第41話 誘惑は続く
亜梨栖と一緒に風呂に入っていたが、彼女がしっかり体を洗うとの事で一足先に悟は出た。
上がる際に「籠の中は見ないでくださいね」と言われたので目を向けないようにしつつ、着替えを終えてリビングのソファに座る。
「流されてしまった……」
風呂では何も起きないだろうと高を括っていたら、剛速球が飛んで来た。
しかも悟が何も言っていないせいで、亜梨栖は悟の考えが変わっていないと思ってしまっている。
世話を焼かれる嬉しさに何も言えなかったが、やはりきちんと伝えて止めれば良かったと、今更ながらに後悔が襲ってきた。
大きく肩を落とし、濡れた髪をぐしゃりと潰す。
「アリスは凄いな。二回も振られて、その上であんな事が出来るんだから」
先程の大胆な誘惑だけではない。今日まで亜梨栖は誘惑という名のお世話をしてくれた。
振られた人に振り向いてもらう努力をし続けるのがどれほど大変なのか、悟には想像も出来ない。
しかも、嫌われたかもしれないという恐怖を抱きつつも、亜梨栖は会いに来てくれた。
それだけでなく同居まで提案し、更には告白までしてくれたのだ。
ならば、努力した亜梨栖に報いるような事を悟もすべきだろう。
「となれば、いつ、どこで言うかだよな」
更に引き延ばすのも悪い気がするが、よくよく考えるとリビングでさらりと話すのも悪い気がする。
とはいえ、先程のような事をされない為にも、予定の確認と悟の意思だけはすぐに伝えなければならないのだが。
「三月末に何かイベントはないかなぁ……」
亜梨栖が喜んでくれて、全てを伝えるのに相応しいものがないかと、スマホを弄る。
すると、悟の目がとある行事に惹き付けられた。
この時期でなければ出来ないが、普通ならば亜梨栖に負担を掛けてしまう行事。
しかし、やりようによっては彼女に負担を掛ける事はなくなる。
「これがいいかもな」
善は急げと周辺の情報を調べていれば、脱衣所の扉が開いた。
「ふぅ……」
普段と同じショートパンツにシャツ一枚という、ラフな格好で亜梨栖が満足そうに溜息をつく。
そのままリビングに来るが、形の良い眉がへにゃりと下がった。
「すみません。兄さんの髪、乾いてしまいましたね」
「こんなの気にすんなって。むしろ、いつもやってくれてありがとな」
「気にするに決まってるでしょう。私の楽しみだったのに……」
悟の髪を乾かせないのが余程不満なのか、亜梨栖が拗ねたように唇を尖らせる。
義務としてやっていたとは思っていないが、彼女の楽しみとなっていた事に胸が温かくなった。
同時に申し訳なさも沸き上がり、悟の顔に苦笑が浮かぶ。
「男の髪を乾かすだけだぞ?」
「それがいいんじゃないですか。兄さんのお世話をするのは私のご褒美です」
「ご褒美の基準が壊れるなぁ……」
ご褒美、というのは普通何かをもらう事だと思うのだが、亜梨栖は違うらしい。
だが、それだけがご褒美ではない事を悟は知っている。
呆れ気味に呟いてソファから移動し、カーペットに座って悟の前の床をぽんぽんと叩く。
「なら、俺がアリスの髪を乾かすのはご褒美にならないのか?」
「…………それも、最高のご褒美です」
「ならおいで」
「うぅ……。失礼します……」
世話をされるのがご褒美だと、素直に認めるのは恥ずかしいようだ。
亜梨栖が淡く紅色に頬を色付かせ、悟の前に座る。
今はあまり見せないが、元来の甘えたがりは変わっていない。
それが改めて分かり、頬を緩めつつ湿り気を帯びた銀の髪に温風を当てていく。
「……ホント、今日の兄さんは大胆です」
「酔ってるからなぁ」
実際のところ、風呂での一件や先程真剣に調べものをしていたせいで、殆ど酔いは覚めている。
しかし大胆な誘惑をしてくれた亜梨栖に今すぐ何か返したくて、言い訳に使ってしまった。
彼女は悟の言葉をあっさりと信じ、肩の力を抜いて悟に身を委ねる。
会話はそれ以降続かず、あっさりと髪の手入れは終わった。
「ありがとうございます。流石兄さんですね」
「そう言ってもらえて良かったよ」
昔もそれなりに髪の乾かし方を調べはしたが、これが日課になってからもう一度調べなおしている。
なのでそれなりに自信があったが、褒められるとやはり嬉しい。
満足そうに笑みつつ髪の調子を確かめている亜梨栖の姿に、唇が弧を描いた。
(多分、このタイミングだな)
いつ提案しても亜梨栖は頷くだろうが、この穏やかな空気の中で切り出すのが一番好ましい。
しかし、口にしてしまうと後には退けなくなる。
怖気づきそうになる心に活を入れて、おずおずと口を開いた。
「……なあアリス。明日の夜は空いてるか?」
「夜ですか? 空いてますけど……」
日中ではなく、日が沈んだ後の予定を聞いたのだ。亜梨栖からすれば、何が何だか分からないのだろう。
無垢な表情で首を傾げる彼女が愛らしくて、少しだけ心が解れた。
「ちょっと出掛けたいんだ。場所はまあ、秘密だけど」
「ふうん……。夜に、ですか」
「ああ。それと、その時に聞いて欲しい事がある。……俺がどうしてアリスから離れたのか、だ」
もう悟の心は変わっているのだと、真っ直ぐに伝えた。
予想通り、亜梨栖がルビーの瞳を見開いて驚きを露わにする。
「明日でいいんですか? 日曜日が残ってますよ?」
「日曜日はアリスにゆっくり考えて欲しいんだよ。俺の全部を知って、それでも一緒に暮らしたいかを」
「そんなの、考えるまでも――」
「頼む、アリス。ちゃんと考えて欲しい」
余裕すら見える態度で笑みを浮かべる亜梨栖に、深く頭を下げた。
何も知らない今の彼女に懇願するのが間違っている事くらい、悟も理解している。
しかし、安易に決めて欲しくないのだ。
悟の意思を汲み取ってくれたようで、亜梨栖が仕方ないなという風に苦笑する。
「分かりましたよ。後悔がないように、しっかり考えます」
「ありがとう、アリス」
もうこれで後には退けなくなった。
その事実が悟の肩にプレッシャーとして圧し掛かり、ドッと疲れが押し寄せてくる。
ソファに腰を下ろして体の力を抜けば、亜梨栖が肌が触れ合うくらい近くに座った。
「それはそれとして、私は喜んでいいですよね?」
「喜ぶ?」
「はい。私の宣言した誘惑が、後一日を残して成功したんですから」
「……いや、俺が全部話すのと世間体を変えるのって、別問題だと思うんだが」
全てを話した上で亜梨栖が悟を受け入れてくれるのか、一緒に居てくれるのか、というのが一番の悩みだ。
世間体を変え、付き合うかどうかはその後だろう。
とはいえ、彼女の誘惑が話す切っ掛けになったも確かだ。
成功という点では決して間違いではないものの、ぬか喜びさせるのは良くない。
胸の鈍い痛みを堪えつつ言葉を紡ぐと、亜梨栖は目をぱちくりとさせ、それからやけににやっとした笑みを見せた。
「でしたら、まだまだ誘惑した方が良いですね」
亜梨栖が悟へと身を寄せ、お互いの足が触れ合った。
風呂上がりの温かい体に、ショートパンツのせいでよく分かる瑞々しい肌。
シトラスとシャンプーの混ざった男心をくすぐる匂いが鼻を掠め、心臓がどくりと跳ねる。
「マジで?」
「マジです。今日は時間もいっぱいありますし、暫くこのままですよ」
「……しまった。言わない方が良かったかもなぁ」
がっくりと肩を落としつつも、決して本心から落ち込んでいる訳ではない。
亜梨栖の誘惑を嬉しく思いながら、ソファの端で身を寄せ合うのだった。




