第38話 週末のご褒美
家に帰ると、これまで通り亜梨栖が晩飯と風呂の用意をしてくれていた。
全てを伝える決意をしたものの、晩飯を摂りながらや沸いた風呂を放って長話をするのは、支度をしてくれた彼女に申し訳ない。
それに、何かをしながらさらりと話せる話題でもないのだ。
今まで晩飯や風呂の最中に何も起きなかった事もあり、取り敢えず後回しにしてテーブルに買ってきた缶を並べる。
「家で酒を飲むのは随分久しぶりな気がするなぁ」
亜梨栖が引っ越して来る前に飲んでいるのだが、そう思えるのは彼女との生活が充実していた証だ。
しかし数本だけだが、仕事終わりに酒が飲めるのは嬉しい。
それが一人寂しくではなく、亜梨栖が一緒に居るのだから尚更だ。
とはいえ彼女は酒が飲める年齢ではないし、悟としては一緒に食事できるだけで十分だった。
なのでつまみも買うつもりだったのだが、「買うのはお酒だけにしてください」と言われたのだ。
疑問に思ったものの準備を終えて待っていると、その結果が悟の目の前に現れた。
「おぉ……」
透き通った黄色がかった液体の中に、ベーコン、エリンギ、しめじ等の食材が浮かんでいる。
晩飯、というよりは酒のつまみである料理に、感嘆の声が出た。
そして作った幼馴染が、誇らしげな笑顔で胸を張る。
「どうですか?」
「美味そう。というか、アヒージョなんて家で作れるんだな」
「ええ。簡単でしたよ」
居酒屋等でしか見る事が出来ない料理が、目の前に置かれているのだ。
難しいものだと思っていたが、意外とそうでもないらしい。
亜梨栖も自分のアヒージョを持ってきて、テーブルに座る。
「アリスも食べるのか?」
「はい。これが私の晩ご飯です」
「……俺は酒があるからいいけど、アリスは足りなくないか?」
アルコールで腹は満たせるので、悟は満足出来るだろう。
しかし、亜梨栖が持ってきたアヒージョは小さめの器だった。
いくら女子とはいえ、それだけでは物足りないはずだ。
心配になって尋ねれば、彼女は柔らかく笑んで首を振る。
「大丈夫です。残ったオリーブオイルで料理しますから」
「オリーブオイル? ……確かに、アヒージョに使うのはオリーブオイルだけどさ」
悟とてアヒージョがどのようにして作られるのかは、ある程度知っている。
ただ、それなりに量があるのだ。何に再利用するのか、全く分からない。
悟の呟きに、亜梨栖が柔らかく唇をたわませる。
「後でのお楽しみですよ。兄さんも良ければ食べますか?」
「シメにちょうどいいかもしれないし、お願いしようかな」
「任せてください。それじゃあ、まずは食べましょう」
「だな。いただきます」
「いただきます」
アヒージョと酒で腹は膨れるが、満腹にはならないだろう。
それに、どうせ今日はもう家を出る予定などないし、腹一杯になるまで食べてもいい。
遠慮なく甘え、オリーブオイルに浸されたベーコンを口に含む。
「あぁ……。うめぇ……」
にんにくとオリーブオイルがベーコンに絡み、濃い味が口の中に広がった。
もう我慢が出来ず、開けておいたビールを思いきり呷る。
アヒージョとビールの辛さが混じり合い、体にアルコールが染み渡っていく。
「っかー! たまんねぇー!」
幸せ、というものが料理として実在するのなら、こういう物を言うのだろう。
少なくとも、この一瞬だけで悟の一週間の頑張りは報われたと断言出来る。
ビール缶をテーブルに置き、溜息と共に疲れを吐き出した。
「……そういうのを見ると、兄さんが大人になったって改めて実感しますね」
嬉しいような、呆れるような微妙な笑顔で亜梨栖が呟く。
料理を喜んでもらえるのは嬉しいが、悟のみっともない姿に幻滅している、といった所だろうか。
「情けない大人で悪いな。でも、大人なんてこんなもんだぞ」
ビール一杯で上機嫌になり、つまみと合わせて晩酌するだけで幸せな気分を味わう。
昔、悟が思い描いていた立派な大人とはかけ離れている気がするが、これが殆どの大人の姿だ。
とはいえ、高校生である亜梨栖の前でこんな姿を見せるのは申し訳ないとも思う。
嘆息しつ肩を落とすが、亜梨栖は穏やかな笑みを浮かべて首を振った。
「いえ、情けないとは思ってませんよ。大人だって気を抜く時はあるんですから」
「……有り難いけど、甘やかし過ぎるなよ?」
再会した当日はあれこれと怒られたが、それ以降亜梨栖に本気で怒られた事はない。
むしろ悟を肯定し、甘やかす事が殆どだった。
このままではダメ人間にされそうな気がして、背筋が寒くなる。
亜梨栖が口角をくいっと上げ、悪戯っぽい笑みを浮かべた事で悪寒が酷くなった。
「甘やかしているつもりはありませんが、兄さんが私から離れられなくなるなら、それも悪くないですね」
「また自堕落な生活に戻るぞ」
「兄さんの性格上、私と一緒に居ながらそこまでだらける事は出来ませんよ」
「……どうだろうな」
深紅の瞳には悟への絶対の信頼がこもっており、あまりにもその感情が眩し過ぎて目を逸らす。
亜梨栖の言葉が、頼りきりになっては駄目だという悟の内心を正確に見抜いていたから、というのもある。
見透かされた嬉しさと恥ずかしさを誤魔化す為に、アヒージョとビールを口に含んだ。
「ん……。美味い。酒が進むなぁ」
「そこまで言うなら、私も飲んでみたくなるんですが」
深く追求する気はないようで、亜梨栖が興味津々といった風に瞳を輝かせてビールを見つめる。
ただ、その提案は絶対に受け入れてはならないものだ。
「未成年はお酒禁止だ」
「家の中なので誰にも知られませんよ?」
「社会人が同居してる高校生に酒を飲ませるって、一発でお縄だっての。却下だ却下」
実際のところ、高校生でも酒を飲んでいる人は居るかもしれない。
それに、この家の中だけで完結するのなら、絶対に他の人にバレないだろう。
だが、それが亜梨栖に酒を飲ませて良いという理由にはならない。
じとりと睨めば、彼女の頬が僅かに膨らんだ。
「ちょっとだけでも」
「駄目だ」
「……けち」
「拗ねても無駄だからな」
露骨に拗ねる亜梨栖はとても可愛らしく、容赦なく悟の理性を揺さぶってくる。
しかし社会人として、保護者代わりとして、これだけは絶対に譲れない。
駄々を捏ねても無駄だと悟ったようで、亜梨栖が溜息をついて食事に戻る。
「……大人はずるいです」
「むしろ、狡いのが大人だ。世の中の闇を知れたな」
「こんな形で知りたくは無かったですねぇ……」
その後も恨みがまし気な視線を亜梨栖に向けられたが、流していると諦めたのか、彼女の機嫌が直っていった。
なのでアヒージョに舌鼓を打ち、穏やかな空間の晩酌を楽しむ。
あっという間に酒も食べ物も無くなり、キッチンへと向かった。
「美味かった、ごちそうさま。それと、これを使うんだろ?」
亜梨栖は悟よりも早く食べ終わっており、先程からキッチンで作業をしている。
お礼を言いながら皿を渡せば、彼女が柔らかな微笑を浮かべて受け取った。
「ありがとうございます。それにナイスタイミングですね」
「うん? ……あぁ、そういう事か」
コンロには鍋とフライパンが置いてあり、フライパンは空だが鍋は何かを煮ていた。
中身を見ると、パスタが茹でられている。
そして、パスタにオリーブオイルと来れば、酔った頭でも何を作るのか分かった。
「ペペロンチーノだったら無駄にならないな」
「はい。それじゃあやっちゃいますね」
亜梨栖がパスタの湯を切り、オリーブオイルと共にフライパンへとそれを入れる。
はしたないと言われればその通りなのだが、残り物の再利用という点で見れば、亜梨栖の考えは素晴らしい。
少なくとも悟は非常に好感を持てるし、文句を言うつもりもない。
ただ、彼女が食べていたアヒージョの残りも一緒に混ぜられていたのが気になった。
「……なあ、一緒に混ぜると間接キスにならないか?」
「え? 今更そんな事を気にするんですか?」
何を言っているのか分からない、という風に亜梨栖がきょとんと首を傾げる。
二十歳の中ば近くにもなって、こんな事を指摘するのもどうかと思う。
しかも、昔は間接キスなど全く気にせず一緒に食べていたのだ。
亜梨栖の態度も理解出来るが、二人共成長したという事を考えて欲しい。
「まあ、そりゃあな。アリスは嫌じゃないのか?」
「嫌な訳がないでしょう。兄さんとの間接キスなら喜んでです」
「う……」
ストレートに好意をぶつけられ、呻く事しか出来なかった。
羞恥が沸き上がり、悟の頬へと集まっていく。
酒が入っているので誤魔化せるかもしれないと思ったが、亜梨栖が悪戯っぽく目を細めた。
「初心ですねぇ」
「……悪いかよ」
「いえ、全然。むしろ可愛らしいです」
「ああもう、茶化すんじゃない!」
この場に居たらずっと揶揄われそうで、リビングへと逃げ出す。
そんな悟へと、鈴を転がすような笑い声が届いたのだった。




