果があるかなと思いまして」
「休日って、好きなだけ寝てもいいんじゃなかったか?」
世話をしてくれる人に向かって怠惰な生活をしたいと言うのは、良くない事だと分かっている。
しかし以前許可されたにも関わらず、強引に起こされたのだ。文句の一つくらい言わせて欲しい。
じとりとした視線を送れば、痛い所を突かれたという風に亜梨栖が顔を曇らせた。
「すみません。ちょっとテンションが上がってやってしまいました」
「もしかして、夜が楽しみで?」
「はい。話を聞けるというのもそうですが、デートですからね」
「デートって……。いやまあ、広義的にはそうだけどさ」
男女が一緒に出掛ける、というのがデートの意味の一つなので、決して間違ってはいない。
しかし、ただの友人とはとても呼べない程に距離が近く、けれど付き合ってはいない悟達では意味が変わりそうだ。
亜梨栖が好意をぶつけてきているのも、それに拍車をかけている。
呆れ気味に呟けば、形の良い眉がへにゃりと下がった。
「……浮かれてごめんなさい」
「つ、使い方は合ってるから。俺の上に乗って起こすのも、程々にしてくれるならいいぞ」
亜梨栖を傷付けたくて、デートという言葉を訂正した訳でなはい。
慌ててフォローを入れつつ、少し前とは違って妥協案を出す。
今も薄い毛布越しではあるが真っ白な太腿や柔らかな臀部が触れ合っており、許可すれば心臓は虐められ続けるのだろう。
しかし、亜梨栖を励ます方が大切だ。
余程嬉しかったのか彼女の機嫌はあっさりと直り、深紅の瞳が意地悪気に細まった。
「ふふ。ちょっとは許してくれるんですね?」
「……言葉にしなければ、本当に程々にさせたんだけどなぁ」
「あ、やっぱり今の発言は忘れてください! 無しです、無し!」
亜梨栖が一瞬で焦った風な顔へと表情を変え、悟の肩を揺さぶる。もう普段の無表情など見る影もない。
愛らしいだけでなく微笑ましさすら感じるのだが、いい加減この体勢を何とかしなければ。
「じゃあ、体を起こさせてくれたらいいぞ」
「分かりました! どうぞ!」
驚くほどにあっさりと亜梨栖が悟の上から退き、体が自由になる。
「んー!」
ベッドから降りて背伸びをすれば、パキリと背中が鳴った。
大きく息を吐き出し、先にベッドから降りた亜梨栖の様子を窺う。
すると、これまでの無表情は何だったのか、という程にゆるゆるの頬を見せていた。
「今度から遠慮なく出来るー♪」
火曜日以降、悟に乗って起こさなかったのは、何だかんだで気にしていたからのようだ。
おそらく、誘惑という体で「じゃあ重くならないように乗りますね」と言ったのだろう。あるいは、後で悔やんだのか。
何にせよ、これからは偶に腹に乗って来るつもりらしい。
「……ホント、テンション高いなぁ」
これからの事など何も分からないのに、亜梨栖がご機嫌に笑む。
デートを喜んでくれるのは嬉しいが、先が不安で苦い笑みを零すのだった。
悟が起きた事でテンションがある程度落ち着いたらしく、亜梨栖は普段の平静な態度へと戻った。
とはいえ先程の一件があったからか、雰囲気は柔らかい。
「休日のこんな時間に起きたのは久しぶりだなぁ。いただきます」
「いただきます。……遅めの朝食ですが、こういう休日も悪くないでしょう?」
「まあ、確かに」
悟が起こされたのは、平日の起床時間より二時間も過ぎた頃だった。
そして、今は亜梨栖の作ってくれた遅めの朝食を摂っている。
「でも日中は暇じゃないか? どこかに出掛けたいなら分かるけど」
「特に出掛けたい場所はないですね。のんびり出来たらそれでいいです。強いて言うなら、お昼ご飯の買い物に行きたいですね」
「それくらいなら俺一人でも行けるぞ?」
日傘があるので大丈夫だが、亜梨栖とて進んで日の下に出たくはないはずだ。
悟だけでも何とかなると口にすれば、紅玉の瞳がすうっと細まった。
「駄目です。私も行きます」
「……分かったよ」
悟の勘違いでなければ、たかが買い物であっても一緒に行きたいのだろう。
嬉しくはあるので苦笑しつつ予定を決め、朝食を終えてソファに凭れる。
亜梨栖はというと、ソファには座らず目の前のテーブルに勉強道具を広げた。
「一年の終わりなのに勉強か?」
「はい。春休みの課題は終わってますが、復習しておこうかと思いまして」
「そっか。星爛だもんな。学生は大変だなぁ……」
星爛高校のレベルが高いから、というのもあるだろうが、復習するのは勤勉な証拠だ。
とはいえ、休みの日であってもほぼ毎日勉強するのは苦痛だろう。
学生の苦労に溜息を零すが、亜梨栖は勉強に取り掛かりながら綺麗な無表情をしている。
「学生は学生で苦労しますが、社会人も苦労しているでしょう?」
「もちろんだ」
極端な事を言えば、勉強するのが仕事なのは学生で、お金をもらう為に仕事をするのが社会人だ。
どちらが簡単かと比べたくはないが、社会人には社会人なりの苦労がある。
今はそうでもないものの、社会人とて休日に勉強する事はあるのだから。
「そういう事です。悪い成績を取ってお母さんや兄さんに心配されたくはないですし、高校生なりに頑張りますよ」
「それが頑張る理由ってのもなぁ……」
親孝行と言うのかは分からないが、親に心配を掛けさせないというのは立派な心掛けだ。
同じように、悟に心配を掛けさせたくないのだろう。
とはいえ、自分の為ではなく周囲の為に頑張る亜梨栖に小さな呟きを零す。
何かしてあげたいと思うが、勉強の手助けになるような事などすぐに出来はしない。
悟に出来るのは亜梨栖の邪魔をしない事くらいだろう。
「邪魔なら部屋に引っ込もうか?」
「いいえ。兄さんさえ良ければここに居てください」
「スマホを弄ったりしかしないぞ?」
大学までは割と成績が良かったものの、高校の授業内容など仕事で使わない事以外は忘れてしまっている。
なので、亜梨栖を助ける事など不可能だ。
にも関わらず、彼女は柔らかく笑む。
「はい。それで構いません。むしろ、それが良いんです」
「……物好きだなぁ」
勉強しているすぐ傍で誰かがのんびりしているなど、普通は集中力が乱される。
それでもリビングに居てくれというお願いに首を捻りつつ、のんびりと午前中を過ごすのだった。




